40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文10-68:アカデミック・キャピタリズムを超えて アメリカの大学と科学研究の現在

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※2010年9月10日のYahoo!ブログを再掲。

 

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産学連携と科学の堕落に続く、イノベーションに関連する本を読む企画第4弾。

4冊目にして初めて日本人による著作。企業に軸足をおいたイノベーション関連本が多い中、本書はアメリカの大学の視点から丁寧に産学連携について書かれているという点で、ユニークといえる。

アメリカの大学における科学研究の歴史を立体的に把握することができ、多様なインセンティブによって複雑になっている産学連携の現実を知ることができる。

3冊目の産学連携と科学の堕落(感想文10-44)にある、「行きすぎた産学連携は、大学が公共の利益のために科学を行う機会を喪失する」というややドライな結論に、一定の反論を示している。両者は、利害相反といった産学連携の負の部分を取り上げているが、本書ではアメリカの歴史を深く分析し、産学連携への悲観的な考えを否定している。例えば、

80年代に急速に発展した科学研究の市場化や大学の商業化への批判的な論者の多くが描く知識生産のモデルは、結局は伝統的な科学の共同体の議論へと戻っていくようである。

とあるように、悲観論者の主張は、ヴァネヴァー・ブッシュ(18901974)が築き上げた神話の時代への回帰に思える。その神話とは、

科学は純粋な基礎的研究であり直接的に社会に役に立つものではなくとも、やがては応用的技術へと波及し、企業にとっても一般大衆にとっても、おおいなる利益を生みだす

というものである。戦時中に作られたこの神話は、今の日本でも十分に威力がある、というよりも完全に信じこまれている。この間行われた科学への事業仕分けに対する批判のほとんどは、この神話(プロパガンダ)に基づいている。

さて、本書というか、アメリカの大学のキーワードは、パトロネッジ(patronage)に集約される。早い話が、研究費をどこから調達してきたかという苦闘が、アメリカの大学の歴史を形作っている。

どの時代においてもアメリカの科学者は、理想としての科学研究を遂行するために、常にどこにパトロネッジがあるのかを念頭におき、パトロンとの緊張関係のなかで政治的駆け引きのゲームを繰り広げてきた。

ヨーロッパの大学とは異なる、反知性主義(知識を一部の特権階級が独占することへの批判)、反エリート主義、科学と技術は分かちがたいという思想、実利性、実践性、マーケット志向は、アメリカの大学の根底を成している。このことを無視して、現在のアメリカの大学を語ることはできないと、著者は主張する。

なかなか整理が難しい。ちょっと自分の言葉で、アメリカの大学の変遷を描いてみよう。

19世紀末:アメリカの科学の黎明期。ヨーロッパのような学問のための学問じゃなく、産業につながるものにしよう。州立大学、私立大学が多数誕生。

戦中・戦後:基礎研究の神話ができる。国からの莫大な研究費が投入される。有能な人材がこぞってアメリカに来る。知識は公共財とみなされ、その考え方を経済学者は支援。基礎研究の天国だけど、ヨーロッパへの肥大した憧憬ともいえる。科学の帝国時代。軍事研究も盛ん。

70年代:基礎と応用の二元論に批判。基礎から応用そして産業というリニアモデルが成り立たないことが明らかに。このことは科学者への人類学的アプローチによる。公的資金は急減。大学は別のパトロネッジを探すことに。

80年代:バイ・ドール法が成立するなど、プロパテント政策へシフト。大学は産学連携を強め、資金を確保する。60年代に国が投資したバイオ研究が花開き、パテント収入が潤い出す。

現代:生命科学と特許戦略とうまく噛み合うが、同時に、アンチコモンズの悲劇を引き起こす。つまりは、知識(さらには遺伝情報までも)の私有化が進み、それに反発して国家(主として途上国)が介入するようになる。

まあ、こんな感じかな。とはいえ、正直なところ、特許と所有の関係については、あんまり理解できていない。遺伝情報での特許の問題にあるように、ここはまだ議論が尽くされていないのだろう。人体の所有権も同じような関係にあるのかもしれない。突き詰めれば、特許も所有もどちらについても、どこまで国家が介入するかということになる。すなわち、政治哲学的課題になってしまう。

そのほかに、産学連携についても国家との関係は切り離せない。

これから弱い大学は潰れていくのは目に見えているが、生き残る術として必ずしも産学連携が選択されていくようには思えない。なぜなら、財産を有した年配の富裕層をターゲットにしたカルチャースクール化の方が現実的だからだ。結果、知識を生産するという大学の基本的な機能を失ってしまうかもしれないけれど。

大学は、知識を生み出す、このことについて改めて問い直す時が来ている。そして、公共財としてだけでなく、様々な形態の知識が、多様なインセンティブと組み合わさって、また新しい知識を生み出していく。

一方向でなく、双方向で、循環する知識生産モデルが求められているが、知識を生産する機能それ自体が低下している日本の大学の現状において、アメリカの特異的な事例を表面的になぞっても、参考にならない。

大学で生まれる知識に、もはや基礎研究と応用研究の垣根などない。古典的なアカデミアの知と、実践的な知を区別する根拠もますます希薄になっている。

そういう状況において、基礎研究へ投下される公的資金の減少をなげくのではなく、科学技術の間に・(ポツ)を入れることに躍起になるのではなく、新しいパトロネッジの探索を模索した方が意義があるだろう。

とはいえ、日本の悲哀は、官から逃れられないことにあるように思う。行政改革ができない限り、大学の状況は変えにくく、日の丸親方的発想の産学連携が進むだけで、知識は生産されないのではないだろうか。

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(感想文の感想など)

日本の科学は、公的資金、民間企業資金以外のパトロネッジを見つけることが急務だ。

クラウドファンディングSDGs投資くらいしか思い浮かばないのだけれど。

「知」あるいは「知を生み出す可能性」に市場は形成されるのだろうか。