40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文12-22:希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想

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※2012年4月24日のYahoo!ブログを再掲。

 

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絶望の国の幸福な若者たち(感想文12-14)に続く、古市憲寿さんの本。こっちの方が古いので、時系列的には遡って読んでます。

ピースボートについて書かれた珍しい本。ピースボートとは、よくお店とかの壁に貼ってある99万円で世界一周できるツアーだ。99万円で世界一周できるっていうのは格安で、なかなかに興味がそそられる。若ければ行ってみたいなと思ったかも知れない。

気になる箇所を書きだしてみよう。

ピースボートが日本社会のある部分を濃縮したような空間だと感じたからだ。ピースボートを通して見えてくるもの。それは、今を生きる若者の問題、不安定雇用の問題、組織の問題、旅の問題、自分探しの問題と様々だ。僕は特に「コミュニティ」と「あきらめ」というキーワードと共にピースボートを考えてみたいと思った。

ふむふむ。コミュニティとあきらめっていうのはあんまりピンと来ない組み合わせだ。だからこそこのテーマが本になったのだろう。

彼ら(※希望難民)のために必要なこと。それは「希望」の冷却回路の確保だと思う。つまり希望難民化した若者をあきらめさせろというのが本書の提案だ。

若者に必要なのはあきらめ、って若者が言う。日本は自由な国になったものだ。皮肉ではなくって、良い意味で。

本書の主張が「若者よ、あきらめろ」ではなく「若者をあきらめさせろ」というのがポイントだ。それは、僕が「あきらめられない若者」ではなくて、「あきらめさせてくれない社会」という構造を問題にしているからである。

あきらめたいのにあきらめさせてくれないっていうのは確かにキツい。「あきらめたらそこで試合終了だよ」という有名なセリフに対して、「もう試合終了したいです」と言わせてくれない状態が今の社会にはあるのかもしれないし、若者から見るとそう捉えられるのかも知れない。

「共同性」が「目的性」を「冷却」させてしまうのではないかというのが本書の仮説である。つまり、集団としてある目的のために頑張っているように見える人びとも、次第にそこが居場所化してしまい、当初の目的をあきらめてしまうのではないか、ということだ。

ふむふむ。コミュニティには、特有の気持ち悪さと居心地の良さがあるよね。個人的にはコミュニティなるものがあんまり好きになれない。Facebookとか流行っているからしているけれど、いいね!とかいう相互承認の文化はどうも腑に落ちない。

ちょっと本書のメインでもあるピースボートについても挙げてみよう。

見事なくらいに今や旅は「商品化」され、「制度化」されてしまった。

確かにね。行き当たりばったりの旅っていうことはあんまりないかも。バックパッカー用の宿もあるし、これだけネットが発達していると、電源さえ生きていればなんとかなる。もはや制度化っていうより電子化された感かな。

1960年代末の若者との違いは、自己の存在確認が政治運動ではなく、「地球一周」という「制度化」された「新・団体旅行」に向かったという点だ。

これも面白い発想だと思う。自己存在確認としてのピースボート。こういうことを若者が指摘すると、団塊の世代の方たちは激怒しそうだ。

若者たちの語りから見えてくるのは、ピースボートが決して人生を変えるような劇的な体験ではなかったということだ。(中略)「世界」はあくまでも背景であり、異国での「大交流」は自分たちの感動を彩るための舞台装置にすぎなかったことになる。

そうなんだよね。この本が書かれた頃よりもさらに先鋭化しているような気がする。制度化し、電子化され、承認が得られるツールができている。ウェブに載せるのは当たり障りがないけれど、インパクトのあること、っていうので制度化された旅はぴったりのアイテムだ。

ピースボートという「承認の共同体」は、社会運動や政治運動への接続性を担保するどころか、若者たちの希望や熱気を「共同性」によって放棄させる機能を持つと言える。

結局は誰かに「いいね」って言ってもらいためのネタ探しになってしまっているんだろう。社会運動や政治運動って当たり障りがありすぎて、「いいね」文化に馴染めないんだ。

下品な言い方をすれば、希望難民たちは「現代的不幸」に対してムラムラして(衝動や感情を抑えきれないこと)ピースボートに乗り込み、目的性を冷却させた結果、「村々する若者」になったのである。(中略)「ムラムラ」を「村々」へ再編成する装置がピースボートなどの「承認の共同体」なのである。

なかなかに論理的なことを書いているようにも思えるし、全く否定はしないけれど、そんなに上等なものでもないと思う。承認の共同体ってやっぱりどうも不幸な感じがする。どこにも行き着かなくって、ずっとホバリングしている感じ。うまく言えないけれど。

目的性のない共同体には入らない方が良いっていうのはぼくの直感だ。このことについてずいぶん昔、って若者だった時代におじさんと論争したことがある。だから今でもバスケ以外のコミュニティは作ってない。

「共同性」による相互承認が社会的承認をめぐる闘争を「冷却」させる機能を持ってしまうからだ。(中略)「承認の共同体」は、労働市場や体制側から見れば「良い駒」に過ぎない。このことを、「若者にコミュニティや居場所が必要だ」と素朴に言っている人たちは、どのくらい自覚しているのだろうか。

これは面白い指摘だ。相互承認が社会的承認を冷却させてしまう。社会的承認の分かりやすい例が結婚だと思う。結婚しない(できない)人は、相互承認のツールにハマっていると思う。どこかのアイドル好きのコミュニティがあったとして、それはやっぱりアイドルが好きなんじゃなくって、アイドルが好きな自分が好きで、それをお互いに承認しあっているだけの関係に思える。

でもそれが悪いってことではない。そういう生き方もあるし、そういう幸せもあるだろう。ただ、そういうベタベタした関係性がぼくには肌が合わないってことだけだ。

メリトクラシーが壊れた社会で、それなのに「夢を追うことの大切さ」が繰り返し言い立てられる社会で、若者を「あきらめさせる」必要性はますます増しているように思える。その解決策の一つがまさに「コミュニティ」であり「居場所」なのだ。

あきらめとは何なのか。どういう状況なのか。ってこれって夢って何だっけと思うことと同じだし、ぼくはすっかりおじさんになってしまっているのかもしれない。

相互承認で満足すると、社会的承認が不要になるっていうよりも、社会的承認が得られないから、相互承認に逃避するというのが正直なところではないだろうか。承認への欲求は現代において強い。それは得難いからだ。

正社員になること、結婚すること、子どもを授かること。そのうち全てを手に入れることができた人は非常に幸運だと思う。不幸なのは自分たちの親の世代はそれらを得てきたということだ。今はその昔当たり前だったことが得られない状態になっている。だから社会的承認ではなく、簡単に得られる相互承認へと走る。

ピースボートからずいぶん遠いところに来てしまった感がある。電子化した相互承認の文化はどこへ向かうのだろうか。人と会って話すこと、それ自体が貴重となり、目的化するような時代になるのかな。

うーん、考え過ぎな気がしてきた。まあ、はっきりしていることは、ピースボートには乗らない方が良さそうってことかな。

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(感想文の感想など)

バスケ以外のコミュニティとして息子のサッカーチームが新しくできた。コミュニティは居心地の良さを感じることもあれば、人間関係の煩わしさを感じることもある。

読み直すと、自分自身が若者から大きく離れてしまったことに気付かされる。