40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文15-25:日本語の科学が世界を変える

※2015年7月1日のYahoo!ブログを再掲

 

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科学の世界の共通語は何か?実はイングリッシュではない。プア・イングリッシュなのだ。ということを何度か聞いたことがある。

グローバル化が進み、英語を公用語としている企業すらあるし、実際の業務に英語使わないのにとにかくTOEICを受けるような熱心なサラリーマンもいる。そんな英語至上主義な世の中で、日本語で科学することの意義を伝えているのが本書。

あとがきに

日本の科学史・科学哲学の研究者は、科学や技術のマイナス面について多くの評論を書いてきた。

とあるように、本書は、『肯定的な観察』という立場を採用している。日本語と科学の関係性について、実証しているわけではないけれど、著者はポジティブに評価している。

日本語で科学ができるという当たり前でない現実に深く感謝すること、この歴史的事実に正面から向き合ってきちんと評価し大切に伝統を保持していくこと、それが日本語で科学することの意義であり責務である。

ということで、日本語(日本の考え方を投影しているであろう日本語)とそんな日本語で考えられてきた結果、生まれたユニークな科学について解説している。

例えば、湯川秀樹の「中間子論」と木村資生(もとお)の「中立説」だ。二律背反的な発想が強い西洋文化に対して、仏教的な中庸を良しとする日本だからこそ生まれた仮説であると、著者は主張する。あくまで『証明のできない希望的観測』ということは著者自ら認めており、あまりこの主張にとやかく言っても仕方ない。むしろ、そういう自由で楽観的な話を気軽に聞くくらいがちょうどいいのだろう。

ということで、他の気になった箇所を挙げておこう。

おそらく日本語ワープロほど、日本の文字文化に革命を起こした技術はないと思う。

確かに、英語と違って、同じ音でも、ひらがな、カタカナ、漢字に変換しなくてはならないし、同音異義語も多数ある。この複雑な日本語に対応するワープロ、今では当たり前になっていて、それなしには仕事できないけれど、この日本語ワープロの誕生は、当時は革命的な技術と言える。

分子より大きな話は、ノーベル化学賞の対象となり、原子より小さな話はノーベル物理学賞の対象になっている。

これは、ノーベル化学賞と物理学賞の境界線のこと。確かにいつも不思議に思っていた。フラーレンは化学賞で、グラフェンは物理学賞という当たりがややこしい。グラフェンは結合炭素原子のシートだから物理学賞なのか。うーむ…。

技術が残るかどうかは、アイデアや技術が本質的に優れていることよりも、現実の製造技術や製造機械や原料やプロセスにうまく適合しているかどうかの方が、ずっと大きな決定要素になる、ということだ。

そのとおりだと思う。技術が残る、つまり、その技術が世の中で使われるということだ。世の中で使われるためには、現実の事業に適合しなければならず、そのためには基本技術の発明だけでなく、適合するための技術開発が必要となり、時間とお金が必要になる。

科学の論文数でなく、質のことを考えれば、世界の科学の停滞状況を救えるのは、日本しかないとまでは言わないが(本音では日本しかないと思っているのだが)、少なくとも日本の役割は非常に大きいと考えざるをえない。

著者の日本の科学への期待は極めて大きい。科学の停滞は、要するに科学が開拓できるフロンティアがなくなってきているからだ。

今の科学をつまらなくしているものにシミュレーションがあると思う。正確に言えば、シミュレーションそのものではなく、その使い方だ。(中略)注文をつけたいのは、温暖化モデルとか津波予想モデルのシミュレーションの使い方だ。

はっきり言って、準結晶超新星超電導などが登場した1980年代に比べ、最近の科学はおもしろくない。(中略)近ごろ幅をきかせている科学は、革新性が少なく、科学者の大胆な提案や仮説もめったに出て来ない。

大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか(感想文15-20)で示されていた『データ処理中心の退屈で官僚的な科学』を思い出す。シミュレーション・インフォマティクスなどは新しい科学的アプローチとなり、計算能力の向上・小型化は、科学のスピードを高め、適用範囲を広げた。

私の子ども時代は80年代で、科学が面白い時代というよりも、光化学スモッグ酸性雨、大気汚染、オゾン層の破壊といった負の側面も同時に強調されていた印象が強い。

現在の科学は、つまらないという表現が適切な場合もあるが、理解困難とも言える。複数の分野が融合し、進展する速度があまりにも速い。だからこそサイエンス・コミュニケーターという職業が登場しているのだろう。

