40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

2021年新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

ずいぶん遅い新年の挨拶ですみません。

2年連続で実家に帰ることなく、新年を迎えました。昨年は長男の受験のため、今年はそう、コロナ禍のせいです。

2020年はあまり思い出深い出来事がありません。長男の小学校卒業式の謝恩会で司会をしたことくらいでしょうか。大きなトラブルなく務めを果たせてホッとしたのを覚えています。

仕事ではオンラインセミナーで司会をしました。司会ばかりだな。司会業が好きなわけではありませんが、やる人がいないので、好むと好まざるとにかかわらずお鉢が回ってくる役回りです。

バスケはそこそこできましたが、久しぶりにぎっくり腰(軽度)をやらかし、季節の変わり目は要注意ってことを再認識しました。もう若くはありません。

ゲームは昨年末にSwitchでダビスタを購入し、実に四半世紀ぶりに熱中しましたが、重大なバグが修正されないのでしばらくは放置するという決断に至りました。不条理に勝てないのは仕方ない(ダビスタあるある)にせよ、重大なバグは早く直してよと正規価格で購入したユーザーは願うばかりです。

それからP5S(ペルソナ5 スクランブル ザ ファントム ストライカーズ)も楽しくクリアしましたが、こういう無双系のアクションゲームは老眼が進行しつつあるおじさんにはキツイものがあります(だからダビスタ買ったんだよな)。ストーリーがご都合主義的な展開ではあるものの許容範囲であり、ペルソナファンとしては十分に楽しめる作品でした。個人的にはSwitchでP4Gがしたい。Steamに移植したんだったら、Switchにも移植してよと強く願うばかりです。

あと、桃鉄も買いました。長男と次男の地理の勉強にもなるというもっともらしい理由で購入しましたが、まだあまり遊べてません。慣れてくると、運ゲーではなく、カードを駆使し、リスクを排除した嫌らしい戦いになるので、家族間であろうと人間関係が悪化するのは必至なのです。

あと、昨年はSwitchインディーズゲームを数本購入しました。コロナ禍と自粛と(おおよそ4月以降)で紹介したゲーム以外だと『world for two』。音楽が美しく、懐かしい感じのドット絵がノスタルジックでした。ゲームそれ自体は単純ではありますが、静かにそっと心に何かを残してくれる優しさを感じました。

6月以降、私には在宅勤務が向いていないことが判明し、できる限り出勤するようにしています。長男と同じ方向なので、一緒に家を出るようになり、お互いに昼食が必要なので私がほぼ毎日お弁当を作るようになりました(作りたくない日は長男は学校でお弁当を購入)。そんなにレパートリーはないものの、主菜と副菜の組合せを工夫すれば、飽きずに食べれるお弁当を作れるようになったと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、こうしてブログを再開したというのが2020年で最も大きな変化だったように思います。ただただ未来の自分が読み返すためだけに書いている文章ですが、ごく稀にコメントを残してくださる方もいらっしゃるので、それを励みにして今年も感想文が中心となるでしょうが、書いていきたいと思います。

それでは、恒例(このブログでは初)の2020年の面白かった本ランキングを発表します。

第5位:ピアノの近代史(感想文20-22)

私はピアノをひけませんが、日本のピアノ産業の歴史について書かれた本書を大変面白く読ませていただきました。ヤマハとカワイの成り立ち、経営の在り方、音楽教室への発展など、考えさせられることがたくさんありました。次男がピアノを習っていなければこの本を読むことはなかったでしょう。

 

第4位:日本が生んだ偉大なる経営イノベーター小林一三(感想文20-43)

高橋是清後藤新平に加えて、私が尊敬する人に追加された小林一三。久しく関西に帰ってないので、阪急電車にも乗っていません。東宝鬼滅の刃特需で業績が上方修正されました。最近ではSLAM DUNKも映画化されることがニュースとなり(鬼滅の刃の二番煎じ扱いされるのは些か心外ではありますが)、バスケ界隈は盛り上がっています。しかし、こちらは東宝ではなく東映のようです。また、SLAM DUNK時代からルール(例えば、前後半制→クオーター制など)もコートのライン(例えば、ゴール下が台形→長方形など)も大幅に変わっており、そのあたりはどうするんだろうと気になるところです。

