※2012年6月12日のYahoo!ブログを再掲
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学校の授業で民法があり、その中で紹介された本。
恥ずかしながら、この歳になって、司馬遼太郎を読んだことがなかった。あまりに有名すぎるのと、基本的に歴史がどうも好きではなかったので、読んでこなかった。
とはいえ、30代半ばになりつつある歳になって、あまりに歴史を知らなすぎるのはかっこ悪いと思い、ほとんど何の脈絡もなく読んでいる。おかげでフランス革命だけはやたらと詳しくなってしまった。
さて、本書の歳月の主人公は江藤新平(1834-1874)という人だ。同じ1834年生まれとして、 エルンスト・ヘッケル、エドガー・ドガ、近藤勇がいる。ということで、時代は江戸末期から明治初期。まさに日本の革命の時代。何?ウィキペディアには「維新の十傑の1人」って書いてある。
リストアップすると、
西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀(薩摩藩)
大村益次郎、木戸孝允、前原一誠、広沢真臣(長州藩)
江藤新平(肥前藩)
横井小楠(肥後藩)
岩倉具視(公家)
へぇ。ヤバい…。前原一誠と広沢真臣を全然認識してない。え?教科書に載ってた?まあ、いいや。ということで江藤新平は有名な人らしい。実はこの本を読むまで全く知らなかった。
ということで、いつものように気になる箇所を挙げていこう。
肥前佐賀藩は35万7千石という鎮西の大藩であったが、この風雲の中できわめて特異なゆきかたをとっている。藩政は(中略)藩校である鍋島閑叟による完全な独裁体制下あり、それだけでも異常であるのに、この閑叟が300年来の傑物とされた。
江藤新平は肥前佐賀藩の生まれ。完全な独裁体制で、しかも外との交流を禁じている。肥前佐賀藩は二重鎖国と言われていた。特殊な日本の統治体制の中、さらに特殊な環境の中に江藤はいた。しかし、江藤は死を覚悟して、藩を出て、桂小五郎に会いに行く。
桂小五郎による江藤の評価が面白い。
あれは刑名家だな。
刑名家とは法家のことを言うらしい。
法家は(中略)人間の性は本来悪であるということを大前提とし、法律を整え、刑罰を厳にし、人間の恐怖を刺激することによって国家をおさめようという、いわば人間に対して悲観的な、そういう政治思想であった。
ふむふむ。江藤新平はなぜか、法家という日本では極めて珍しい考え方をする人間だった。
劇的にいえば、この嵐狭における閑叟の言明の瞬間から、新政府の戦力は飛躍し、その政府構成の主役は薩長土肥になったといえるであろう。
江藤新平は、閑叟(かんそう、鍋島直正、佐賀藩の大名)から信頼を勝ち取り、革命期にある日本で重要な立場に登っていく。なぜ薩長土ではなく、薩長土肥になったのかは、鍋島閑叟と江藤新平によるものだということを初めて知った。
そして江藤は、新政府で、文部大輔(明治4年7月)長官、司法卿(明治5年4月)大臣になっていく。
しかし、同じ十傑に数えられている大久保利通により歴史の舞台から消されてしまう。
大久保によれば、かれの構想にある国家の安全のためには、江藤新平という多分に擬似的な反乱者を真性の反乱者として大げさに検断し、天下のみせしめにせねばならなかった。
そう、みせしめとして。あくまで司馬遼太郎による解釈だけれど。
梟首(さらしくび、きゅうしゅ)という屈辱にみちた惨刑だけは、江藤がどう想像力をめぐらしても出てこなかったものであった。士族を廃めさせたうえ梟首という強引さは、法も司法もあったものではなかった。
司法卿大臣、つまり、今で言うところの法務大臣を務め、近代日本の法制度を築き上げた、法家である江藤新平が、法も司法もなく、惨酷的に処刑される。まさに歴史の皮肉でしかない。
江藤の刑は即日執行された。
これも今では考えられないことだ。反論を認めず、一方的に、しかも酷いやり方で殺される。悲惨な末路は、何とも言えない読後感を残す。
二重鎖国の佐賀藩で閑叟に救われ、生かされた江藤は、その才能が認められ政府の中枢になった。その後、征韓論により西郷と大久保の意見が別れ、薩摩が二分される。あくまで佐賀藩のプレゼンスを高めるためだけに征韓論を利用した江藤は、こうして手ひどいしっぺ返しを受けることになった。
明治維新はフランス革命とは違い、血をあまり流していないと言われている(日本の1/2革命(感想文12-33)参照)が、それでもこうしたあまり知られていない見せしめとしての死、象徴的な死がある。血が流れていないと今では思われているので、こういう江藤の死は今となってはたいして語り継がれることもなく、小説として記述されているだけになっている。悲しいものだ。
とはいえ、一読者たるぼくが江藤に対して一方的に感情移入ができるかというと、そうでもない。
江藤は本来そうであった。つねに対人感覚が深刻でなく、策士といわれているくせに人間を政治的存在として理解しえたことがなかった。
江藤の性格とか佐賀人の藩民性というところから江藤を把握することはできそうにない。一歩踏み込んで言えば、江藤は現代的には脳の病気だったのではないか。きわめて特異的に法や論理の分野できらめく才能を示すが、一方で人間の心理を分かろうとしない。いや、分かることができない。そういう人間だったのではないか。
日本の法制度の礎となった江藤。その類まれな才能は、ひどく偏ったものであり、何かが欠落していたからこそ成立していたのかもしれない。しかし、本人もまわりも江藤の万能性を信じ、期待したために、こうした事件になってしまったのではないだろうか。
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(感想文の感想など)