※2015年3月17日のYahoo!ブログを再掲
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株式会社という病(感想文11-47)と同じ著者の平川克美さんのご本。
株式会社のように所与に存在し疑われることのない価値に対して、それってちょっとおかしいんじゃないかという指摘をする。今回のテーマはグローバリズム。そしてグローバリズムは株式会社と直結している。
本書を書いたのは、株式会社と国民国家が手を携えて発展していた健康な時代が終わろうとしており、株式会社が病としか言いようのない行動をとるようになった背景には何があったのかを、もう一度確認しておきたいと思ったからである。
健康な時代というのは高度経済成長期のことだろう。会社は大きくなり、給料は高くなる。昨日よりも今日、今日よりも明日はより豊かになると感じられるような成長期は既に過ぎ去った。
日本は人口が減少し、市場が大きくなることは考えにくい。新しい市場を求めて、日本の企業は海外に進出している。中国、東南アジア、最近だと中東がブームだろうか。日本の質の良い製品が海外で人気を博しているというニュースを聞くと嬉しい気持ちになる。
本書は、世界を股にかけて商売をすることが悪いと言っているのはもちろんなく、グローバリズムという主義が意味することの本質について説明している。
イズムとは必ず先行する理念や方法といったものに対向するかたちで現れてくるからである。イズムは常に敵を必要としており、それを打倒する新しい原理として現れるといってもよいだろう。
じゃあ、グローバリズムが何に対抗しているというのか。
グローバリズムをつくり上げたのは、「株式会社」というシステムであり、「株式会社」というものが対向する障壁とは「国民国家」そのものである。
『株式会社が国民国家が手を携えて発展していた健康な時代』は終演を迎え、国民国家を敵とするグローバリズムという理念を株式会社が創りだしたというのだ。
結局のところ、グローバリズムの進展によって利益を得るのは、もともと超国家的な存在として登場した多国籍企業の関係者、あるいは超国家的な取引によってビジネスを行っている金融資本家ということになるだろう。そこでは、民主主義というものもまた、存続の理由を失うといわねばならない。
最終的には民主主義もなくなってしまうという予測。
政府は必ず嘘をつく(感想文12-34)を思い出す。良くも悪くも最先端の国アメリカでは、コーポラティズム、つまり、多国籍企業が、政府やマスコミといった大きな権力を囲い入れ、余計な規制を撤廃し、そういう活動を礼賛するように情報をコントロールしているという。
国家は規制を作ることができる(余計な規制もあるけれど)。その機能すら買ってしまえる、買ってしまっている企業がある。
この状態を病的と表現すること自体に私は抵抗があるが、健康的とは言い難いのは確か。国家が国民のために何かするということではなく、特定の企業のために便宜を図ることが当たり前のことになるかもしれない。
多くの日本人はヨックモックが中東で人気と聞いて嬉しい気持ちになるだろうけれど、日本人はAmazonを通じてたくさんの本を買っているとアメリカ人が聞いて嬉しい気持ちになるのだろうか。
AmazonやGoogleなどの企業は、情報社会の「新たな国家」と言って良い。もはやアメリカという国とは別の相に存在している。もうすぐするとその企業でしか利用できない電子マネーが登場するかもしれない。
色々考えるポイントがあるけれど、グローバリズムの進展は、政府の機能を縮小するかもしれない。でもこの事自体は決して悪いことばかりではないと思う。
権力は腐敗する。政府は腐敗するし、企業も腐敗する。企業もいつしか敵対するイズムによって破壊されてしまう日が来るかもしれない。
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(感想文の感想など)
グローバリズムが国民国家と対立するという話だが、巨大IT企業と国家が対立している。ただ、ことはそんなに単純な対立構造ではなく、互いに利用するところは利用し、依存しあい、人的交流もある。
もうちょっと深く考えたいテーマの一つではある。