 

第3位:相分離生物学(感想文20-27)

昨年、最も刺激を受けた生物学の本です。分子と細胞を架橋する「何か」についての学問であり、何度も唸りながら貪るように読みました。知的好奇心がビシビシ刺激され、ここからさらに新しい「何か」が生まれてくる、そんな予見があるのだけれど、うまく説明できないもどかしさと自分の能力不足に気付かされました。。

 

第2位:インドの鉄人(感想文20-31)

半沢直樹どころではない、グロボーな資本主義社会での、痺れる巨大買収劇。舞台は鉄鋼業界。主役はインド人。ちょっと古い本ではあるけれど、とてつもなく面白いです。自分の人生と関係ないことに興奮できてしまうのだから、本はありがたい存在ですね。

 

第1位:ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀(感想文20-30)

昨年、出会った中で、最も知的興奮を覚えた本。私有財産=独占=悪という考えは、極めてラディカルですが、リーズナブルでもあります。経済学の分野がますますこれから面白くなりそうだなと強く感じさせてくれました。そして何より、意外と未来は明るい、そう思わせてくれる本でした。幾つになっても良い本に出会えるのは、とても嬉しい経験ですね。

 

今年はどんな年になるだろうでしょうか。バカボンのパパよりも年上になり、体の衰えを隠すことはできません(隠してもいません)。昨年末で私が主導するプロジェクトが終了し、次に挑戦することが現時点では定まっていません。

何か始めてみようかな。何が良いかな。

今年もよろしくお願いします。

感想文18-29:経済学者、待機児童ゼロに挑む

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※2018年8月8日のYahoo!ブログを再掲

 

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待機児童が社会問題化して久しい。もともとは匿名ブログの過激なタイトルだったが、2016年のユーキャン新語・流行語大賞のトップ10に「保育園落ちた日本死ね」が選ばれたことも話題になった。いかにも扇情的な言い回しで、そこまでバズったとも思わないが、待機児童問題が解消されていない現状へのシンパシーから、少なからぬインパクトを残したことは確かだろう。

私には息子が2人いて、2人とも保育所にお世話になった。恥ずかしながら白状すると、「保活」は完全に妻任せで、私はほとんどタッチしていない。妻の努力のおかげで、認可の私立保育所に通うことができた。先生方には大変お世話になったし、同級生の親たちとは今でも交流が続いている。

長男は4月生まれのため、翌年度に0歳児として入園できた。しかし、次男は2月生まれなので、翌々年度に1歳児として入園するほかなく、結果的に我が子2人は1年間のみ別の保育所に通うことになった(当時、長男は年長)。きょうだいだと点数が高くなるのだが、それでも1歳児枠は狭き門だった。系列とは言えそれぞれの保育所への送り迎えしなくてはならず、かなり苦労したことを覚えている。雨の日とかは特に悲惨だった。

そんな息子たち2人は晴れて卒園し、小学生になった。すっかり自分たちの問題ではなくなったため関心の薄れた待機児童問題について、経済学者が挑んだというタイトルに惹かれて気になって本書を手にとってみた。

長男が入園した頃とは違い、ミクロ経済学を学んだ今となっては、経済学がいかに世に役立てる学問かを知っているので、難解な待機児童問題にどう切り込み、どう解決するのか、ワクワクしながらページをめくっていった。

日本の保育は社会主義だと考えれば、待機児童という形の良い「行列」に並ばなければならないことも納得でしょう。我々は、お上から保育サービスの「配給」を受けているのであり、配給量が足りなくて待機児童が発生する仕組みになっているわけです。(p.69)

待機児童問題の根本原因は、社会主義的な制度であるということだ。極めて明快であり、解決策もはっきりしている。にも関わらず、解決できない。なぜなら既得権益が存在するからだ。

重要なポイントは、待機児童がいる方がむしろ認可保育所にとって好都合だということです。待機児童問題が解消されてしまっては、既存の認可保育所はこれほど楽な経営ができません。(p.90)

誰が既得権益を受けているか。それは認可保育所であり、特に公立の認可保育所だ。公立の場合、職員は地方公務員であり、給与が高く、高コスト構造であり、公費依存体質になっている。他に既得権益を受けているのは、既に保育所を利用している親たちでもある。私たち家族自身も既得権の受益者だったのだ。

