40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文12-68:障害者の経済学

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※2012年11月8日のYahoo!ブログを再掲。

 

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これまでの30数年の人生で全く障害者問題について考えたことがなかった。かろうじて関連すると言えば、ずいぶん前に仕事で特殊教育学校を訪問したことがあるくらいだ。

前置きを既にしているけれど、もうちょっとだけ付け足そう。この感想文で言う障害者は知的障害者を念頭に置いている。ぼくは障害者が苦手だし、どのように対応しても良いか分からない。障害者問題を解決したいという情熱があるわけでもないし、そもそも障害者が周りにはいない。

それでも自分の子どもが障害者として生まれるという可能性を全く吟味していなかった。そのことに気付かされて本書に行き着いた。障害者問題について、できれば怜悧にドライに分析している本を探していた。個人的な手記や家族の苦労話はできればあんまりインプットしたくない。申し訳ないけれどおそらく感情移入できない。

現在、学校で学んでいる経済学的な視点のものが欲しかった。それが本書で、日本ではおそらくこの本くらいしかないのだろう。

まずは気になった箇所を挙げておこう。

日本の経済学者はこれまで障害者の問題を避けて通ってきた。(中略)基本的に市場経済を信奉する経済学者の多くは、「弱者」は制度がつくり出すものと考えている。

つまり、あの経済学者でさえ障害者は弱者として考えているのかもしれない。それだけこの本は非常に難しい問題を取り扱っている。

障害者問題をわかりにくくしているもう一つの原因は、それを福祉の問題としてとらえてしまうことである。福祉といったとたんに人々は思考停止状態になる。なぜなら、福祉は「正しい行い」だからである。

なるほど。障害者問題=福祉ではない。これって教育も同じように思える。教育は正しいという前提にあるからだ。実際はそんなことになっていないとみんなが把握しているのは、誰しもが少なからず学校教育で苦い思い出があるからだろう。

統計資料がないため確たる数字は出せないが、障害児を持つ夫婦の離婚率が高いことは知る人ぞ知る事実である。

ふうむ。これって本当に悩ましい。出生前診断で産むという選択をしても、結局はその夫婦が離婚してしまうケースが多いのかもしれない。こういう先のことまで見据えて、判断することになるのだろう。

「分相応の行動規範」(中略)は障害者を暮らしにくくする。まず、障害者の新規ニーズが出にくい。

障害者は要するに税金をもらって生活している。新規ニーズを把握することができないという、本当に基本的なことがそもそもの問題となる。

差別とはシグナルがもはや有効ではないことを意味するのである。障害者というシグナルは分相応の行動規範を基準につくられている。「障害者は援助を受ける立場にあるのだから、あれこれ文句をいわずにみなの世話になって大人しくしてなさい」というような行動規範は、自分の意思で生きようと考えている障害者にとっては差別と映るのだ。

シグナリングは経済用語だ。マンキューのミクロ経済学によると『情報をもっている集団が情報のない集団に対して私的情報を明らかにするためにとる行動』と定義されている。例えば企業がお客に良い商品ですよとテレビ広告する場合などがシグナリングとなる。このシグナリングが有効でない場合、差別になってしまう。つまり、援助を欲しければ大人しくしてろ、というシグナルは差別でしかないのだ。

措置制度の時代、障害者施設は行政機関の一部であった。行政が障害者を施設に措置し、それを引き受ける役割を担っていたからだ。

(全く実態を知りませんが)措置制度とは、要するに「AさんはBという障害だからC施設に入りなさい」と行政が強権的に措置していたということだと理解する。これが昔の制度だったらしい。今では制度が変わって、支援費制度になり当事者が自分で選択できるようになったとのこと。経済学的にはこの方が良いように思える。

障害年金は働くことの困難な障害者にとって、安定した生活のために欠かすことのできない社会保障制度である。(中略)保障が潤沢になればなるほど、ますます障害者の弱者化が進み、働く意欲を減退させることにもなりかねない。

