40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-18:誰が科学を殺すのか 科学技術立国「崩壊」の衝撃

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なかなかショッキングなタイトルだけれど、「殺す」とか「衝撃」といった目を引くタイトルをつけないとこういう本は売れないのだろうか。

理系白書など科学技術政策全般について長く取材してきた人材と経験と定評のある毎日新聞社の取材班による本だ。書かれ方は新聞っぽく、立場の異なる方へのインタビュー記事が載っている。

科学についてはこれまで多くの本を読み、多くの感想文を書いてきた。今回は、いくつかの疑問を起点として、感想文を書いてみたい。

改めてタイトルを見てみる。最初の疑問点は、日本の科学は死に瀕しているのか?だ。

科学技術・学術政策研究所(NISTEP)による科学技術指標2019 概要を見てみよう。

4.研究開発のアウトプットから見る日本と主要国の状況

(1)10年前と比較して日本の論文数(分数カウント法)は微減であり、他国の論文数の増加により順位を下げている。順位の低下は、注目度の高い論文(Top10%補正論文数、Top1%補正論文数)において顕著である。

 なるほど。論文数自体は減っているわけではないので、科学に関する活動そのものは維持されてはいる。しかし、世界の中での日本の科学の存在感は確実にしかも急速に低下している。

続いての疑問は、日本の科学が死につつあるかどうかはさておいて、日本の科学が相対的に弱くなっている原因は何か?だ。本書では、企業が中央研究所を無くし自ら研究開発をしなくなったこと(自前主義からオープンサイエンスへの転換)、大学の法人化と運営費交付金の削減、大型外部資金の過度な選択と集中、肥大する内閣府と歪む行政という流れになっている。

国立大が比較的自由に使える国からの運営費交付金は、政府の行財政改革の一環で、04年度から毎年約1%ずつ減額され、15年度までに当初の1割に相当する1470億円が削られた。実に、中規模の国立大20校分の年間予算に相当する額が10年余りで消えたことになる。(p.107

内閣府は肥大する一方だ。01年に内閣府が発足したときの職員数は2412人だったが、18年度は3318人と約1.4倍に増えた。企業からの出向者も増えているという。(中略)ある文科省OBは「科学技術予算を査定する立場の内閣府が自ら予算の執行もすれば、やりたい放題ができる。内閣府肥大化の歴史はそのまま内閣府が腐っていく歴史だ」と批判する(p.203-204

数字を見るとわかりやすい。政策立案者の意図は明確だ。大学を競争させる、大学を間引きする、中央集権化する。これらが日本の科学を強くすることにはつながらなかった。とはいえ、こういった政策が、科学を殺そうという「殺意」があって立案されたかというと、さすがにそうではないだろう。

「大学改革」という病(感想文18-08)の感想文でも書いたが、日本経済が傾いている以上、大学改革は避けられなかった。そして、死に瀕しているのは、日本の科学ではなく、日本という国家そのものだ。

世間で科学の重要性が語られるのは、ノーベル賞の時期くらいだ。科学は大事ということに私は完全に同意する。世界を認識する上で最も堅牢でしかも共有できるからだ。

他方で、細分化し、複雑化し、大型化していく科学は、個人が道楽でできる活動ではなくなってしまっている。国家予算を大量に投下せねばならず、そのため国家と科学は切り離せなくなっている。

と同時に科学はイノベーションの源泉になりうる(科学とイノベーションを結びつけるのは至難の業だが)。国家だけではなく、経済成長とも不可分になっている。

国家(ナショナリズム)であろうが企業(グローバリズム)であろうがどちらも経済成長を嗜好している。進歩主義と言っても良いだろう。これは科学と親和性がある。

だが、果たしてそんな余裕があるだろうか。死に瀕しているのは、日本だけなのか?プラネタリー・バウンダリー(感想文20-16)が示唆するように地球そのものが死に瀕しているのではないだろうか。

地球を救えるのは科学ではない。人間だ。地球の状況を精度良く認識し、共有するために科学以上に優れたツールはない。経済成長やイノベーションの源泉として科学に期待するのは、科学を過小評価していることに等しい。

誰が地球を殺しているのか。終末論を煽るつもりはないが、ナショナリズムでも、グローバリズムでもない、科学が手を携えて歩む新たな道を模索できないだろうか。