既得権の受益者が、保育園の新規参入を阻止し、超過需要を維持する。それによって、未来を担う乳児たち、そして子を持ちながら働きたい親に苦労を強いさせる。さらには子どもをもうけようという意欲を削ぐこともあるだろう。制度や仕組みを変え、市場に任せる状態にすることが望ましい。

著者の鈴木亘さんは、大学教授であり、アカデミアの世界にいながら、実世界の問題解決に多くの労力を費やしている。こういう方がもっと増えれば良いと強く願うし、そのためにもミクロ経済学は全国民に必修の学問にして欲しい(できれば世界規模で)。そうすれば、既得権益層を守る社会主義的な政策を出すような政治家、役人、それを擁護する論調のメディアは早々に退場するだろう。

まだ時間はかかるかもしれないが、待機児童問題は解消される兆しがある。価格規制を撤廃し、競争原理を働かせ、民間による新規参入が増えている。特に0-2歳児の保育は大きな需要があり、本来であれば大きなビジネスチャンスと言える。社会主義的に行列に並んで配給を待つような仕組みは愚かであり、コネや賄賂が介在しやすい素地にすらなる。なぜ現代の日本でこんな仕組みが維持されるのか理解に苦しむ。

本書を読んで、小池都政を少し見直した。希望の党のすったもんだがあり、すっかりネガティブなイメージが定着してしまったが、東京都の待機児童問題に対する取り組みは正しく機能していると評価できる。是非、鈴木先生のような方をブレインとしてどんどん活用して欲しい。

世の中がようやく変わりつつあるように感じる。私を含むロスジェネ世代を境に、社会主義的な政策を支持しなくなってきた。さらに若い世代は、毛嫌いすらしているのではないか。

皆が皆でないものの、いよいよ社会主義はダメだということが、議論の余地なく決着したことを若い世代ははっきりと悟ったのだろう。社会に必要なのは自由と競争と協力であり、参入障壁や価格規制や補助金ではない。

まだまだ社会には多くの問題がある。解決策は既得権益と規制の突破ということに等しい。個人的には、労働、年金、社会保障だ。いずれ解決して欲しいし、そういう政策や政策を提案する政党を強く支持したい。

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(感想文の感想など)

2019年10月1日から幼児教育・保育が無償となり、認可保育所などの利用料が無料となった。それは良いことだなと思った方はご用心。この施策は決して褒められたものではない。

本の著者である鈴木亘さんによる以下の記事が大変参考になる。
www.nippon.com

かく言う我が家は正社員共働きであるため、保育の必要度の点数が高く、息子2人は認可保育員でお世話になった。つまりは、「強きを助け、弱きをくじく」倒錯した政策の恩恵を受けたと言える。その時はそんなことを考えもしなかったのだが。

未だに日本ではポピュリズム的なバラマキ政策で人気を得ようとする政治が続いてしまっている。いつになったら、ちゃんと経済学からの知見を活かし、より良い社会をつくることができるようになるのだろうか。

感想文18-05:トラクターの世界史

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※2018年3月17日のYahoo!ブログを再掲

 

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トウガラシの世界史(感想文16-21)以来の○○の世界史というタイトルの本。都会で生活しているとあまり馴染みのないトラクターが主役という珍しい本。

そういえば、大学の農場実習でトラクターを運転したことを思い出した。免許は持っていたがペーパードライバーだった私にとって、ゆっくりとではあるが力強く動くトラクターを運転することのは、わりと楽しかった記憶がある。

とりわけ重要なのは、牽引力のエネルギー源が、家畜の喰む飼料から、石油に変わったことである。トラクターの登場以降、農業はもはや石油なしには営むことができない。石油がなければ、わたしたちは食べものを満足に食べることができなくなったのである。(p.ⅱ)

実感することはほとんどないが、私たちは確実にトラクターの恩恵を受けている。トラクターがなければ、大規模な農業を達成することはできないし、化学肥料がいくら発展してもそれを刈り取ることはできないのだ。

ラクターと戦車は、二つの顔を持った一つの機械であった。トラクターも戦車も、産声をあげて100年を経過したばかりの、20世紀の寵児なのである。(p.ⅳ)

