40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-16:だれのための仕事

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本書の原本の刊行は1996年と四半世紀も前。その15年後の2011年に文庫版が出版され、補章が追加された。例示にやや古めかしさを感じさせるが、通底する労働への苦悩は、現代でも多くの示唆を与えてくれる。

題名にあるとおり、仕事には必ず顧客がいて、その顧客(=だれか)のためにするのが仕事だ。現代の労働の悩みは、仕事がシステム化して巨大化して顧客の顔が見えなかったり、そもそも顧客がだれなのかが分からないことに起因している。

本書は労働の外側にあるもの、あるいは外側に配置されているように見えるもの、仕事とそれ以外の境界やその曖昧さについて多くの紙幅を割いている。具体的には、定年後、遊び、ボランティア、家事、身体などだ。

労働の外側にあるものと、外側にあると認識される原因を突き詰めていくことによって、労働が何なのか鮮明になっていく。むしろ私たちの労働感がいかに根拠なく、こうあるべきという規範に囚われてしまっているか、に気付かせてくれる。

《労働社会》を貫通している、つねにより効率的な生産をめざさなければならないという強迫観念、もはや「禁欲」としてすら意識されないこのインダストリー(勤勉・勤労)の心性は、一種の〈労働〉フェティシズムとして規定することができるだろう。そしてまさに近代社会は、このフェティシズムによらなければ動かなかったのである。(p.50)

目的を未来に設定し、その未来のほうから現在を逆規定する、いいかえると未来の目的の実現のためにいま何をなすべきかというふうに、現在の行為を手段として規定する、そういう態度のことである。(中略)仕事が、何かをめざしておこなうテレオロジカル(目的論的)な過程としてとらえられているということである。そこでは目的が手段である労働過程を細部まで規定するのである。(p.113)

この感想文では、2つの当たり前だと思っていて、何の疑念も抱かなかったこと、具体的には「生産性」と「バックキャスト」について述べたい。

生産性とは何か(感想文20-42)で示したように、日本の長期停滞の理由を生産性に求める言説は少なくない。

しかし、生産性つまるところ一人当たりGDPの向上を至上命題と考えるのは、強迫観念であり禁欲的でありさらにはフェティシズムをも感じさせるとする本書の論考には考えさせられる。

スケジュールの空白に恐怖したり、朝から意識高く自己啓発セミナーに参加したり、ロカボフードを食べて、ジムに通い肉体を引き締める。すべては生産性のため、とまでは言わなけれど、根底にあるのは同じで、とにかく前進、進歩、進化といった前のめりの姿勢だ。

本書の出版当時と大きく異なるのは、SNS文化の拡大と浸透で、労働の外側というか自身のプロモーションの一環で、前のめりの姿勢をオンタイムで他者に知らしめて、承認を得ることで、さらに生産性向上への糧とする。

絶えず自分を追い込み、変革し、それをさらけ出し、相互承認する。巨大な組織の一員(歯車の一つ)であることを忌避し、独り立ちを覚悟した人ほど、寄る辺が人生そのものの劇場化になっていく。

もう一つのキーワード「バックキャスト」であるが、最近の流行り言葉になっている。本書ではバックキャストというフレーズは出てこないが、先程の引用は同じ意味を言っており、先取りした指摘と言える。

例えば、プロサッカー選手になりたい子供がいたとして、逆算していくと、高校生では強豪校かあるいはジュニアユースでレギュラーとして活躍し、そのために中学生では強豪のクラブチームあるいは早々に海外にサッカー留学する、そのためには小学生で足技はもとより戦術理解を進めると同時に語学を学び、そのためには…と逆算して、一つ一つ積み重ねていく。

仕事のプロジェクトも同様で、あるべき未来や市場を設定し、そこから逆算して研究開発を進めることが良しとされたり、あるいはそういった性質の資金が集中的に投下される。

このバックキャストの仕組みを初めて聞いた時はなるほどなと思ったのだが、いざ始めて見ると早々に鼻白むことになる。理屈の上ではそうだが、バックキャストして積み重ねていくことの虚しさと茶番さと詰まらなさが心に浸潤してくる。

確約した未来などはなく、今進む道が正しいのか、行き詰まるのか、超えられない壁があるのか、断崖絶壁が待ち受けているのかわからない。障害を乗り越えるためには情熱とときには狂気が必要で、限られた時間で光が見えない中をじりじりと進むほかない。

プロジェクトのほとんどは成功しない。成功が約束されているプロジェクトにはバックキャストなど必要ない。逆説的にバックキャストが有効なのは成功するプロジェクトだけだ。

生産性もバックキャストも共通するのは、前へ向かった1本道で直線的な時間感覚であり、進歩への無邪気な憧憬、あえて辛辣に言えば、愚かな自己中心的な盲信だ。

ひととしての「限界」に向きあい、それと格闘すること、そこに仕事の意味がある。(中略)仕事をじぶんの可能性のほうからではなくじぶんの限界のほうから考えてみることは、仕事の意味をじぶんのほうからではなくその仕事がかかわる他人のほうからも考えてみるとともに、仕事について別のイメージを得るためにはとてもたいせつなことである。(p.172)

自分ひとりでできることは極めて限られている。どんな天才であってもそうだ(天才は悩まないかも知れないが)。私は仕事で悩むが、ほとんどがどうすればもっと楽になって、もっと楽しくなって、そしてどうすれば世界の多くの方の幸福につながるか、という悩みだ。

先日、若い職員とオンラインで仕事について話すことがあった。ある若い職員は仕事と自己実現のズレについて悩んでいた。その時はうまく回答できなかったが、本書を読んで少し整理された気がする。

「仕事と自己実現をリンクさせるのはそもそも間違っている。自分本意だからリンクしてしまっている。誰のために働きたいのか、誰と働きたいのか、そこを考えてみてはどうか」と。説教臭くなく伝えるのは難しいな。

希望のない人生というのはたぶんありえない。そして希望には、遂げるか、潰えるかの二者択一しかないののではない。希望には、編みなおすという途もある。というか、たえずじぶんの希望を編みなおし、気を取りなおして、別の途をさぐってゆくのが人生というものなのだろう。働くことにはつねに意味への問いがついてまわるが、その意味とは、たえず語りなおされるなかで掴みなおされるほかないものなのであろう。(p.189)

誰でも人生には希望があるし、意味もある。しかし、クリアな答えはない。見つけては失い、失っては気づく。

定年後(感想文17-41)にも通じる。労働の外にあるものにこそその人の人生の希望や意味にヒントがある。より良い人生にするために引き続き考えていきたい。