息子が2人いて東京都23区内(といっても高層ビルもない長閑な土地柄だが)の公立小学校にお世話になり、私自身はPTAに全く関わっていなかった。
妻は長男が6年生の時に卒対(=卒業対策委員会)メンバーとなり、その年はPTAで苦労していたのを耳にしている。巡り巡って私は先生たちへの謝恩会(コロナによって大幅にイベントは縮小)の司会の役を果たした。
マスクをつけて先生方への感謝の合唱は物理的に無理があり、そのあとの先生たちによる感謝の合唱も同じくマスクをつけて歌うのはやっぱり無理があって、仕方ないから着席して聞いている卒業生たちに「スタンダーップ!みんなで手拍子して、歌おう!」と無理やり巻き込み、「今、会場が一つになりました!」と勝手に宣言して、力技で場を盛り上げた感を演出し、準備した人も、先生方も、主役である卒業生たちにとっても、曲がりなりにもコロナで大変だけれど式典はできて良かったねという雰囲気の醸成にはギリギリ及第点を送れるくらいにはした。コロナで本当に社会全体が大変になるのはこれからだとは誰もその時点で思っていなかったのだけれど。
さて、妻がPTA活動に関わったこの年度に起きたこと、ただしこれは妻からの情報だけなので一面的ではあるが、さくっとまとめておこう。
- 専業主婦とフルタイムワーカー母との埋められないパーセプション・ギャップ
- 地元出身母と非地元出身母とのパーセプション・ギャップ
- 卒アル写真の地元1社独占状態と著作権問題
他にもあったかもしれないが、妻から聞いた中で印象的なのはこの3つだ。最も大きかったのは、専業主婦vsキャリアウーマンの埋められない隔たりだ。都内の小学校の母親で働いている人の方がマジョリティになりつつあるが、PTA活動に従事できるのは専業主婦の方が多い。
しかし、こと卒対は妻とその友人たちのキャリアウーマンたちが参画したことがそもそもの発端だ。もちろん働いているお母さんたちがPTA活動に参加するのは良いことだが、専業主婦たちとはこれまで磨いてきたスキルが違い過ぎた。ノートPCを持ち込み、議事次第を作り、議事メモを作り、次のアクションを明確にする。「アジェンダ」、「工数」、「プライオリティ」といった(おそらく)専業主婦の方たちには耳慣れない用語を使う。足りない議論はLINEでやり取りするが、その議論は速く、理路整然とした論を立て、さらには不満を持つ者に対して次善策や妥協点の提案まで行う。異なる価値観を有する集団で議論し、意思決定を行い、PDCAサイクルを回す、みたいなことに特化した訓練を受けてきた働く女性たちにきっと専業主婦はドン引きしたことだろう。
当初は専業主婦の方たちは、紅茶をたしなみがながら、世間話と夫への愚痴を織り交ぜながら、今年の卒業の記念式典はどうしましょうかとか、先生方への花束はどうしましょうかとか、来賓への軽食はどうしましょうかといったお話をして、また世間話と夫への愚痴とちょっとした自慢話に行きつ戻りつ、ああもうこんな時間ね、また今度集まってお話ししましょう、的なイメージだったはず。これまでのPTA活動はこういった憩いの場も兼ねていたのだ。
ところが、バリバリ働く母親たちは、何を誰がいつまでにやらないといけないかの全体像を示し、不要なもの、世間話や自慢話や愚痴だけでなく、先生方への花束や来賓への軽食に至るまで、これまで所与のものとして扱ってきたことすべてをゼロベースで見直す改革を行おうとしたのだ。「本当にこれって必要ですか?」という無邪気で乱暴な疑問で。これは疑問ではなく、恫喝やに受け止められたかもしれない。
すっかり自分の話ばかりになってしまったが、当時、私は妻の話を聞いて、専業主婦の方たちは暇だろうし、時は金なりの認識が乏しいし、費用対効果も考えないし、PCスキルも会議開催スキルも持ち合わせていないと思っていた。妻から相談を受けても、妻の肩をもってばかりで、専業主婦の方たちに共感もしていなかった。
結末を申せば、専業主婦の方は途中で卒対を一方的にお辞めになる後味の悪い結果となった。幸か不幸かゼロベースで見直した改革は、急なコロナ禍によって実現可能性の高いイベントとなり、好意的に受け止められたのは幸運でしかなかった。
当時私は専業主婦の方への気持ちを全く考えられなかったのだが、本書を読んでその認識が変わった。有能な働く母たちと無能で時代遅れの専業主婦という対立形式かつアンフェアな構図で考えていたが、そんな単純な話ではなかったのだ。
正しいマニュアルではなく、息をつける場所。PTAという、誰にも頼まれていないのになぜか存在しているものが、本当は何をしなければいけないのか?その答えはここにある。<中略>必要なのは、「僕たちが人間を維持して、取り戻し、協力し合えるための空間」の提供なのだ。(p.248)
PTAに悩むすべての人にこの本を読んで欲しい。PTAは責務ではなく、居場所なのだ。しかも立場の違う人たちがいがみ合い、マウントし、反発するのではなく、「協力する場」なのだ。これを人間性と呼ばずして何と呼ぼう。
PTAで悪しき風習のトップに躍り出るのはベルマーク運動だろう。小さなベルマークを切って、貼って、集めても数千円にしかならない。コスパの悪い活動の最たる例だと喝破する経済学者がいるかもしれない。
ところがそれ以外の機能もあるのだ。PTA活動だからと夫に説明することでその場に集まることができ、互いに家庭の愚痴を言い合える、心休まる場になっている人もいる。衝撃的だった。インターネットやSNSがある時代でも、ちょっとした愚痴をこぼし合える仲間が必要で、そうやって初めて協力し合える。
会社や組織に特化した生き方をしてきた働く母親(もちろん父親も)が、実は人間性を喪失しているのではなかろうかと思えてくるから不思議だ。
本書では、政治学者である岡田憲治さんが衝突し、苦労し、見えてきたことを丁寧に描いてくれている。
僕たちはわがままなくせに、一人では生きていけなくて、誰かと協力し合わなければならないけれど、自分の価値観に照らして、自分の頭で考えて、自分で選択して、そしてそれを心優しいけど全部は理解できない友人に向かって、よくよく考えた言葉で伝え、一人ですべてをやる苦しさから自由になって、楽しく暮らす力というもの。(p.275)
多くの人は協力し合いたいと願っている。誰かに過度に負担が押し寄せ、不公平な状況になることもあるが、それが良いことだとはほとんどの人が思っていない。協力したいけどできない事情があり、できる範囲で良いから関わりたいと思っている人がほとんどなのだ。
ネガティブに語られがちなPTAだけれど、みんなで助け合うための場として、母親の多くが働いている今だからこそ、活用できる伸びしろがある。そりゃあほとんど関わってなかった私が言うのは憚られるが、父親も協力すべきだ。経済効率重視で成り立っている会社文化を相対化し、そして協力とは何かを改めて考えるきっかけになるだろう。
私も、PTAのような取引を通じて互いの効用を最大化するゲームではない活動に参加してみたくなった。でも単身赴任中なんだよなぁ。