本書で最も刺激的だったのが、このポイントだ。トラクターと戦車はテクノロジーとしては双子のようの存在なのだ。とはいえ、まだ100年しか歴史がないため、本書のタイトルにあるような「世界史」と名乗るほど射程の広いテーマとへ言えない。しかし、

ラクターがいない20世紀の歴史は、画竜点睛を欠くと言わざるをえない。(p.10)

とあるように、確かにトラクターについて歴史的な観点から語られては来なかったことを鑑み、こうしてトラクターにスポットライトがあたる本書の試みはなかなかに面白いだろう。

本書では、イギリスの産業革命から始まり、ロシア、ドイツ、中国、アメリカ、日本と近代史におけるトラクターの位置づけとその思想的背景について丁寧に描かれている。

本書が明らかにしたのは、機械の大型化に向かう「力」は、けっして大企業の一方的な力などではなく、農民たちの夢、競争心、愛国心、集落の規制、大学の研究、行政の指導と分かち難く結びついた網のようになっており、だからこそ、根強く、変更が難しいのである。(p.240)

化学肥料とトラクターが農業の大規模化を実現したのだが、それはテクノロジーがあったからということだけではなく、国が、集落が、農民が、その実現の夢を見て、競争があり、連携があり、そして農業社会を変えていったといえる。

さて、トラクターはここからどういった発展を遂げるのだろうか。例えば、トラクターの自動運転という技術がすでに実用化に向かいつつある。AIやIoTという言葉が人口に膾炙し、農業の世界にもその波が押し寄せつつある。

ロボットが人間が摂取するに必要な栄養素を供給する農作物を自動で収穫する。このことは大規模農業と地続きになっている、まさに「夢」である。

しかしまた、双生児として世に生み出された戦車が同様の技術が適用され、自動で人命を刈り取る装置として実現してしまえば、それはまた「悪夢」となってしまう。

なるほど。トラクターの技術開発動向や目指す方向性について考えるということは、今後の軍事産業についても重なっていくのかもしれない。

久しぶりにトラクターを運転してみたい。だだっ広い広大な土地をトラクターで耕し、農作物を収穫する。学生時代はそんな人生も良いかなと考えていたのにな。

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(感想文の感想など)

1本5000円のレンコンがバカ売れする理由(感想文20-13)で書いたけれど、トラクターの自動運転・操舵を含むスマート農業は、苦労からの開放による農業のコモディティ化あるいは低価格化と言える。

農業を「効率的で、容易に新規参入できて、しかも儲かる」産業へと変えたいという思いは分からなくもないが、自然と生き物を相手にするのはそんな生易しいものではないと思う。農業してない私が断見できる根拠はないのだけれど。

感想文20-46:サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃

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最近、知って気になった新しい言葉「人新世(じんしんせい/ひとしんせい *本書での読みはじんしんせい)」。

ウィキペディアによると、『人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与える発端を起点として提案された、完新世(Holocene, ホロシーン)に続く想定上の地質時代』とのこと。わかったようなわからないような。

それもそのはず、私が地質年代のことをさっぱり理解していないからで、ウィキペディアによると『区分の仕方は大きくは古い方から冥王代、太古代、原生代、顕生代の4つの累代、さらに細かく 代、紀、世、期と分類されている』とのこと。

スケールがデカすぎてイメージを掴みにくのだけれど、よく聞く白亜紀とかジュラ紀とかカンブリア紀とかは「紀(period)」のくくり。そのより小さい「世(epoch)」が本書の人新世であり、現在は完新世らしい(今までそんなことも知らずに生きてきた)。ちなみにちょっと前に話題になったチバニアンは「期(age)」のくくり。

ポイントは、そこそこデカいくくりの年代がすでに始まっていることについて、学術的な国際団体が同意するかもしれない、というところまで話が進んでいるよってことだ。

とはいえ、本書ではその議論がどうなっているかの最前線を紹介しているのではなく、サピエンスたる現代人類に異変が起きていること、そして起きている要因や背景を中心に描いている。

この本を読んでいる方々の多くは、自然死ではなくミスマッチ病による死を迎えるはずだ。だがそれは、正しい(あるいは誤った)DNAを持って生まれてきたからではない。ミスマッチ病は、身体とその身体が置かれた昨今の環境との緊張関係によって生じると考えられている。(p.9)