ふむ。どこかで聞いたことがあるなと思ったら、グラミンフォンという奇跡(感想文09-50)に載っていたマイクロクレジット創始者であるユヌスの「施し物は独立心を奪い去り、貧困を継続させる」という哲学だ。

障害者問題でも同じことが言えるのかもしれない。つまり「施し物は独立心を奪い去り、弱者化を継続させる」と。そこで貧困問題では「援助ではなく投資」へと発想を転換し、例えばそれによってグラミンフォンは成功したのだ。障害者問題も援助から投資へと変えることはできないのだろうか。

料金を徴収すれば、本当に障害者プロレスを面白いと感じる人しか見に来ないからだ。(中略)無料化で福祉的事業にするのではなく、むしろしっかりした「売り物」にすべきであろう。「売り物」であるからこそ、中身をどう面白くし、観客を満足させることができるか一生懸命考えるからだ。

これはまさに投資するに値するのではないか。障害者プロレスってちょっと見てみたい。都内でぱっと見れて、1200円くらいでどうだろうか。

障害者の自立は、自らの意思決定力を持つことであり、ニーズを表に出せるようになることを意味する。ニーズが出れば、障害者にとって本当に必要なサービスが何であるかがわかり、それを提供できるような資源の使い方を考えることが可能となる。

意思決定力とニーズ。ぼくが障害者との距離を感じてしまう、より正確には距離を置いてしまうのは、援助という鎖で社会が行動規範で縛り付け、自立心を奪い取っているためではないのだろうか。

障害者は公共財ではない。あくまで国民の一構成員である。それならば、自分の暮らし方は自分で選ぶことが望ましい。政府の援助を受けて施設で生活するという暮らし方は、独立した意思を持つ国民の暮らしとはいえないだろう。

公共財というのも経済用語だ。再びマンキューのミクロ経済学によると『排除可能でなく、かつ競合的でない財』とある。例えば花火大会がそう。見る人を排除できないし、何人見たって花火が減るわけではない。公共財はフリーライダー問題が発生するので民間市場では供給されないので、花火大会は市とか区が主催している。

では障害者はどうか。貧困問題と近いのかもしれない。アメリカのフードスタンプとか、あるいは日本の生活保護もそうなんだろうか。例えば慈善団体が炊き出しすると、フリーライダーが発生する。貧困の撲滅を公共財と考える経済学者はいる。おそらく著者は貧困の撲滅も公共財と考えないのだろう。あくまで援助でしかないのだから。

著者の言いたいことは明確だ。でも、ぼくの思い悩んだ出生前診断についてぐっとくる答えを与えてくれるものではなかった。ただ、障害者問題の輪郭がはっきりし、明瞭になってきた気がする。単なる福祉と考えるのではなく、生きている人間であり、単なる援助ではより問題を深いものにしてしまうということだろう。

ダイアログ・イン・ザ・ダークという取り組みがあり、ぼくも参加したことがある。視覚障害者が暗闇の中で色々なことをアテンドしてくれるという何とも不思議なイベントだ。そこで聞いた言葉が印象的だった。バリア・フリーからバリア・バリューへ。つまり、障害者と健常者の間の差をなくそうという考えから更に発展して、障害がむしろ健常者にない新しい価値を生み出すという発想だ。これは援助から投資という考えと近いものに思える。

障害といっても様々で障害者の間でも階層や差別意識があるのだそうだ。本書は経済学がこれまでほとんど扱ってこなかった領域を対象としている。そして、著者自身も障害者の親だ。だが、その視点はあくまで経済学者である。この本はあまりに広範で重く深い問題のすべてを取り扱っているわけではないが、障害者という誰しもが関わるであろう問題について、全く新しい視点と洞察を与えてくれると思う。こういう研究がもっと進むことを心から願っている。

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(感想文の感想など)

障害者問題について、この本を読んで以来、特段理解は進んでいない。

とはいえ、改めて読み返してみて、当時の私の気付きが、今となっては薄れていることに気付かされる。

援助を理由に行動規範で縛り付けてしまう、これは家庭内教育でもやらかしがちなことだろう。

こうして読み返すことに意義はあるね。