アニメ・ポケモンに登場する発明家シトロンは「サイエンスが未来を切り開く時!」という決め台詞を自信たっぷりに言い放つ(その後、失敗してやらかすまでが一連のお約束)。

そのシーンを見るたびに、その無邪気さ、純粋さに心を打たれる。本書はシトロンのように、著者の科学への期待と敬意を感じることができる。原発事故や捏造事件など科学への批判は強い中で、こうしたポジティブな本は稀有に感じる(こと自体が残念な気持ちだけれど)。

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(感想文の感想など)

今思うと「日本語の科学が世界を変える」というのはかなり牧歌的な希望的観測であったと言わざるを得ない。日本の研究力低下が言われて久しく、研究者になりたい新規参入者は減少し、博士課程に進む学生も大きく減少した。

世の中は大きく変わっている。日本語で科学することの意義をもちろん否定しないが、現在はそんな状況ではない。科学の世界で日本の存在感がかなり低下しており、世界を変えるかどうかの以前に、(存在したかどうかも怪しいけれど)「日本語の科学」が消え失せようとしているのだから。

感想文09-58:日本人の英語

※2009年9月25日のYahoo!ブログを再掲

 

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出版されたのが1988年。今から20年くらい前の新書。

日本人の英語の変な部分を示しつつ、アメリカ人の英語について丹念に「日本語」で記されている。名著と呼ばれる一冊。

読んで思うのは、20年間、日本人の英語はほとんど変わっていないということ。つまり、日本人の英語教育は全く変わっていないということ。

日本人にとって分かりにくい、冠詞(a, an, the)、前置詞(in/on, out/off, with, over, aroundなど)、時制、関係代名詞などについて、丁寧に例文を上げつつ、説明されている。

ネイティブがどういう論理で英語を書くのか、この本を読めばその一端が分かるだろう。そして、英語で考えながら、英文を書くことの難しさも知ることになるだろう。

おそらく絶望感とともに・・・。

英語は、すごく論理的である。日本語にはない、装置(冠詞、多様な前置詞、時制、関係代名詞、コンマなど)によって、非常に明確に表現する。

一方で日本語は、ひらがな、カタカナ、漢字の3種類を使うことで、繊細な気持ちを伝えようとする。英語には真似できない芸当だろう。真似しようとも思わないだろうけれど。

この点が、日本語人と英語人がいつまで経っても相容れない原因なのかも知れない。読む側に一定の解釈を委ねる日本語人と、全てを明確に表現できると信じている英語人。同じ人間だけれど、頭の作りの違いから、小さな諍いが生じる。

だけど、スゴイと思うのは、こういう本をアメリカ人が日本語で書いて出版しているということだ。日本人が、「アメリカ人の日本語」というタイトルで、アメリカ人が使う日本語のおかしさについて指摘する本が出れば、両者はもっと歩み寄れると思う。

さて、今や英語は、アメリカ人だけのものではなくなった。全く通じ合わない言語の国同士の最小公約数として英語が用いられている。

時制も関係代名詞も考慮しない、ローテクな英語が、ビジネスでも学会でも使われている。

ぼくも含め、この本を読んで自信を喪失しそうな方に言いたい。

大事なのは美しさではない。伝えたい気持ちなんだ!

とでも思わないと、英語でコミュニケーションしようって気にならないんだよね。

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(感想文の感想など)

2009年に日本人の英語教育は全く変わっていないと書いているが、今は大きく変わってきている。

英語学習アプリ、学習動画、さらにはAIの活用など、紙と音声再生装置による学習は過去のものになりつつある。

新しい方法やテクノロジーで改めて英語を勉強してみたい。

感想文08-45:英単語500でわかる現代アメリカ

※2008年8月29日のYahoo!ブログを再掲

 

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題名にひかれて読んでみた。

序論に著者の英語学習に関する考え方が記されている。学校教育での英語学習は、いわゆる「詰め込み型」と「コミュニケーション型」に揺れ動いているとのこと。そして著者は、詰め込み型の方を重視している。

確かに、言語の基本である、文法の構造と単語が分からないと、聞き取れるとかしゃべれるとかそういう次元にさえつながらない。そりゃそうだ。知らない単語は、意味を把握することができないんだから。単語の意味が分からないと、原理的には何語かすら判別できない。