進化の圧力を受けるほど十分な人類の歴史(=時間)はなく、よって異変が起きる原因は、遺伝子ではなく、むしろ環境だということになる。有り体に言えば、仕事で座っている時間が長くなったので腰痛になる人がものすごく増えたという、なんだかわざわざ小難しく説明されるほどでもないという話になる。

足から始まり手に至るという構成で非常に丁寧に書かれている一方で、結論は、

私が持っている特効薬を使えば、人びとが苦しんでいる病的状態の95%以上を元に戻すことができる。その解決法はたった一行で表現できる。「世界中の政府が運動不足と肥満にとり組むこと」。(p.299)

ということになる。

座り仕事が多くなり、運動不足だからとジムに通い、ジョギングをしたり、肩こりや腰痛がひどくなれば整体に通う。こういう人は日本でも少なくないだろう。

かくいう私もそれに近い。新型コロナ対策で在宅勤務が奨励されたが、ほぼ家から出ず、近場のスーパーやコンビニへ自転車で買い物をして、さっと帰るみたいな生活をしていたら、これはマジで体に悪いなと直感し、いち早く普段の出勤に戻した。

今の会社は駅から徒歩20分で、家から駅の徒歩10分と足すと、合計で往復1時間歩くことになる。歩くことは大事というのは、本書で何度も何度も登場する。

人新世という新しいコンセプトについては、あとがきにあるように

人類が発明した多数の新化合物、核実験による放射性同位体、土壌に含まれるリン酸塩と窒素(人工肥料の成分)、プラスチック片、コンクリート粒子、ニワトリの骨など(p.314)

といった人新世たる新しい世へと移り変わったという客観的にサポートする証拠がある。人間という生命体が急激に増え、総じて活動が活発化し、環境を破壊し、互いを殺し合っている。地球の歴史を鑑みると極めて短い期間に人間が環境を変えてしまっていることはよく分かる。

改めて本書に戻るが、非常に大きなスケールの話題であるが、サピエンスの異変はどうにもしょぼい。腰痛、糖尿病、アレルギー、視力低下、骨粗鬆症、腱鞘炎など。

もうちょっとワクワクするような話かと思っていた。まあ、意識づけて歩くようにはしようとは思いましたけれど。他にも人新世の本を読んでみたい。

西本統さんの活躍を言祝ぐ

このような無粋なブログで取り上げる内容ではないかもしれないが、バスケ仲間の西本統さんがモビエボで取り上げられた。

newspicks.com

山里亮太さんらと出演され、華やかな世界で、こうして注目されたことをまずお祝いしたい。さて、このブログを書いている私の実名を公表していないばかりか、そもそも誰かにこの存在を教えるようなこともほとんどしておらず、ひっそりと、あくまで読者は将来の自分という極めて身勝手かつ無責任な態度でちょくちょく更新している。

ほとんどは取るに足らない読書感想文めいた駄文を載せ、急に多面体折り紙を始め、たまに家族のことを書いている。40代ロスジェネという自身の属性をブログタイトルにしているが、そこまで拘りも恨みもあるわけでもなく、炎上もバズりもしないように、ゆるゆると書いている。

先程紹介した動画を見て、何かしら書き残しておきたいと思い、文章をしたため、このブログに載せることにした。これを統ちゃん(普段はこう呼んでます)に教えるかどうかは現時点では決めていないのだが。

前置きはこのくらいにして、この動画を見終わった時に、何かが心に引っ掛かった。何だろう。そうだ。動画の最後に山里さんが今日の学びとして「泥最強」とまとめたことだ。

確かに、自転車の再配置業務と実機の確認、新規ポートの設置、既存ポートの清掃、自転車のメンテナンス、新規開拓などで、朝早くから夜遅くまで365日働き、ワークライフインテグレーションと統ちゃん自身が表現したように、仕事と生活を一体化したような「泥臭い」と形容できる働き方だった。

