40代ロスジェネの明るいブログ

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感想文15-25:日本語の科学が世界を変える

※2015年7月1日のYahoo!ブログを再掲

 

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科学の世界の共通語は何か?実はイングリッシュではない。プア・イングリッシュなのだ。ということを何度か聞いたことがある。

グローバル化が進み、英語を公用語としている企業すらあるし、実際の業務に英語使わないのにとにかくTOEICを受けるような熱心なサラリーマンもいる。そんな英語至上主義な世の中で、日本語で科学することの意義を伝えているのが本書。

あとがきに

日本の科学史・科学哲学の研究者は、科学や技術のマイナス面について多くの評論を書いてきた。

とあるように、本書は、『肯定的な観察』という立場を採用している。日本語と科学の関係性について、実証しているわけではないけれど、著者はポジティブに評価している。

日本語で科学ができるという当たり前でない現実に深く感謝すること、この歴史的事実に正面から向き合ってきちんと評価し大切に伝統を保持していくこと、それが日本語で科学することの意義であり責務である。

ということで、日本語(日本の考え方を投影しているであろう日本語)とそんな日本語で考えられてきた結果、生まれたユニークな科学について解説している。

例えば、湯川秀樹の「中間子論」と木村資生(もとお)の「中立説」だ。二律背反的な発想が強い西洋文化に対して、仏教的な中庸を良しとする日本だからこそ生まれた仮説であると、著者は主張する。あくまで『証明のできない希望的観測』ということは著者自ら認めており、あまりこの主張にとやかく言っても仕方ない。むしろ、そういう自由で楽観的な話を気軽に聞くくらいがちょうどいいのだろう。

ということで、他の気になった箇所を挙げておこう。

おそらく日本語ワープロほど、日本の文字文化に革命を起こした技術はないと思う。

確かに、英語と違って、同じ音でも、ひらがな、カタカナ、漢字に変換しなくてはならないし、同音異義語も多数ある。この複雑な日本語に対応するワープロ、今では当たり前になっていて、それなしには仕事できないけれど、この日本語ワープロの誕生は、当時は革命的な技術と言える。

分子より大きな話は、ノーベル化学賞の対象となり、原子より小さな話はノーベル物理学賞の対象になっている。

これは、ノーベル化学賞と物理学賞の境界線のこと。確かにいつも不思議に思っていた。フラーレンは化学賞で、グラフェンは物理学賞という当たりがややこしい。グラフェンは結合炭素原子のシートだから物理学賞なのか。うーむ…。

技術が残るかどうかは、アイデアや技術が本質的に優れていることよりも、現実の製造技術や製造機械や原料やプロセスにうまく適合しているかどうかの方が、ずっと大きな決定要素になる、ということだ。

そのとおりだと思う。技術が残る、つまり、その技術が世の中で使われるということだ。世の中で使われるためには、現実の事業に適合しなければならず、そのためには基本技術の発明だけでなく、適合するための技術開発が必要となり、時間とお金が必要になる。

科学の論文数でなく、質のことを考えれば、世界の科学の停滞状況を救えるのは、日本しかないとまでは言わないが(本音では日本しかないと思っているのだが)、少なくとも日本の役割は非常に大きいと考えざるをえない。

著者の日本の科学への期待は極めて大きい。科学の停滞は、要するに科学が開拓できるフロンティアがなくなってきているからだ。

今の科学をつまらなくしているものにシミュレーションがあると思う。正確に言えば、シミュレーションそのものではなく、その使い方だ。(中略)注文をつけたいのは、温暖化モデルとか津波予想モデルのシミュレーションの使い方だ。

はっきり言って、準結晶超新星超電導などが登場した1980年代に比べ、最近の科学はおもしろくない。(中略)近ごろ幅をきかせている科学は、革新性が少なく、科学者の大胆な提案や仮説もめったに出て来ない。

大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか(感想文15-20)で示されていた『データ処理中心の退屈で官僚的な科学』を思い出す。シミュレーション・インフォマティクスなどは新しい科学的アプローチとなり、計算能力の向上・小型化は、科学のスピードを高め、適用範囲を広げた。

私の子ども時代は80年代で、科学が面白い時代というよりも、光化学スモッグ酸性雨、大気汚染、オゾン層の破壊といった負の側面も同時に強調されていた印象が強い。

現在の科学は、つまらないという表現が適切な場合もあるが、理解困難とも言える。複数の分野が融合し、進展する速度があまりにも速い。だからこそサイエンス・コミュニケーターという職業が登場しているのだろう。

アニメ・ポケモンに登場する発明家シトロンは「サイエンスが未来を切り開く時!」という決め台詞を自信たっぷりに言い放つ(その後、失敗してやらかすまでが一連のお約束)。

そのシーンを見るたびに、その無邪気さ、純粋さに心を打たれる。本書はシトロンのように、著者の科学への期待と敬意を感じることができる。原発事故や捏造事件など科学への批判は強い中で、こうしたポジティブな本は稀有に感じる(こと自体が残念な気持ちだけれど)。

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(感想文の感想など)

今思うと「日本語の科学が世界を変える」というのはかなり牧歌的な希望的観測であったと言わざるを得ない。日本の研究力低下が言われて久しく、研究者になりたい新規参入者は減少し、博士課程に進む学生も大きく減少した。

世の中は大きく変わっている。日本語で科学することの意義をもちろん否定しないが、現在はそんな状況ではない。科学の世界で日本の存在感がかなり低下しており、世界を変えるかどうかの以前に、(存在したかどうかも怪しいけれど)「日本語の科学」が消え失せようとしているのだから。