40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-28:世界を変えた6つの「気晴らし」の物語

f:id:sky-and-heart:20200719114619j:plain

世界をつくった6つの革命の物語(感想文17-10)と同じスティーブン・ジョンソンさんの著作。6が丁度いい数なのだろうか。今回は「気晴らし」をテーマにしている。

「気晴らし」とは、歴史的変化の誘因として引き合いに出されることなど、ほとんどない言葉である。(中略)進歩のごほうびか、自由と豊かさを求める運動が成功したときに文明が享受するおまけである。(p.026)

原題はWonderlandとなっていて、これを気晴らしと訳しているが、なかなか訳者泣かせの言葉だろう。

それでは本書の6つの気晴らしとは何だろうか。それは、①ファッションとショッピング、②音楽、③味、④イリュージョン、⑤ゲーム、⑥パブリックスペースだ。

人間の進歩を測る物差しのひとつは、多くの人々に現在どれだけ休養の時間があるか、そしてその時間を楽しむためにどれだけ多様な方法があるか、である。(p.027)

確かに余暇にショッピングモールで服を買い、音楽を楽しみ、各国料理で舌鼓をうち、アニメやゲームを楽しみ、コーヒーショップやバーで気軽に会話する。こういった日常生活を多くの人は送ることができているが、気晴らしという観点で意識しないだろう。さらに、その気晴らしが生まれた原動力は何だったのだろうかなんて考えもしないだろう。

私はこの現象を「ハチドリ効果」と呼んでいる。ある分野のイノベーションが、関係ないように思える分野での動きの変化を引き起こすプロセスである。(p.028)

前書でも登場した「ハチドリ効果」。ハチドリを見て花の蜜を吸う生き物かなと想像することはできないが、花を見てハチドリという生物の登場を想像することはできない。花からハチドリという関係ないように思える生物を生み出すというのが、ハチドリ効果だ。そんなハチドリ効果について本書ではたくさん事例が示されている。

それでは、本書で気になった箇所を挙げておこう。

産業革命を引き起こした織物産業が、2世紀後のデジタル革命の種をまいている。(中略)一歩下がって、歴史をもっと広い角度から(中略)見ると、プログラム可能な機械というアイデアが、産業的野心ではなく楽しみの推進力によって広まっていた期間がどれだけ長かったか、認めざるを得ない。(p.117)

ひとりでに鳴る楽器が作られ、それは音楽をプログラム可能で、そこから音のパターンを作れるなら、色のパターンも作れるんじゃねってなり、機織り機(ジャカード織機)が作られる。それに触発されて「コンピュータの父」と呼ばれるチャールズ・バベッジ(1791-1871)が機械式計算機を作る。これが今のコンピュータへとつながっていく。

楽譜を書くために鍵盤を使うことへの関心の高まりは、もっと大きな市場の可能性を秘めた、別の応用方法を示唆していた。鍵盤を使って文字や単語、そして文章全体を記録するのだ。(p.126)

オルガンが作られ、ピアノが生まれる。10本の指と鍵盤をつかって多彩な音を出すことができる。音楽を保存するために楽譜ができ、鍵盤を使って楽譜を書けるようになると、文字を書くためのタイプライターが誕生する。「キー」ボードと呼ばれる所以になっている。

音を出す楽器の発明が、未来の計算機とキーボードへとつながっている。楽器からはコンピューターもキーボードも想像できない。まさにハチドリ効果だ。

面白いのはコンピューターの発展によって、電子音楽が誕生していることだ。またコンピューターで自在に絵を書いたり、複雑な文様を描くこともできる。コンピューターで色んなことができるなと感心していたが、順番は逆なのだ。音や色をプラグラムできる機械の誕生が先なのだ。

通説では、コンピューターおよびインターネットは、軍事技術から生まれたとされている。(中略)しかしコンピューターの発明にはほかの要素も必要だった。(p.150)