わずか3名で日々拡大していく業務量をこなしている姿には感動すら覚える。しかしながら拭えなかったのが、「泥」という表現への違和感だ。

かの名著SLAM DUNKから引用しよう。

華麗な技を持つ河田は鯛…。お前に華麗なんて言葉が似合うと思うか赤木。お前は鰈だ。泥にまみれろよ。

体育館で大根の桂剥きをする板前修行中の魚住純の名台詞だ。

あいにく統ちゃんが仕事をしている姿はこの動画でしか見たことがない。確かに「泥臭く」働いている。感動すら覚える。しかし、バスケのスタイルは華やかなのだ。

長い手足を活かしたディフェンス、滞空時間の長い高いジャンプ力、速い縦への突破、スピードを優先したファンブル混合比率高めのドリブルによる速攻、精度の高いストップアンドジャンプショット、受け手への配慮を些か欠いた下投げノールックパス。こうした派手なバスケをするイメージが強く、泥っぽさを微塵も感じさせないこととのギャップが違和感の一つだ。

もう一つは「泥臭い」という言葉の曖昧さあるいは二面性だ。一般的に泥臭いという表現は、川魚へのネガティブな評価であったり、あるいは洗練されてない様子(unsophisticated)を指し示す。

他方で、必死さ、愚直さ、真摯さ、粘り強さ、一生懸命さという感じで、ポジティブに捉えられることもある。しかしながら、必死に頑張っている人に対して、「泥臭いね」とは、普通は言わない。

改めて動画を見直すと、田中道昭立教大学教授は、

「ものすごく手間ひまのかかるものすごい泥臭いビジネス」(43:58)

と発言していた。そして「泥」という言葉が出てくるのは、ここが初めてだ。

なるほど、違和感の正体がわかった。田中教授はビジネスを泥臭いと形容していたのだ。働き方を泥臭いとは評してはいない。一方で、山里さんは泥最強とその日、学び取った。

要するに、田中教授は統ちゃんのことを「経営者」として認識していた一方で、山里さんは「従業員」として認識していた、というパーセプションギャップが根本にあるのだ。

数年前はバスケ後にいつもの居酒屋(動画にも映っていたお店)で飲むと、統ちゃんはだいたいヒートアップしてきて、持論を語り出す。統節(おさむぶし)と呼ばれているが、その頃から、経営者か思想家(あるいは宗教家)向きだとは思っていた。現在、厳密には経営者ではないかもしれないが、動画を見ると、むしろしょうもないベンチャー企業の社長よりも経営者然としていると感じた。

今の会社の前のポジションで、企業経営者と接する機会が多くあった。大きな会社も中小企業もスタートアップもあった。競争を勝ち抜いてその座を手にした人も父親から引き継いだ人も引退した人も会社を潰した人も上場した人も社長の座から引きずり降ろされた人も知っている。

だが、私がこの経営者は優れているなと感じた人は、例外なく、ビジョンがあり、熱意を持ってそれを語れる人だった。優れた経営者は教祖に近く、否応なしに人を惹きつけるものだ。泥臭く働くことは美徳かもしれないし、感動を呼ぶかもしれないが、それが人を惹きつける重要なポイントにはならない。

そして統ちゃんには明確なビジョンがあったし、熱意を持ってしかも誰に対しても伝わるように説明することができた。そこがこの泥臭いビジネスが成功に向かって進めていけている最も大事なポイントである、と私は思う。だからこそ協力してくれる組織が現れ、ポートのスペースを貸してくれる方の理解が深まり、ユーザーが増え、事業が拡大していった。

ビジネスの世界はおそろしく苛烈だが、世の中を変えるのにこれ以上に合理的な方法はない。

私は統ちゃんのように若い人がビジョンを持ち、新しくビジネスを立ち上げ、そして社会を、世界を変えていく世の中になることを強く願っている。もちろん、若くなくても起業して良い。私自身だって、そういう一人になりたい。

私はこの動画を見て感動を覚えた。だからこそ「泥最強」とまとめられてしまったことに違和感が残った。せっかく、良い動画だったのだ。泥臭いというのはポジティブに用いられることもあることを重々承知しているが、新しく一歩踏み出そうとしている人の背を押す言葉としては不適切であり、また統ちゃんの生き方をまとめる言葉としても不適切であろうと思い、こうして駄文をしたためた次第である。

