40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文12-61:精神を切る手術

※2012年10月17日のYahoo!ブログを再掲

 

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著者のぬで島さんのことはよく存じ上げている。随分昔からこういった生命倫理に関わることについて研究をしておられ、書籍もいくつかある。以前から脳科学について考えておられて、こうして一冊にまとまったんだなぁと読んでみることにした。

そして、脳科学について包括的な本ではなく、メインテーマは精神外科。ロボトミスト 3400回ロボトミー手術を行った医師の栄光と失墜(感想文09-64)が思い出される。

まずは気になった箇所を挙げておこう。

良きにつけ悪しきにつけ表舞台に立たされたゲノム研究に比べると、脳の研究は、その陰に隠れていた観がある。ヒトゲノム計画と時を同じくして、1990年代には、米日欧で、脳科学研究に関する国家的な研究振興プロジェクトが始まっていた。

ふむふむ。日本では理化学研究所脳科学総合研究センターが作られたのが1997年。科学に残された数少ないフロンティアの一つとして、研究が進められてきた。

精神外科の歴史は、脳科学が提起する倫理問題の核心を照らし出す、それは脳科学が今後人間の心へと分け入っていく際の足場を示す

脳科学が盛んになってきた昨今に、改めて精神外科の歴史を整理して、足場を作るというのが本書の狙いだ。

精神外科否定の動きは、一般社会にまで及んだ。その一つが、手塚治虫の漫画『ブラックジャック』への抗議活動である。

へぇ。知らなかった。ブラック・ジャックロボトミーが登場する話を読んでみたい。どうも削除されたっぽいけれど。

精神外科手術を受けても効果がなく、その後も長く入院生活を余儀なくされた患者を多く見てきた精神外科医が、ロボトミーに否定的になることはよくわかる。だが、退院した患者の追跡調査を続け、曲がりなりにも家庭や地域、職場で生活できるようになった例を多くみてきたフリーマンや廣瀬が、精神外科の有用性を信じたことも、また理解できるといわざるをえない。

特定の医療技術の効果を測るのは非常に難しい。統計的に効果があるとは言えないということが言えたとしても、ロボトミーのすべてが害悪だったということも言えないし、まったく効果がなかったとも言えないのだ。

脳と精神の臨床と科学研究の間には、倫理的にははっきり白黒がつけられない、贖罪か賞賛のどちらかではすまない、複雑な歴史があるということである。

ロボトミーのような暗黒の歴史っぽく語られる技術ですら、はっきり白黒がつけられない。このことは再認識する必要がある。

日本神経科学学会の研究倫理指針では、PETもfMRIもすべて一括りに「非侵襲的研究」としている。何度か注射をし、微量とはいえ放射線被ばくを伴う研究法を「非侵襲的」と呼ぶのは、疑問である。

これはそのとおりだと思う。PETが非侵襲っていうのはちょっとね。fMRIは非侵襲なんじゃないかなぁ。結局、何を侵襲・非侵襲っていうのか、これも明確に区分しようがないんだよね。

ということで、徐々に規制の話になっていくので、まとめたいと思う。

神経電気活動を示す大脳皮質は「人の意識の萌芽」であり、その地位に相応しく慎重に扱われるべきといえないだろうか。(中略)脳組織をつくって実験対象にし、治療用の材料をつくろうとするような行為は、人の意識の萌芽の操作であり、人の生命の萌芽である胚を壊して治療用の細胞をつくるのと同じくらい、あるいはそれ以上に、人の尊厳に抵触する恐れがあるから、厳しく制限されるべきだと考えられるのではないだろうか。

科学研究が適切に行われる条件は、徹底した相互批判が保証されていることである。まずは研究者同士の間で、相互批判を通じて、科学的に必要で妥当なことしかしないし、やらせないという態勢が整えられている必要がある。さらにそうしたやり取りが、専門家の間だけでなく、科学界と社会の間でも行われることが求められる。

何となく結論が腑に落ちない。科学的に必要で妥当なことと、社会が受け入れる研究にかなりの乖離があるからだ。果たして科学が規制される根拠は何か。そしてその規制のラインを決めるのは誰か。このことがぼくには未だに分からないし、悩み続けているテーマでもある。

市場の失敗対策以外で、政府が社会活動に介入することを認めることはできない、という立場にぼくは与する。実質的に中絶がフリーに行われている日本で、なぜ胚を研究目的で壊すことが認められないのか。この点を今一度、考え直す時期に来ているのではないだろうか。不合理な理由で、これ以上研究を規制すること、そして政府の介入を多にすることは、できるかぎり避ける方が望ましい。なぜならいったん規制されてしまえば、その規制を外すために途方もない労力が必要となるからだ。なにか起きたら困るから、試しに規制しておきましょう、というのは無責任だし、不合理な研究の停滞を招いてしまう。

多能性幹細胞を神経細胞に分化誘導する研究は、本当に規制すべき研究なのか。安易に行われているのは、研究の実施ではなく、研究の規制(とその提言)のように思えてならない。

神経細胞の分化(現在は生殖細胞系列の分化もだけれど)だけを、規制することは果たしてできるのか。多能性幹細胞が何に分化するか、そんなにコントロールできるのか。神経細胞ができることでいったい誰が困るのか。その細胞自体か。

白黒はっきりつけられない精神外科以上に、現在の科学研究も白黒はっきりつけられないことが多いだろう。そういう研究にどうやって枠をはめるのか。脳科学という本当に難しい領域をテーマにした本作は色々と消化不良を残した感じがするし、そういう研究領域でもあるんだと感じた。

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(感想文の感想など)

大脳皮質は「人の意識の萌芽」であり、その地位に相応しく慎重に扱われるべきとする意見は、理解できなくもないが、今現在、多能性幹細胞を神経細胞に分化誘導する研究は、特別な規制の対象にはなっていない。また規制すべきとする大きなムーブメントにもなっていない。

実際に生きている人の脳へ侵襲する研究が行われつつある中で、神経細胞の倫理は非常にナイーブでフラジャイルに映る。

AIの劇的な進化や脳型コンピュータの登場など、現実は大きく様変わりしていく。規制した結果、その分野が大きく停滞するのは避けたいし、規制は必要最小限が望ましいという思いは10年以上経っても変わっていない。