そういう考えを持つ著者が現代アメリカを論じている。

本書は、横書きで現代アメリカ論が日本語で書かれ、その一部が英語になっている。英単語500と思っていたら、実際にはもっともっと使われている。最初は読みにくく思う。けれど、だんだんコツをつかんでくると、英語と日本語が同時に頭に入ってくる。学習効果は分からないけれど、現代アメリカを理解するのには役だったように思う。

さて印象に残っているのは、今年の米大統領選における共和党の指名候補である「ジョン・マケイン」の話。民主党クリントンオバマのデッドヒートは日本でも盛り上がっていたので、二人のことはテレビでも良く取り上げられ、露出もあったのでよく知っていた。対するマケインのことはあまり知らなかった。

現在72歳。字句通り、壮絶な戦争体験をしている。簡単だけど、本書を元に紹介したい。

祖父も父も海軍の将校である、軍人一家に生まれる。時は折しもベトナム戦争。31歳の軍人マケインは、ハノイで撃墜される。両腕を骨折していたが、ほとんど治療を受けることもなかった。父親が海軍将校であることが北ベトナム側に判明し、捕虜となる。激しい拷問を受け、折れた両腕で吊されたりもした。その後遺症で、今も頭より上に腕が上がらない。結局、5年半ハノイで捕虜生活を送った。

こんな経験のある政治家は日本にいるのだろうか。この強烈なキャラクターは、民主党候補となったオバマと十分にわたりあえる。アメリカという国のすごさを改めて知った。

もう一つ、マケインのエピソードを紹介したい。マケインはハノイでの捕虜生活がきっかけとなって、国民に広く知られるようになり、政治家として新たな人生をスタートすることになる。

1982年にアリゾナ州選出の下院選挙に出馬。しかし、対立候補から「carpetbagger(落下傘候補)」と非難された。

その時の対立候補に向けた演説が・・・これだ。(ベストハウス風に)

"Listen, pal. I spent 22 years in the Navy. My father was in the Navy. My grandfather was in the Navy. We in the military service tend to move a lot. We have to live in all parts of the country, all parts of the world. I wish I could have had the luxury, like you, of growing up and living and spending my entire life in a nice place like the First District of Arizona, but I was doing other things. As a matter of fact, when I think about it now, the place I lived longest in my life was Hanoi."

「自分、よう聞いとけよ。わしは22年間海軍におった。おやじも海軍やったし、じいちゃんも海軍やった。わしらみたいな軍人は異動が多いんや。国中の、いや世界中のいろんなところに行かなあかんねん。わしやってな、このアリゾナみたいなええとこで、自分みたいに、ぜ~たくに暮らしたかったわ。でもな、わしはずーっとちゃうことやっとったんや。実際な、今気付いたけど、これまで一番長くおったんは、ハノイやったわ(爆笑)」

※ぼくの勝手な関西弁風翻訳

うーん、強烈。プロレスのマイクパフォーマンスかっていうくらい、皮肉のパンチの効いた演説。オバマの演説も何か人に訴えかける強さを持っているけれど、マケインも負けじと面白いことを言う。破天荒な人生は、凡人にはひどく魅力的に映るものだ。

11月からアメリカ大統領選(未だに仕組みをちゃんと把握できてないけれど)は本格化する。次の大統領が、オバマになるか、マケインになるか分からないけれど、両方ともさすがアメリカと言えるような、傑出した、魅力的で、面白い人物と言えるだろう。

本書は、アメリカ大統領選だけでなく、人種問題、中絶論争、国歌・国旗、アメリカの歴史、音楽など、様々な側面からアメリカを論じている。ある程度の予備知識がないと、読み進めるのは難しいし、受験勉強では目にしない単語もたくさん登場する。

それでも一読することをオススメする。500の英語は、アメリカを知る上で、いや、世界を知る上で、把握しておくべき大切なキーワードなんだ。

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(感想文の感想など)

我ながらマケインの演説の関西弁風翻訳はなかなか秀逸だ。残念ながらマケイン氏は2018年にお亡くなりになっている。知らんかった。

2024年はオリンピックイヤーでパリ五輪があるが、同時に米大統領選イヤーでもある。11月に決着がつくが、バイデンとトランプの一騎打ちになるのだろうか。アメリカ政治の混迷具合もなかなかに根深い。

