40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-27:起業の天才!江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男

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本書の著者は大西康之さん。会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから(感想文15-07)の著者でもある。

本書の主人公は江副浩正(1936-2013)。株式会社リクルートの創業者だ。

中村桂子市原悦子野際陽子長嶋茂雄、柳田邦男、大槻義彦福田康夫、イヴ・サン=ローラン、桂歌丸白川英樹楳図かずお村上陽一郎シルヴィオ・ベルルスコーニ北島三郎野沢雅子亀井静香さいとう・たかを里見浩太朗川淵三郎が同い年生まれ。まだご存命の方も多い。

就職活動でリクルートにお世話になった人も多いだろう。あいにくまともに就活をしなかった私もリクナビとかで少しはお世話になった記憶がある。

テレビを点けるとリクルートのコマーシャルをよく目にする。SUUMOやゼクシィがそうだ。調べてみたらIndeedリクルートグループなのか。

2021年11月24日時点の時価総額ランキングでは、なんとリクルートは4位(約12兆円)。トヨタソニーキーエンスに続く。NTTやソフトバンクグループやKDDIといった通信大手企業よりも時価総額は大きい。

2020年11月24日時点のリクルートの株式時価総額は7兆8506億円で国内10位。「第二電電」から江副を締め出した稲森和夫のKDDI(7兆991億円)を上回っている。(p.449)

偶然にも1年前の数字が本書に記されている。1年間で時価総額が約1.6倍になり、国内順位も大きく上げている。それだけ企業価値が上がっているのだろう。株を買っておけば良かったのだろうか。

本書を読み進めていくうちに、江副さんの先を見る力に驚き、そしてリクルートの良い意味での異常性を知った。若い時期にリクルートで働いた人は、旧態依然とした会社で働く気にならないだろう。

しかしリクルートには負の歴史がある。長いが引用しておこう。

日本はいつから、これほどまでに新しい企業を生まない国になってしまったのか。答えは「リクルート事件」の後からである。リクルート事件が戦後最大の疑獄になってしまったので、江副が成し遂げた「イノベーション」、つまり、知識産業会社リクルートによる既存の産業構造への創造的破壊は、江副浩正の名前とともに日本経済の歴史から抹消された。だが日本のメディアが、いやわれわれ日本人が「大罪人」のレッテルを貼った江副浩正こそ、まだインターネットのインフラがない30年以上も前に、アマゾンのベゾスやグーグルの創業者であるラリー・ペイジセルゲイ・ブリンと同じビジネスをやろうとした大天才だった。その江副を、彼の「負の側面」ごと全否定したいがために、日本経済は「失われた30年」の泥沼にはまり込んでしまったのである。(p.22-23)

リクルート事件そうだ、あった、そんな事件が。1988年のバブル絶頂とその先の断崖に向かっている途上の日本で起きた。私はまだ小学生だった(結局バブルの恩恵を受けず、ロスジェネとして生きるのだけれど)。

連日テレビで大騒ぎだった。リクルートという耳慣れない、得体の知れない会社が起こした戦後最大の贈収賄事件で企業犯罪。そんな報道のされ方だった。

政治もビジネスも全く分かっていない小学生だった私ですら社名のリクルートをはっきりと記憶している。しかし、今テレビで流れているCMのリクルートとその印象は断絶している感がある。

あれだけの大事件を起こした会社が今では日本を代表する企業に成長している。不思議なものだが、その原点はどこにあるのだろうか。自分自身の子供のころの記憶と断片的な情報がパズルのように組み合わさっていく快感を覚えながら、食い入るように読み進めた。

学生と企業を初めて「マッチング」したのが江副だった。東大新聞に就職説明会の広告を載せ、学生を採用したい企業と企業に就職したい学生を出会わせる。丸紅飯田の広告を取ったとき、江副はまさに時代の波を捉えたのである。それは、江副がまったく新しい情報産業を生むことになる決定的瞬間だった。(p.60)

リクルート社の原点は、1960年に江副が創業した東京大学新聞(東大の学生新聞)の広告代理店「大学新聞広告社」である。

当時の就職は、教授から学生にこの会社に行けと言われて行く、そんな時代だった。優秀な人材を求める企業、自らの力を発揮できる企業に就職したい学生。当時、それぞれを仲介したのは大学教員であったが、当然、ミスマッチも起きていたし、大学教員にコネのない新しい企業は優秀な学生を採用できなかった。

経済学は、このような状態を「情報の非対称性」と名付けている。就職市場が歪んでいる。市場が失敗しているのだ。

そして情報の非対称性に起因する市場の失敗事例は、就職市場だけではない。そこにビジネスチャンスがあった。

問題は売り手と買い手の間にある「情報の非対称性」だ。どこにどんな物件があるのか、その地域の相場はどのくらいなのか、知っているのは不動産屋であり、買い手は情報をほとんど持っていない。気に入った物件が見つかったとしても、提示された値段が高いのか安いのか、判断がつかない。(p.169)

就職市場の次に目を付けたのが、不動産市場だ。これが現在のSUUMOにつながっている。私と同世代の方ならわかるだろうが、アルバイト求人情報誌フロムエー、中古車情報誌カーセンサー、女性向け求人・転職情報誌とらばーゆ、結婚準備情報誌、グルメ情報誌ホットペッパーゼクシィ、海外旅行情報誌エイビーロードなど、多くの情報誌・フリーペーパーをリクルートがたくさん生み出した。

