※2013年4月17日のYahoo!ブログを再掲
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久しぶりにしっかりとした新書を読んだ気がする。テーマは集合知。ウェブとかSNSとかでやたらとつながりが増えた現代において、何かこれまでにない新しい知が生まれる、あるいは生み出されやすい素地ができつつあるように感じるのが、果たして本当にそうなのか。
具体的問題を考えていくと、われわれは厭でも「人間にとって、知とは何か」という、いっそう根源的な問題につきあたる。この難問をとくための第一歩として、本書を位置づけられて頂ければ幸いである。
技術が進展し、人と人との関わり方が変わった今、知も変わったかのように思われている。本書は、「知」について改めて考えるきっかけとなった。
本書では科学哲学の議論を整理している。印象的だったのは、
自己言及のパラドックスのような例外はあるにせよ、基本的には、記号の形式的(機械的)操作によって人間の思考活動をシミュレートでき、正しい知が自動的にまとまるという考え方が、コンピュータとともに普及していったのである。
数学ガール/ゲーデルの不完全性定理(感想文10-07)を思い出す。ヒルベルト計画がダメになってしまったということが強調されるけれど、実際には自己言及パラドックスが例外で、原則として論理の完全性は担保されているのだ。限界があるという点はもちろん重要だけれど。
ラディカル構成主義において、人間の認知活動とは、外部の客観世界をありのあま直接見出すことではない。大事なのは、試行錯誤をつうじて周囲状況に「適応(fit)」することなのである。
知は、人間の認知活動がポイントになってきて、クオリアの話に至ってくるんだけれど、環境を客観的に正確に記述するということではなく、そこに適応することが認知であるとしている。サイバネティクスからラディカル構成主義へという流れは、何となくは、まあ、分かるような気がしないでもない。
世間の常識では、知識とは、天下りに与えられ、勉強して丸暗記すべき所与の客観的存在と見なされている。だが、知識の出発点とは、本来、主観的な世界イメージの部分的な様相の実現だったはずである。
本書のポイントはこういうことだ。そういえば、知人が確か大学院だかの面接で、教授から「知恵と知識はどう違うか」と問われたという話があった。知恵は主観で、知識は客観だと、ぼくの中では整理したけれど、もうちょっと踏み込むと知識も知恵も出発点は主観なのだ。
あえて言えば、客観知識とは実は、「権威づけられた主観知識」に他ならないのである。このことを念頭において、ネット社会の集合知の妥当性を考えていかなくてはならない。
これはかなり思い切ったことを言っている。知識を客観、主観で分けることは意味が無い。知識は主観なのだ。権威が伴って、客観のように錯覚しているだけに過ぎない。
要するに、コミュニケーションとプロパゲーション(意味伝播)をつうじて、クオリアのような主観的な一人称の世界から、(擬似)客観的な三人称の知識が創出されていく。
これが集合知ってことなんだろう。でも、これってウェブとかSNSによって、創出のあり方が変わったかというと、そうではない。
大切なのは、ローカルな社会集団内でのコミュニケーションの密度をあげ、活性化していくためのITだろう。
ふむふむ。こういうことなんだね。コミュニケーションの密度を上げていくためのツールとしてITが位置づけられる。SNSでたくさん議論すれば、自ずとこれまでにない素晴らしい知が生み出されるというわけではないし、そういう活動が知的というわけでもないだろう。
あくまで主観であり、お互いの考えは共有できない。でもコミュニケーションを通じて、主観的な世界を内部的に構築して、知が形成されていく。
自分の外側に普遍的な客観世界があって、しかもそれを正確に認知できるというのではない。
つまり、知とは本来、主観的で一人称的なもののはずである。<中略>幼児の発達とは、外部の客観世界を精確に認知していくのではなく、環境世界に適応するように主観的な世界を内部構成してく過程に他ならない。
ということで、何度も同じことを引用して、それを整理している気がするけれど、知は主観だということを改めてしっかりと理解することが大事だ。
21世紀は知識基盤社会だなんてことが言われている。でも知識の本質を見誤ってはいけない。たくさん勉強して、「権威づけられた主観知識」をいくらインプットするだけでは意味が無い。個人の知識がモノを言うのではなく、コミュニケーションを通じた集合知が鍵になる。
一方で、コミュニケーションによって自動的に知が外側の世界で形成されていくというわけでもない。たくさんの世界に触れ、適応し、主観的な世界を構成していくことが大事だ。
技術の進展が早く、経済もめまぐるしく変貌する。来年どうなっているか全く予想できない。ITが環境変化のスピードを上げているかもしれないけれど、そのITが環境適応を容易にしているという面もあるだろう。
主観的な世界を柔軟に構成していくためにも、積極的に多くの環境に身をおくように心がける必要があるのかもしれない。
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(感想文の感想など)
ネット社会が当たり前になり、ITが進展し、簡単に誰もが誰とでも繋がれるようになった。しかし、多様性が尊ばれると同時に、分断が起きている。
私は主観的な世界を柔軟に構成できているだろうか。見たいものだけを見ているのではないだろうか。
自らの知への疑いをやめない。疑念的に知を再構築し続ける。その姿勢を在り方を再確認していきたい。