感想文24-04:六人の嘘つきな大学生

こちらも会社の後輩から借りた小説。スペイン出張のお供に持って行った。

著者は浅倉秋成さん。本作は実写映画化の予定とのこと。

就活×ミステリになるだろうか。極めて計算高くロジカルに仕組まれた作品で、大変技巧的であって、私の好みだ。映画だとどう表現されるのか、それも気になるところ。

本書ではタイトルのとおり6人の大学生が登場する。

嶌さんは勤勉で、袴田くんはいつも明るく、矢代さんは誰よりも視野が広く、森久保くんは本当に優秀、そして九賀くんのリーダーシップは類い稀なものがある。(47)

小説の前半パートである就職試験では、波多野祥吾を中心に描かれ、波多野くん、蔦さん、袴田くん、矢代さん、森久保くん、九賀くんの6人は最終面接にまで残り全員の内定を目指すチームとして就活に挑むが、急遽、ルールが変更され採用者が1人になると告げられ急転する。

採用のための最後のディスカッションで、それぞれの嘘が暴かれていくという展開。

ところがこれで物語は終わらない。後半パートのそれから、つまり1人だけが無事に内定をゲットし、残りは別の会社で働くその後が描かれる。それぞれの嘘について、さらなる真実が待ち受けている。

そこにあるのは人事面接程度のことでどこまでその人を分かるのか、実際には分かった気になっているだけでほとんどその人のことなんてわかっていないじゃないかという痛烈な風刺でもある。

将来的に何をやらせるのかは決まっていないけど、向こう数十年にわたって活躍してくれそうな、なんとなく、いい人っぽい雰囲気の人を選ぶ』日本国民全員で作り上げた、全員が被害者で、全員が加害者になる馬鹿げた儀式(292)

就活小説と言えば、石田衣良さんのシューカツ! (感想文09-28)朝井リョウさんの何者(感想文15-09)を思い出す。私は結構早い段階で就職活動の茶番さに嫌気が差して撤退したわけだけれど、ほんの少しだけれど経験したあの就職活動の異様さと不気味さは小説のテーマにフィットしている。

多くの人が経験し、違和感を持ちながら奮闘し、例え希望の会社に就職できたとしても、拭い切れないあの言い知れない気持ち悪さ。成人になったらバンジージャンプするみたいな、コミュニティに属していない人からすると理解しがたい風習、つまりは日本の奇祭と言っても過言ではない。

解説から引用しよう。

読者の中では話が進むほどに、登場人物一人一人に対する印象が二転三転したはずだ。他者の言動のひとつをピックアップして、その表面だけを見てジャッジすることなんてできない、ということを体感したのではないか。(356)

本当にそうだなと強く首肯する。人事面談しても繰り返し1on1面談しても、その人のことを理解した気になるのは大間違いだ。

繰り返すが本書の路線は私好み。浅倉秋成さんの別の小説も是非読んでみたい。

感想文15-09:何者

※2015年3月27日のYahoo!ブログを再掲

 

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作者の朝井リョウさんは1989年生まれの小説家。超若い朝井リョウさんの作品は初めて読む。世代が違うアラフォーおじさんの私は果たしてついていけるだろうか。

本書のテーマというか舞台は、就職活動。

同様のテーマの小説といえば、石田衣良さんのシューカツ(感想文09-28)羽田圭介さんのワタクシハ(感想文13-61)が思い出される。

両方とも就職活動にまつわる不条理や欺瞞性を表現している。オトナとコドモの境界線上にある甘酸っぱさとビターさがないまぜになるのが就活小説の特徴と言えるだろう。文学部とか社会学部だったら就活と小説とかというテーマで何か書けるのではなかろうか。既にありそうかな。

これまでの就活小説の違いは何かというと、そこにツイッターSNSが登場することだろう。そして、面倒くさい意識高い系の人物も登場する。

読後感に、これまでの甘酸っぱさとビターさに加えて、痛さ、痛々しさも追加されている。人間関係が実際に顔を合わせる身近な関係だけでなく、リアルタイムで更新されるつぶやきが加わり、さらに匿名としての裏アカウントによる本音が示されるなど、とにかく複雑で面倒くさい状況になっている。