大学生のころは、街で配られていたフロムエーでバイトを探し、ホットペッパーでお得な飲食店を探し、エイビーロードで海外旅行を夢想したものだ。知らず知らずのうちにずいぶん、リクルートにお世話になっていたのだと四半世紀近く経って気づかされた。

さらにリクルートの何がすごいかと言えば、この欲しい情報にいち早く到達する仕組み、つまりは検索機能の付与、もっと言えばデジタル化を誰よりも早く取り入れた先見性だ。

株式、通貨、書籍。どれも形は「紙」だが、本質は「情報」だ。紙でできた株券、紙幣、書籍は情報を運ぶ媒体に過ぎない。コンピュータと通信が結びつくことにより、情報を運ぶ媒体は「紙」から「コンピュータ・ネットワーク」に置き換わる。やがて「紙」から解き放たれた「情報」は、とてつもない価値を持つことになる。(p.12)

コンピューターと通信が結びつき、紙からの情報の解放をかなり早い段階で江副は予見していた。その証拠に、

リクルートがコンピュータを導入したのは1968年。ほとんどの会社に電卓もなかった時代のことだ。(p.14)

創業が1960年。その8年後、電卓も普及していない時期にコンピュータを導入している。この事実が、江副の天才性を物語っている。

日米欧に設置したコンピューター・センターを使って江副が始めたのが「リモート・コンピューティング・サービス(RCS)」である。当時は「コンピュータの時間貸し」と訳され、社内外から”冴えない事業”と見られていたが、今で言う「クラウド・コンピューティング」にほかならない。(p.280)

翻訳は大事だ。コンピュータの時間貸しでは情熱的な仕事はできない。リクルートは日米貿易摩擦の背景があったにせよ、クレイのスーパーコンピューターを導入している。

では通信事業ではどうだったか。こちらも関係していた。「第二電電」だ。

この「第二電電」も私の記憶にかすかに残っているワードだ。カタツムリの第二形態くらいにしか思っていなかったが、ようやく合点がいった。1984年、電電公社の民営化と通信自由化により、誕生した新しい電気通信事業者だ。

この第二電電が、現在のKDDIで京セラの創業者である稲森和夫(1932-)が創業者となっている。

当時は稲盛が50歳。牛尾がひとつ上、飯田はひとつ下である。創業者にしか分からない苦労を語り合える同世代の3人は、牛尾の呼びかけで通信事業進出の野望を抱き、牛尾が行きつけの赤坂の料亭で「あーでもない、こーでもない」と策を練った。(p.220)

牛尾とはウシオ電機の創業者である牛尾 治朗(1931-)、飯田とはセコムの創業者である飯田 亮(1933-)である。ちなみに亮は5男で、兄(次男)の保は天狗で知られる大手居酒屋チェーンであるテンアライドの創業者、兄(3男)の勧はOKストアの創業者である。

話がそれたが、歳の近い3人は第二電電の立ち上げに尽力し、そこに江副も参画していた。しかし、少し歳若いため、稲盛から第二電電への加入を断られてしまう。

この疎外がリクルート事件の遠因となっていく。

その後、リクルート事件で会社は窮地に陥り、江副は保有株式をダイエー創業者である中内㓛に譲渡し、事実上のダイエーグループ入りする。

ダイエーが経営不振に陥り、リクルートが株を買い戻した2000年までの8年間、中内は「お預かりする」の約束を守り、リクルートの経営には一切口を挟まなかった。江副が作り上げたリクルートという「いかがわしい」会社は、革命家・中内によって「いかがわしさ」を残したまま生き延びた。(p.432)

今の感覚では奇妙に映るだろう。情報産業で圧倒的な存在感のあったリクルートがスーパーマーケットの傘下になったのだから。私もリクルートダイエーの傘下になったニュースを見たおぼろげな記憶がある。

球団を買収し勢いのあったダイエーだが、こちらは90年代後半から没落していく。ダイエーそれ自体の社歴は興味深いが、また別の話。

バブル期、金融機関を含め多くの企業が投融資を続け、バブル崩壊後は不良債権の重みに押しつぶされた。ゼネコンは数千億円単位で債務減免を受けた。住宅金融専門会社、いわゆる「住専」の母体である住友銀行などの大手銀行は、公的資金の注入、つまり税金によって救われた。(p.440-441)

リクルートは13年余の歳月をかけて、国を頼らず自力で1兆8000億円を返し切った。そして、リクルート事件があったにも関わらず、企業価値を高め、日本有数の企業へと発展している。

第二電電での排除がなければ、リクルート事件でメディアが過剰反応を示さなければ、その当時の日本人が情報産業の価値を正しく理解していれば、今とは異なる世界線があったかもしれない。

日本の失われなかった30年を夢想するのは甘美ではあるが、ファンタジーの世界に浸っていても仕方ない。

リクルート事件から約20年経過した2006年にも類似した事件が起きている。そう、ライブドア事件村上ファンド事件だ。情報産業やカネでカネを増やすような事業に世間の目は冷たい。

日本は貧しくなったと言われるが、貧しくしたのは国民ではないか。アントレプレナーシップが根付いていないと言われるが、出る杭を打つメンタリティが阻害要因ではないか。

世界に伍していける新しいビジネスを生み出す、素地は日本にあるはずだ。第2、第3のリクルートが生まれてくるために、私たちはどうすればいいだろうか。