40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-33:ファイト

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いつ以来だろうか。私の好きな作家である佐藤賢一さんの小説。調べてみたら、遺訓(感想文18-41)以来だった。

そういえば、小説の感想文はブログを再開してから初めてだ。小説を読まないわけではないが、一時期よりも格段に読む頻度も量も減った。

読みたい小説がないわけではないが、体が物語を欲している時とそうでない時があって、今はそうではない時のようだ。またぞろ読みたくなる時が来るだろう。たぶん。

さて、本書の主人公はモハメド・アリ(1942-2016)。意外だ。ヨーロッパの歴史小説が得意のイメージで、たまに日本やアメリカを舞台にした小説もあったくらいだ。

では、私が知っているモハメド・アリといえば、蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a butterfly, sting like a bee)という有名なスタイル。華麗なフットワークと鋭いジャブが持ち味のボクサーであるということ。

それからアントニオ猪木異種格闘技で対戦したということ。猪木が寝転がってアリにローキックをするという前代未聞の戦法の映像は何度か懐かしの名場面的な番組で見た。

何よりも興味深いのは本書の構成である。以下の4つの試合から構成されている。

第1試合:対ソニー・リストン、ヘビー級15回戦、世界タイトルマッチ、1964年2月25日
第2試合:対ジョー・フレージャー、ヘビー級15回戦、世界タイトルマッチ、1971年3月8日
第3試合:対ジョージ・フォアマン、ヘビー級15回戦、世界タイトルマッチ、1974年10月30日
第4試合:対ラリー・ホームズ、ヘビー級15回戦、世界タイトルマッチ、1980年10月2日

短い回想はあるものの、幼少期や現役引退後の話は全く出てこない。自伝的小説ではない。愚直なまでにアリ視点からの試合が詳細に描かれる。結果を知らない私は、夢中になって読み進める。勝てるのか、負けてしまうのか。

そして私の知らないアリがそこにいる。

イスラム教徒であることを発表したのはこの試合(*第1試合)の翌日だった。それは黒人のアイデンティティだ。ブラック・ムスリム運動は、白人社会に対する抗議だ。(中略)名前を「モハメド・アリ」に変えたのは、さらに1週間後の3月6日のことだった。(p.89) 

モハメド・アリというのは本名ではない。カシアス・クレイから改宗して、名前を変えた。残念だけれど、私はその時代に生まれていないし、学校の授業でもまともに習ったこともない。なんとなく親にも聞きにくい時代だし、テレビ映像も限定的だしで、歴史の空白地帯のようだ。

アリは、イスラム教に改宗し、ベトナム戦争への徴兵を拒否し、アメリカという国家を敵に回し、干される。世界タイトルを剥奪され、長期の試合禁止によって、最もアスリートとして油の乗った時期を逸してしまう。

それは世の黒人差別と、断固戦うことの宣言だった。アメリカの公民として、法の上での平等を獲得したい。そう打ち上げる公民権運動、あるいは黒人革命に参加することの表明だった。それもキング牧師の非暴力不服従運動ではなく、白人の宗教だからとキリスト教さえ拒否する、より過激なブラック・ムスリム運動に加わったと公言した。(p.105)

現在のBLMを想念させるが、当時はもっとラディカルで、コントラバーシャルだった。
アリは良い奴ってわけではない。大言壮語し、大口をたたき、尊大で、不遜だった。ボクサーとしては、理知的で、冷静で、相手の心理を読み解き、華麗だった。

認められない-俺が負けることなど、あってはならない。俺は正しいからだ。善であり、理であり、法であり、俺のやることは、全て神の御心にかなうのだ。(p.179)

アスリートは自身の絶頂期を、自身の最高のパフォーマンスを見せれる時をいつか迎え、そして残念ではあるけれど、年とともに衰えていく。

ボクシングというスポーツの特殊性についても書いておきたい。リングで1対1で殴り合うシンプルかつ時には死ぬこともある危険なスポーツだ。

「黄金のバンタム」を破った男(感想文14-64)では、国威発揚というか国家の威信というか、そんな時代のファイティング原田の話で、不条理さ、物悲しさ、切なさが、その当時の単なるスポーツではないボクシングに陰影を与えていた。

本書は様々な要素を削ぎ落とし、4試合を丁寧に描くことで、ボクサーとしてのアリだけを精製している。しかし、そこにあるのは肉体的な強さだけではない。アリの信念と欠陥だらけの人間味がにじみ出てくる。

とにかく私はアリのことが好きになった。対ジョージ・フォアマン戦を動画で見てみたい。ネットであるのだろうか。