若い人は共感するのだろうか。おじさんには分からない。ツイッターとかしないし。FBは生きているという生存証明のためでしかない。このブログは地味すぎて社会的影響力はゼロに等しい。

げに恐ろしいのは社会的承認欲求の強さだ。正社員として就職することは、社会的承認の第一歩となる。誰もが知っている大企業に就職できると、社会的に承認される。人格全てが肯定される。

目的があって大企業で働くのではなくて、承認されたくて大企業に就職したがる若者が多いのではないだろうか。それは結局は、承認する親の世代が大企業正社員という幻想に囚われられているからとも言える。

うーむ、考えれば考えるほど就活というのは不幸な仕組みに思えてくる。もっと労働市場流動性が高くなると現在の一括採用システムはなくなるだろう。

「働くこと」にまつわる問題は多彩で多様で移ろいやすく捉えにくい。

そういえば、朝井リョウさんは就職活動したのだろうか、と思ってウィキペディアを見ると『『何者』は初めて営業の新入社員として仕事をしながら、通勤前と帰宅後に執筆した』とある。なんとまあ。偉いなぁ。

ちなみにこの作品で直木賞を受賞している。知らなかった…。他の作品も読んでみようかな。

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(感想文の感想など)

「何者」以降、朝井リョウさんの本をどんどん読んでいったのだった。これが最初だったのか。

就活と社会的承認欲求を結びつけたという点がユニークかつ斬新だった。

とはいえ、今となっては承認されたくて大企業に就職したがる若者ってのはあんまりいないかもね。どこに属しているかってそんなに重要ではなくなってきた感はある。

感想文13-61:ワタクシハ

※2013年10月16日のYahoo!ブログを再掲

 

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確か東京メトロの車内のテレビで広告されていた。ちょっと読んでみたいなぁと思っていて、ずいぶんと経っている。今も相変わらず就職戦線は芳しくなく、就活は精神的にも肉体的にも過酷な

良いところ(Fランでない)の私立大学という点で、石田衣良さんのシューカツ(感想文09-28)と設定は似ている。

しかし、相違点は主人公が非現実的な設定だということだ。なんと天才ギタリストで、既にその業界では一発屋ではあるが成功している。しかし、それでは食べていけそうにないので、周りに流されつつも就活を始める。

描かれるのはリアルな就活(と思う。私はマトモにしてないから…)。非実在的な主人公だからこそ就活のリアルさがかえって鮮明に浮き出される。

困難とは、今の状態であった。乗り越えるべき壁がはっきりと見えれば、どんなにありがたいかわからない。今の自分は、ただ停滞している

こうすれば成功するという必勝パターンも、企業からのフィードバックもなく、自分の行動が正しいのか、間違っているのか、本人は分からない。単に失敗したときにさらなるご発展を「お祈りされる」だけだ。

本書では、夢を諦める者、ブスであることを自覚して就活する女性、最後まで夢を諦めない者、既に成功している女優兼モデル、就活を面白おかしくレポートするブロガー、壮大な嘘で就職する者など、色々と登場する。まさに人生を見ているようだ。就活についての人間模様をぎっしり詰め込んでいる。

様々な登場人物を通して、読者は自分に近しい者を発見し、そして恥じ入るのかもしれない。

就職は確かに人生の分岐点かもしれない。だからこそ自分が働く会社を見つけることは大事だ。だから就活が過酷になるというわけではない。法と経済で読みとく雇用の世界(感想文13-12)にあるように、情報の非対称性と解雇規制が原因だ。

「使えないと思ったらすぐにクビにできる」のであれば、企業も雇用するリスクが小さくなる。今会社にはびこっている使えない社員のせいで、若者が雇用されにくくなっている。

こういう就活小説は、一時的なものになることをお祈りします。

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(感想文の感想など)

この小説のことを全然思い出せない。感想文まで書いたのに全く覚えてないのは珍しい。

感想文13-12:法と経済で読みとく雇用の世界

※2013年2月20日Yahoo!ブログを再掲

 

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これから大事な学問は、「法」と「経済学」であると確信している。物理、化学、生物ももちろん大事。世の理(ことわり)だからね。それでも自然科学以外に何を学ぶかといえば、法と経済学が最も実用的で、社会人としてちゃんと基礎を知っておくことが大事だと思う。