ともかく、今後の統ちゃんの活躍を楽しみにしている。また、一緒にバスケして飲みましょう。

感想文20-45:16歳からのはじめてのゲーム理論

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広大なミクロ経済学の中できらびやかな分野といえばゲーム理論だ。2012年度にゲーム理論を学んで、もっと早く出会っていれば良かったと悔やんだ。こんなに面白い研究分野があったのかと。

数学が得意(トレードオフなのか国語と社会はさっぱりだったの)で理系に進んだものの、男子校生活から早く抜け出したいと工学部や理学部を選ばず、さほど強い興味のない農学部に進学した。それはそれで良い思い出になったものの、私の進学についてきちんと相談できる師と呼べる人は周囲にいなかった。

そもそも父親は高卒だし、母親は大卒だけれど教育系だったし、親戚を見ても理系は誰もおらず、大学進学者も数えるほどだった。年上の親戚よりも成績は私の方が良かったこともあり、アドバイスしにくいと捉えられたかもしれない。そもそも商売人が多い家系で、学問そのものに詳しい人はいなかった。

もっと学問全体を俯瞰して、そこから自分が真に面白いと思えるものを選んで、人生を歩んでいれば、また違う人生だっただろうし、今と違う仕事をしているかもしれないなと夢想しているが、今の人生に大きな不満があるというわけではない。人生とは選んでいるようで選ばれているだけかもしれない。

さて、もっとも美しい数学 ゲーム理論(感想文09-53)を読んだときには、さっぱりゲーム理論を理解していなかった。感想文は書いていないが、2012年度の社会人学生時代に神戸 伸輔『入門 ゲーム理論と情報の経済学』で勉強し、囚人のジレンマや展開型やナッシュ均衡と完全均衡などを学んだが、まだまだ理解は及んでいない。

また、ジョン・ナッシュの半生を描いた映画『ビューティフル・マインド』を見る機会があったが、そこでは天才性と引き換えに精神疾患に苛まれる数学者の話で、ちょくちょくゲーム理論っぽい話が登場するが、映画を見るとゲーム理論に詳しくなるというわけでは、残念ながらない。

考え悩む人が、考え悩む人たちの社会の中で、どうやって考え悩むのか、どうやって意思決定するのか、それを研究する学問があります。その学問は、「ゲーム理論」と呼ばれています。(p.004)

私が老齢してきたことも影響しているが、単純さと複雑さの間にある人間社会というものについて、考えることの面白さがわかってきた。どんな小さな組織、例えば家族や息子のサッカーチームや小学校の卒対などでも、あるいは大きな組織や集合体、例えば会社やコロナ禍の都民や米大統領選の有選挙権者などでも、多くの人が悩みながら意思決定していく。

逆に言うと、ゲーム理論をベースに考えていくと、協力しないことや十分に話し合わないことが誤った意思決定に導いていく様が見えてくる。私はそんな誤った意思決定を歯がゆく思う。それは自分の思い通りにならないことへの不満ではなく、なぜ協力したり、情報を共有したりしないのか、あるいは協力や情報共有できない理由や障壁の存在を考えようとしないのか、というモヤモヤだ。

本書は、そんな「社会のことをよりよく理解したい」人に、ゲーム理論に触れていただくための、物語集なのです。(p.006)

結論を言うと、私のようにゲーム理論をかじったことのある人にとっては、あまり身にならないと思う。さすがに簡単すぎる。とはいえ、入念に考えられており、読みやすく、16歳でも読み解きやすくできている。よって、私の長男が高校生になったら、勧めることにしようと思う。

気になった箇所を挙げておこう。

たとえ他の人と意見が一致しても、それは話し合いを終える理由にはならない。もっと情報を共有すると、意見は変わるかもしれない。(p.058)

これは大変重要な示唆で、例えば夫婦間で話し合いがあり、それが例えば離婚という結論で一致したとしても、互いにもっと話し合うことで異なる結論にたどり着くことがあるということだ。互いに誤解している場合もあるだろうし、そもそもの前提が覆されることもあるだろう。逆も然りで、付き合っているカップルが結婚するという結論に至っても、よくよく聞いたらパートナーに借金があるとか、経歴を詐称していたとかあって、やはり結論が変わることがある。囚人のジレンマでは互いに自白が支配戦略となるが、それぞれの状況が筒抜けだったら黙秘が支配戦略となる。

