40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-22:ピアノの近代史-技術革新、世界市場、日本の発展

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ピアノ、私にとって近くて遠い存在だ。母が小学校教師をしていたので、実家にはピアノがある。何度か親からピアノを習ってみないかと言われたが、子ども心にピアノは女子がするものという決めつけがあり、気恥ずかしさから頑なに習おうとはしなかった。今思えば、習っていれば良かったなと後悔している。

親となった今、次男がピアノを習っている。個人レッスンで週に1度のペースだ。上達している気配はないものの、それなりに楽しそうではある。やめたいとも言っていない。先生がめちゃくちゃ優しくて、忍耐力がある。次男の自由奔放ぶりに親はとうの昔に匙を投げているが、先生は仏様ばりの包容力で次男に接してくれている。

家にはピアノはない。キーボードがある。電子ピアノを買おうかと悩んでいるところだが、次男のやる気度合いが見えないので、高額な売買契約に躊躇している。

さて、そんなピアノ(前置きがいつも長い)。図書館の新刊コーナーに本書があり、手にとってみた。よくよく考えれば、製品としてのピアノのことをよく知らない。日本ではヤマハとカワイの2台勢力があるが、国際的にほかの企業があるのだろうか。そんなこともよく知らない。副題にあるように、ピアノの市場や技術革新(最近だと電子化だろう)について全く無知だし、そもそも日本で生まれたわけでもないピアノがどうやって日本で発展してきたのかも知らない。

若干、関係しそうなのがCASIO社の歴史について書かれた電卓四兄弟(感想文17-43)で、電子楽器のカシオトーン(エレクトーンはヤマハ登録商標)くらいだろうか。CASIOが樫尾という名字から来ているのも驚きだったが、きっとヤマハもカワイも創業者の名前が由来なんだろうなと予想。

本書は知らないこと尽くめだったので、気になった箇所を引用しながら、気の向くままに書いてみたい。

もともと、ショパンコンクールの公式楽器に採用されるメーカーといえば、スタインウェイベーゼンドルファーといった欧米勢で占められていたが、1985年、日本の二社が揃って採用されたことは音楽界に大きな衝撃を与えた。(p.9)

正式名称「ショパン国際ピアノコンクール」は、5年に1度開催される、16-30歳が出場できる最も有名なピアノコンクールだ。その公式ピアノに採用されているメーカーはわずか4社。スタインウェイ(米)、ヤマハ、カワイ、ファツィオリ(伊)。4社中、2社が日本メーカーだ。近年のショパンコンクールでの受賞者に日本よりも中国・韓国勢が健闘してる中で、使っている楽器は日本が食い込んでいる。

それではどうやってヤマハやカワイはこのトップブランドの地位を築き上げていったのだろうか。

日本のオルガン製造がようやく緒についた明治中期、1887年に登場したのが、山葉虎楠(1851-1916)。世界的な楽器メーカーであるヤマハの創業者である。(p.37)

きました。やはりヤマハは山葉さんが創業したのだ。同い年は岩崎弥之助(三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟)。山葉虎楠が生きたのは、江戸時代が終わり、日本が否応なしに国際的なビジネスへと参入していくが世界規模の戦争も起きてしまう、そんな時期だ。

ピアノの製造が軌道に乗ると、山葉虎楠は山葉直吉と河合小市という二人の弟子に現場を任せるようになった。(中略)河合小市(1886-1955)はのちに、河合楽器製作所(カワイ)を創業することになる人物である。(p.64)

はい、きました。カワイも河合さんが創業。同い年はって調べてみると血盟団事件(感想文14-17) 井上日召かぁ。河合さんの方がだいぶ後の人で、明治から第一次世界大戦、そして暗殺政治の時代を経ての第二次世界大戦から戦後を生きた。カワイはヤマハから独立してできた会社だ。

ヤマハもカワイも両社とも本社所在地は静岡県浜松市。しかしながら規模は大きく異る。ヤマハの売上が4300億円に対して、カワイは720億円。ビジネスモデルの違いとも言える。

ここからはヤマハの歴史を概観していく。

川上嘉市の業績として特に注目されるのが、1930年、工場内に音響実験室を設け、オシログラフを設置して、音の科学的な分析に乗り出したことである。(中略)海外でピアノやオルガンのメーカーが研究所とタイアップして研究する例はあったが、一企業が工場内に音響実験室を設けるのは世界でも類を見なかった。(p.149)

ヤマハはわりと早いうちから同族経営を脱している。3代目の社長となった川上嘉市は住友電線(現、住友電工)の取締役から経営不振となったヤマハの再生に乗り出す。住友財閥の支援をバックに、経営を合理化し、音響実験室を設けるといった技術革新も推し進めた。

ヤマハは、1921年から飛行機用の木製プロペラを製造していた。合板の技術が評価されてのことだったが、1931年には、金属製プロペラの製造に乗り出した。(中略)1944年には軍需会社法により、本社工場、天竜工場、東京製作所がいずれも軍需工場に指定された。(p.166)

経営改革を進めたものの、第二次世界大戦が始まり、ピアノを造るどころか、音楽を楽しむような余裕がなくなる。ピアノとはあんまり関係のないプロペラを造って糊口をしのいで、窮地を乗り切る。戦争が終わり、プロペラを造っていた部門は分社化し、そうしてできたのがヤマハ発動機だ。そうか。ピアノのヤマハとバイクのヤマハは元々同じ会社だったのだ。ちなみにヤマハ発動機の売上は1兆6700億円!桁違いじゃないか。本社所在地は同じく静岡県。うーむ、意外と静岡県には良い会社があるもんなんだな。

「戦後日本のイノベーション100選」にも選ばれたヤマハ音楽教室は、専門家を育てることを目的とする早期教育音楽教室とは異なり、純粋に音楽を楽しむことができる人を育てるという点で画期的だった。(p.199)

戦後に川上嘉市の長男である源一が社長となり、音楽教室を始める。これが画期的で、ヤマハはピアノを造る会社から、音楽を楽しむ人を育てる会社へと変貌していく。ヤマハ中興の祖と呼ばれる人物であるが、創業者でない一族が世襲していくのも興味深い。なお、現在は川上家は経営からの退いている。

では、もう一社のカワイを見ていこう。

ヤマハ在籍中から、数多くの発明、新案開発を行っていた小市は、独立後は、積極的に特許や実用新案を申請していった。その数は1926年から1956年までの30年間で28件にのぼり、その多くがピアノとオルガンに関するものだった。(p.137)

なるほど。河合小市は技術者としての性格が強い。だからこそかカワイという会社もピアノ一筋だ。古市の娘婿の滋が二代目社長となり、さらにピアノの技術を発展させ事業規模では大きく差のあるヤマハと同じくトップブランドへと到達した。現在は、滋の実子である河合弘隆が社長となっている。カワイは一族経営だ。

だいぶ、日本のピアノ産業の歴史(つまりはヤマハとカワイの歴史)に詳しくなった。明治から昭和の混乱期を乗り越え、世界を代表するピアノメーカーが2社も日本に現存するというのが大変面白い。同じく浜松市に本社があり、互いの存在を意識しないわけはない。切磋琢磨したからこそ、今があるのだろう。

はてさて、我が家にはピアノも電子ピアノもない。買うとなったらどこのメーカーを選ぶだろうか。うーむ。