振り返ると、雇用問題についてこれまでほとんど考えてこなかった。過去の感想文を見てもルポ賃金差別(感想文12-54)くらいだろうか。こちらもあくまでルポなので、法も経済学もどちらの視点も足りてない。

そこで本書。そもそもタイトルに「法と経済」と書かれている本が少ない。実は修士論文でやや雇用問題について関わってもいるので、行き着いたんだ。

気になる箇所を挙げてみよう。

非正社員は、なぜ増えてきたのであろうか。この図で示される非正社員の継続的な増加は、規制緩和やいわゆる「新自由主義的な経済運営」と呼ばれるものが真の原因ではなく、継続的に進行している経済環境の変化が原因であることを示唆している。

ふむふむ。具体的に何かというと、

非正社員の増加は非正規で働きたい人が増えたという供給(労働者)側の要因とIT化による業務の切り分けの容易化や将来の不確実性の増大への対応として人件費の流動化が進んだという需要(企業)側の要因の双方があるのである。

需要と供給、まさに経済学。頭のなかでさらっと需給曲線が描けるくらいには勉強した。働ける人口が増え、そんなに高スキルでない仕事も増え、結果として非正社員が増えた。法律が変わったからとかそういうことが背景にあるのではない。

いかにして、非正社員の若年者の生産性を上げるための手を国家が政策として打ち出すかが重要であるということが明らかとなろう。

若いうちにトレーニングして、スキルを身につけないと、後々困ることになる。非正社員はトレーニングを受ける機会がなく、しかも期限が切れると放り出されるかもしれない。『柔軟で技能訓練の効果も上がりやすい若年期に、そのチャンスを逃してしまうと、もう挽回できないおそれもある』のだ。スキルのない中年を救うよりも、若年期にいかにスキルを身につけさせるかが大事だ。

結局のところ労働市場における「情報の非対称性」と一度雇った労働者を簡単には解雇できないことが新卒一括採用を生み出していると言える。

ふむふむ。シューカツ! (感想文09-28)を思い出す。新卒採用が「ゴールデンチケット化」しているのは、情報の非対称性と解雇規制が影響している。ちなみに情報の非対称性も経済学用語だ。ほんとに解雇規制なんとかならないの。

正社員の雇用保障を弱めたり、有期労働契約の期間規制を緩和したりするなどのフレキシブルな雇用形態の可能性を認めることについては、労働者の保護を低下させるという批判もあるが、ワークシェアリングを進め、正社員の働き過ぎを回避するための方策となるという重要な効果があることにも留意しておく必要がある。

なるほど。結局、会社は労働者をなかなかクビにできないから、新しい雇用に対して尻込みする。結果、人手が足りず、オールジャパンブラック企業状態になってしまう。非正社員はスキルを身につけられず不安定で、正社員は安定だけれど働き過ぎ。このおかしな現状はまさに雇用規制が根幹にある。ほんとに何とかしてよ。

経済学は、このように現実に生起する現象をよく観察した後で、一歩引いて問題の構造を把握して対策を考えようとするものである。

うんうん。雇用規制は労働者を守るものと考えられて導入されたけれど、実際は労働者を苦しめている。そのことを実証的に示すのは経済学の役割で、法と経済学は双方がうまく機能することで、より良い社会システムが構築されていくと考えられる。

なお、本書はちょっとした小説みたいなものが挿入されている。展開は昼ドラ的でドロドロだ。人生の半分以上は働くので、会社がドラマの舞台になることはよくある。それって、要するに雇用のことだ。様々な雇用形態がある中で、きっとドラマも変わっていくのだろう。最近、全く見ていないけれど。

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(感想文の感想など)

『雇用規制は労働者を守るものと考えられて導入されたけれど、実際は労働者を苦しめている。そのことを実証的に示すのは経済学の役割で、法と経済学は双方がうまく機能することで、より良い社会システムが構築されていく

自分で書いたけれど、良いこと書いているな。もうちょっとこの分野で深く考えられるようになりたい。実証主義。もっと浸透して欲しいし、させたい。

EBPM(Evidence Based Policy Making)を政府は推奨しているけれど、実態は果たしてどうか。その数学が戦略を決める(感想文10-91)でも書いたようにPolicy Based Evidence Makingになってやしないか。

実証を政府に任せるのではなく、実証したデータをオープンにし、その実証を検証できるようにするのが重要だな。