「人が何かをするのには、理由がある。」これは、我々人間の社会生活において非常に重要な考え方なのではないか、と私は思います。そしてそんな「人間の社会生活」を分析するのが、ゲーム理論なんですよ。(p.142)

本書でも言及されていたが、何かをしないことにも理由があるのだ。人間の行動は面白く、私の好きな言葉の一つに「Action speaks louder than words.」があり、何をしたか、あるいは何をしなかったかということが雄弁にその人の心理を表している。そいつが口で何を言っていたかは当てにはならないのだ。

さて、現実社会は更にややこしくなっている。情報は反乱し、フェイクニュース(と自称ファクト)が混在し、SNSがあり、メディアが情報を乱反射し、それらが意思決定に影響を与える。大阪都構想住民投票アメリカの大統領選挙はその際たる事例だ。

私たちが行動する際には理由がある。でもその理由が正しいかどうかは別問題だ。正しいかどうかはその時点では判然としない場合もあれば、単純に情報が足りない場合もあろう。そういった不確かな情報を前提にどうするかを考える際にもゲーム理論はきっと役立つことだろう。

感想文09-53:もっとも美しい数学 ゲーム理論

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※2009年8月19日のYahoo!ブログを再掲

 

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トム・ジーグフリードっていう外国の科学ジャーナリストが書き、冨永星さんが翻訳した書。富永さんをどこかで見たと思ったら「素数の音楽」も翻訳している。

ゲーム理論って取っ付きやすいネーミングに反して、数学は絶望的に難解だ。そして今では色々なことに応用されている。経済学の分野が好例だ。

そしてゲーム理論を経済学に持ち込み大きな仕事を果たしたのが、かの「ジョン・ナッシュ」。ナッシュの人生を描いた映画「ビューティフル・マインド」のおかげで世間的にも有名な数学者だ。残念ながらぼくはその映画見たことないんだけれど・・・。

本書の原題は「A Beautiful Math: John Nash, Game Theory, And the Modern Quest for a Code of Nature」。あからさまに「A Beautiful Mind」にあやかっている。

ふむ。

英語ではMindとMathは字数が一緒で何となく似ている。一方で、日本語だとマインドとマスで似てない。だから邦題で「ビューティフル・マス」にしなかったんだろう。

まあ、そんなことはさておき、久しぶりに数学の本を読む気がする。といっても本書は数式なんてこれっぽっちも出てこない。そして悲しいことにゲーム理論の美しさを感じることは出来なかった。

とはいえ、本書はゲーム理論の歴史的背景を紐解き、そして今どういったことに応用されようとしているのか、最先端ではどんな研究が進んでいるのかについて分かりやすく書いている。

1つの分子を正確に把握することが出来ないように、一人の人間の行動を予測することは困難だ。しかし、気体の温度から分子の振る舞いが分かるように、人間集団の行動を予測する方法がある。ゲーム理論はまさに人間集団の行動を予測することに有効であると考えられている。

17世紀にアイザック・ニュートンが物理学を、18世紀にアダム・スミスが経済学を、そして19世紀にチャールズ・ダーウィンが生物学の基礎を築いた。20世紀には量子力学、遺伝学、分子生物学が花開いた。

本書を読み進めれば、ゲーム理論が経済学、量子力学、生物学とつながり、統合し、新しい地平が開けようとしていることが、分かる。世の真理にゲーム理論は深く結びついているのだ。

といっても実感を持ってゲーム理論の壮大さを認識できるかというととそうでもない。

そもそもゲーム理論が何なのかその根っこが分かんないからだ。もうちょっと勉強してみたい。

さてさて、本書でもたくさん登場するけれど、よくもまあ人間はいろんなゲームを考えつくなぁと素朴に思う。

そういえばカイジが映画化される。カイジでは数々のゲームが登場するけれど、中でも限定ジャンケンは秀逸だ。ゲーム理論の格好の題材になるだろう。

ビューティフル・マインドカイジ。二つの映画はゲーム理論でつながっている。

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(感想文の感想など)

映画ビューティフル・マインドは見ることができた。カイジは見てない。

ゲーム理論をちょっとだけかじった今、読み直してみたいな。