40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文23-10:砂の女

会社の後輩にお借りした安部公房さん(1924-1993)の有名な小説安部公房さんのご高名はもちろん一般常識として存じ上げてはいるのだが、彼の作品を初めて読んだ。

私が生まれるよりだいぶ前の1962年に出版されているのだが、古さを感じさせないくらい読みやすかった

ウィキペディアで調べてみると安部さんが東京大学医学部卒業という経歴を初めて知り驚く。森鴎外(1862-1922)みたいな感じだろうか。2人の人生は重なっていないけれど。

同じ1924年生まれは河合雅雄竹下登村山富市赤木春恵安倍晋太郎相田みつをジョージ・H・W・ブッシュジミー・カーター山崎豊子、木村資生、吉本隆明といったお歴々。山崎豊子さんと同じ年生まれだったのか。

ウィキペディアによると『安部の作品は特に共産主義圏の東欧において高く評価』という記載があり、赤い国に受けるのかと考えさせられた。

その、流動する砂のイメージは、彼に言いようのない衝撃と、興奮をあたえた。砂の不毛は、ふつう考えられているように、単なる乾燥のせいなどではなく、その絶えざる流動によって、いかなる生物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることばかりを強要しつづける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。(p.17)

絶えずさらさらと流動する砂。まとわりついて離さない「現実」と全く異なる性質の砂。その慣れない砂にとの生活に苦しみ、逃げようとしても逃れられず、そしてその砂を「現実」として受入れ馴致していく。確かにディストピアが赤い国っぽさはあるのだろうか。

読後から感想文を書くまでに数カ月のタイムラグがあるのだが、何かしら心に残っている。それをうまく言語化できる能力が私にはないのだが、砂というありふれた存在が、人間を惑わせ、困らせ、そして諦めさせる。

砂と言って思い出すのが、アリジゴク(ウスバカゲロウの幼虫)だ。小学校の教員だった母がなぜか我が家にシャーレに入ったアリジゴクを持って帰ってきて、餌としてアリを近くの公園で捕まえて入れてみたが、うまく捕食されなかったのを思い出す。

うまくいった動画を見たことがあるが、アリがさらさらとこぼれる砂に足を取られてもがき、ついにアリジゴクに挟まれる。その後、養分を吸い取られ、からっからになったアリがポイっと外に捨てられる。

クモやアリジゴクのように罠で待ち構えて捕食する生き物の不思議について、子供心にワクワクすると同時に、なぜこういう手間のかかる面倒な方法に至ったのか不思議だった。自らの生体材料でクモの巣を張るクモとは違い、アリジゴクは砂の粒度や乾燥具合といった素材選びが重要になるので、どうやって目利きをするのか不思議でならなかった。

砂も水と同じく流体であるが、生命を育む水とは異なり、圧倒的な無機物の大量の粒は生命を刈り取る場に感じる。生きるために必要な水分を奪うだけでなく、アリジゴク(やFFのサンドウォームみたいなファンタジーな生き物含む)のような捕食者が潜んでいるかもしれないという得体のしれない恐怖を喚起させる。

砂の女にはまさにその得体のしれない恐怖があり、そして死への恐怖にすら馴致してしまう人間の順応性と柔軟性の高さ、さらには愚かさと滑稽さが、私の心に残っているのだろうか。やっぱりうまくまとまらない。