40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-34:絶望を希望に変える経済学

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貧乏人の経済学(感想文13-05)と同じく、アビジット・V・バナジーエステル・デュフロの夫妻による著作だ。アビジット&エステル夫妻は2019年に「世界の貧困を改善するための実験的アプローチに関する功績」でノーベル経済学賞を受賞している。

私の学問的バックグラウンドは理系だが、30代前半に経済学を学び直す機会があり、きちんと必要な単位を習得し、(2つ目の)修士号を取得するに至った。今のところお金儲けにはさっぱり関心を持てないが、市場や税や規制や独占といったミクロ経済学が取り扱う領域には強い関心があり、経済学は私のライフワークの一つとなっている。

改めてミクロ経済学の歴史(を語れるほどわかっていないが)を概観してみると、需給曲線による市場の理解から、オークションやゲーム理論といった個別の取引へと発展し、行動科学(古い言葉で言えば心理学)と融合した行動経済学へと広がり、根拠に基づく医療(EBM:Evidence Based Medicine)で質の高い研究手法であるRCT(Randomized Controlled Trial)を経済学に取り入れるようになった、という感じ。

理論や理想状態における数学的理解(ややもすると衒学的)から、統計解析による計量経済学を経て、疫学研究のように現場に介入していくという変遷は大変面白い。

経済学者である著者らが目指す世界は、貧困を減らし、格差を縮め、すべての人が尊厳を持って生きられる社会の実現というところだろう。ウイルスや原虫など原因や経路がはっきりしている感染症とは異なり、貧困に至る原因や経緯は複雑で、国や時代によって共通点もあればそれ以上に差異点もある。だからこそランダムに介入して、結果を見比べるという実験的手法の意義は大きいし、逆にうまくいかなった場合の知見も重要となる(介入実験が非難されることもあるだろう)。医療のRCT同様に倫理性(≒インフォームド・コンセントと倫理委員会と個人情報保護)が問われるのは言うまでもない。

本書を書いたのは希望を持ち続けるためである。どこで道を誤ったのか、それはなぜかを自戒するだけではなく、うまくいったこともこんなにあるよと確認するために。本書では問題を提起するととともに、分析結果に誠実に向き合い、よりよい世界にするための方法も提案する。(p.006)

本書のキーワードの一つは「希望」である。タイトルの通り、絶望を希望への変えるためにどうすれば良いのか、そこに多くの知が投入されている。

私たちは成長理論を裏付ける証拠をがんばって探したが、勇気づけられる結果が得られたとは言いがたい。そもそも成長を計測するのはむずかしいが、成長を牽引する要因をこれとはっきり特定するのはもっとむずかしい。だから成長を促す政策とはこういうものだと自信を持って言うこともできない。(p.245)

あえて私見で本書のもう一つのキーワードを挙げるとすると、「成長を目指さない」だ。経済成長が至上命題かのように掲げられているが、成長を計測することもできなければ、どうすれば成長できるか方策もわからない。

富裕国ではどうすれば成長できるのかを課題とするのではなく、どうすれば平均的な市民の生活の質を向上できるのかについて考えるのが有益というのが本書の主張である。経済成長を促すような政策は、結局は富める者をさらに富ますだけで、格差が広がり、不平が募る。日本でもその傾向はあるだろうが、アメリカではもともとひどかったのがさらにひどくなった。

社会階層の移動性は、アメリカのほうがヨーロッパより低いのである。(中略)もはや時代遅れになったアメリカン・ドリームにしがみついているのは、アメリカの中でも最もそれが実現できそうにない地域である。(中略)アメリカはがんばれば上に行ける社会だと信じ込んでいる人たちは、貧困問題への政府の介入に否定的だ。(p.372)

しかも貧困は固着するのだ。ニッケル・アンド・ダイムド(感想文10-88)の原著の初版が2001年。その頃からアメリカでは貧困から抜け出しにくい、あるいは抜け出せないような社会の仕組みになっている。

貧困問題、格差問題を解決するためにはどうすればいいか。政府の役割が重要になっている。しかし、だ。

政府は慢性的な機能不全に陥っている。増税は政治的に不可能だ。社会的意識の高い若者でさえ、政府で働くのはごめんだとそっぽを向く。社会改革を諦めていない人たちは民間組織で働くか、社会的インパクト投資の運用に加わる。そうでない人たちは臆面もなくひたすら金儲けに走るという具合だ。だが、政府の役割を拡大しない限り、できないことは多い。(p.393)

多くの国では国民は政府を信用していない(表立って信用していないと表明することが命に関わる国もある)。そういう状況において、政府の役割を拡張することにアレルギー反応を示す人も多い。メディアも政府と国民という単純化された二項対立で煽る。

社会から見捨てられているという不満が、差別や偏見を生みだし、分断を煽り、社会全体を絶望へと誘う。

希望は人間を前へ進ませる燃料だということだ。(p.460)

どうすれば希望を持てるのか。そこには'''困窮者や失業者といった困っている人への尊厳や敬意を払うという政策に臨む姿勢が重要'''となる。尊厳を踏みにじり、上から目線の社会保障制度は、自律心を奪い、希望の灯火を消してしまう。

お金がないことはその人の本質ではない。仕事がないこともその人の本質ではない。お金がないこと、仕事がないことが問題であって、お金のない人や仕事のない人が問題なのではない。そういう状態におかれているだけで、同じ人間であり、尊厳があり、敬意を持って接しないといけない。

根拠のない考えに対して私たちにできる唯一のことは、油断せずに見張り、「疑う余地はない」などという主張にだまされず、奇跡の約束を疑い、エビデンスを吟味し、問題を単純化せず根気よく取り組み、調べられることは調べ、判明した事実に誠実であることだ。(p.467)

こういう姿勢は極めて大事であるが、忘れがちである。私はアカデミアの価値はまさしくここにあると考えている。誠実さと真摯さを維持し続けることが、世の真理へと接近する唯一の方法である。これは大学や研究機関への所属を意味しない。

現在、日本の政府は産業界と近い関係にある。根拠のない経済成長を志向し、科学的知見を軽視しながら、イノベーションを煽る。プレゼンと切り返しの上手い人間が重宝され、現場を無視し、上意下達と無誤謬性と面従腹背の複合体が支配する。

よりよい世界、より健全で人間的な世界をつくることを経済学はけっして邪魔しない。(p.367)

私たちはよりよい世界をつくることを目指していくべきだ。よりよい世界とは決して経済成長し続ける世界ではない。そのためにも私たちは政府の役割を重視し、機能を拡張することを認め(もちろん不要な機能は無くしていくべきだ)、誠実さと真摯さが美徳となる社会を築いていく努力を怠ってはならない。

っていかにも訳知り顔で書いていくと、理想論を語る(騙る)左っぽい思想に映るのだから厄介だ。すっかり政党政治に嫌気しかなく、選挙に行くのも億劫になっている。

「政治」ではなく「政策」に特化した赤くないアカデミアによる政党(政策シンクタンカー集合体みたいなもの)ってつくれないのだろうか。

少なくとも日本では今の政治家たちの延長線上に、よりよい世界をつくれる世界線が存在しないって思うんだよね。とはいえ、今の日本に絶望とまでは感じていない。希望も感じていないのだけれど。