読んでからかなりタイムラグがあるので、簡単にまとめておきたい。本書は図書館でたまたま見つけて、タイトルが気になって借りてみた。
著者はカルロ・ロヴェッリさん(1956-)というイタリアの理論物理学者。本書は10年以上にわたりイタリアの新聞各紙に発表してきたコラムから、約50篇を厳選して収録したとのこと。
今日、教養ある人物が、科学のことはまったくわからないんでねえ、と冗談めかして自慢げにいうのに出くわすと、詩なんか一つも読んだことがないんでねえ、と誇らしげにいう科学者に出くわしたときと同じくらい気が滅入る。詩と科学はいずれも、世界について考える新しい方法を作り出し、世界をよりよく理解しようとする精神の発露なのだ。(018)
私は科学にはまだ近いが、詩には遠い。現代詩を詠んでみたいという勝手な(あるいは無謀な)野望は密かにあるのだが。イタリアにおいて詩は日本人が思い描く詩とはまた別の意味や深い文化的な価値を持つのかもしれない。私は詩として思い浮かべるのはケルルンクックくらいだ。たまには詩を読んでみようかしら。
挑戦的な理性の叫び-自分が無知だということを知りながら、それでも他者に知をゆだねることを拒む理性の叫び-がある。それは、反啓蒙主義に対する地味で小さいが、きわめて知的な宣言であって、かつてないほど今日性を帯びている。(041)
無知の知、だけでなく、無知の知を認識しつつも、その知を誰か自分とは別の者にゆだねるのを拒否する。こういった姿勢は大事なのは同意するけれど、高名な理論物理学者であるからこそ説得性を帯びる。凡人が言っても、はいはい好きにすればという印象になるな。
大学は今、わたしたちに何を提供できるのか。コペルニクスが見いだしたのと同じ豊かさを、提供できる。これまでに蓄積された知識とともに、知識は変えることができ、実際に可変であるという自由な発想を。これこそが大学のほんとうの意義だとわたしは思う。(131)
大学で勤める人たち(大学教員)は勤務先である大学の意義を考えがちであろう。しかもその意義を表明しなければならないのは、それだけ大学の意義が何なのか問われているからだ。日本と同様のことがイタリアでも起きているのであろう。膨大な知識があり、しかしそれは不変ではなく、新たな発見によってダイナミックに変貌していく。その最前線に大学はある。そこに価値があるといえるが、日本の大学にはお金がないのが辛いところ。
わたしたちの知識は不完全だが有機的だ。絶えず育っていて、あらゆる部分がほかのあらゆる部分に影響を及ぼす。哲学に耳を閉ざした科学は、浅薄になって枯れていく。同時代の科学知識にいっさい関心を持たない哲学は、愚鈍で不毛だ。(204)
科学と哲学の分断。タコつぼ化する両陣営に辛辣である。狭い学問分野で安穏と過ごす大学人への批判にも見れる。
もしも人類に未来があるのなら、それは、協働の精神がこれらの破滅的な分断に勝る場合に限られる。そのときにのみ、未来は存在しうる。(302)
分断しているのは学問分野だけではない。何かとタグ付けされカテゴライズされ、コミュニティが無数に生まれる一方で、それ以外とのつながりは希薄になる。居心地の良い集まりに浸り、耳障りの良い情報にだけ触れる。それ以外には排他的になり、ややもすれば攻撃的になる。
著者の言う協働の精神が果たして勝利を収める日が来るのだろうか。