確かに軍事技術からの転用について強調される場面が多い。コンピューター、インターネット、GPSがそうだ。とはいえ、発明の歴史を広く見つめ直していくと、人が人を殺すために作られた技術だけがベースになっているのではない。これは重要な観点だろう。民生利用を軍事研究を正当化する理由として過度に強調されてはいけないだろう。

しかし、「気晴らし」だからといって、それが平和で人類愛に満ちたものだと考えるのは早計である。気晴らしも人間の欲望に端を発しているので、多くの血が流されているのだ。

現代の多国籍企業についてあなたがどんな意見を持っているにせよ、生まれたばかりのときの根っこが、成長するために人間の血を吸ったという事実は否定できない。最初は香辛料諸島、そのあとカリブ海の島々、そしてアメリカ南部など、たまたま良質な土壌、定期的な降雨、豊富な日照に恵まれた、熱帯の地域で起こったことだ。(p.166)

コショウと砂糖(砂糖の世界史(感想文09-52)参照)のために多くの血が流れたのは歴史的事実だ。そして現代のBLMとつながっている。新しい味の探求が、プランテーション奴隷貿易を生み出す。一方的な収奪と支配、解放後の差別、経済格差。巡り巡って今の感覚で偉人の銅像を引き倒すのは滑稽だ。

国際貿易、帝国主義コロンブスとダ・ガマの航海による発見、ローマ帝国滅亡、株式会社、ヴェネチアアムステルダムの不朽の美しさ、グローバルなイスラム教、ドリトスの多文化の味わい。香辛料嗜好は、現代世界における贅沢のひとつであるだけではない。香辛料嗜好は、ある意味で、そもそも現代世界がある理由なのだ。(中略)本当の疑問は、なぜ人間はそんなくだらない嗜好にそれほど多額のお金を払うことをいとわなかったのか、である。(p.179-180)

別に香辛料なんてなくったって生きていける。生存のために無くてはならないものではない。植物は〈未来〉を知っている(感想文18-33)では、トウガラシがヒトをトウガラシなしでは生きていけないようにしてしまったというわけで、トウガラシ視点だとヒトはトウガラシの奴隷になっているのだ。

ヒトは新しい刺激に抗い難く、その刺激に慣れるとさらに強い刺激や別の刺激を求める。品種交配を繰り返し、とんでもなく辛いトウガラシを作り出す。なぜなのだろうか。

文化の変容は、人間が古い経験に飽きて、新しいものに飢えるから起こる場合も同じくらい多い。これは遊びとそのイノベーション能力の奇妙なパラドックスである。遊びが人間を本能と本性からそれるほうに導くのは、人間の本能と本性のためでもある。(p.383)

ヒトは生存本能のために家を作り、衣服を作り、火をコントロールしたかのように考えがちだ。もちろん間違ってはいない。しかし、生き残るためだけに、あるいは子孫を残すためだけに生きているのではない。

気晴らしや遊びの要素が確実にヒトを進歩させてきた。ファッションや音楽やコミュニケーションの場や香辛料やゲームは生存するために必要不可欠とは言えないが、生きていくためには必要なのだ。

その日に食べるものがなかったり、寝床がなかったり、野生の大型動物に襲われるかもしれないという恐怖から開放され、私たちには気晴らしを楽しむ余裕がある(今でも余裕のない人ももちろんいるだろう)。その気晴らしや遊びは非難されるものではまったくなく、むしろそこから新しい発明が生まれ、大きな産業へと発展する。あるいは生活スタイルや考え方を根底から変えてしまい、それが社会制度にまで影響を及ぼす。

本書は新たな視点を与えてくれたという点で大変面白かったが、それでも西洋的観点が支配的だった。特にゲームについては物足りない。幸せな未来はゲームが創る(感想文15-28)のように、ゲームそのものについてもう少し丁寧に深堀りして欲しかったなと思わなくもない。

個人的には、前書の「世界をつくった6つの革命の物語」の方が知的にビリビリきた。気晴らしという視点は斬新だが、味とゲームをひとくくりにするのは、ちょっと無理がある。前書が良かっただけに、それだけ期待して読んでしまったということなんだけれど。