40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文16-40:白い航跡

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※2016年12月28日のYahoo!ブログを再掲

 

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吉村昭さんの作品が最近、お気に入りだ。

ニコライ遭難(感想文12-08)戦艦武蔵(感想文12-13)羆嵐(感想文12-35)大黒屋光太夫(感想文15-17)といずれもハズレなく面白く、さほど歴史を知らない私にとっては新鮮であり、また淡々とした描写が読んでいて小気味良い。

調べてみると作品数が多く、その中から興味深そうなものをピックアップしてぼちぼちと読み進めることにした。その第1弾が本書だ。

主人公は高木兼寛(1849-1920)。ウィキペディアによると『日本の海軍軍人、最終階級は海軍軍医総監(少将相当)。医学博士。男爵。東京慈恵会医科大学の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。当時日本の食文化では馴染みの薄かったカレーを脚気の予防として海軍の食事に取り入れた(海軍カレー)。』とある。

同じ1849年生まれは、イワン・パブロフ、ジョン・フレミング西園寺公望乃木希典。兼寛は江戸後期から明治時代、大正時代の一部を生きた。

高木兼寛のことは本書を読む前から存じ上げている。随分昔に読んだスキャンダルの科学史(感想文08-11) にある脚気菌事件は有名だし、そもそもイギリスを発祥とする疫学を学んだことがあるので、その中で高木兼寛森鴎外との対決はよく知っている。

ところが、高木兼寛その人自身の人生のことをよく知らない。ということで、ちょうど本書に行き当たり読んでみることにした。いつものように気になる箇所を挙げておこう。

日本の医学校と陸軍の医務機関はドイツ医学を全面的に採りいれ、イギリス医学を導入しているのは海軍のみと言ってよい状態だった。

江戸が終わり、明治になり、日本は進んでいる海外の国々の制度や学問を貪欲に取り入れた。医学には二つの選択肢があり、ドイツとイギリスだった。

ドイツはコッホのような細菌学のメッカであり、基礎医学の中心地だった。一方でイギリスは、ジョン・スノーによるコレラに対する疫学調査のような臨床医学を得意としていた。兼寛はイギリスに5年間留学し、イギリス式の医学を学んだ。

明治11年には海軍の総兵員数は4,528名であったが、脚気患者は1,485名にものぼり、それは総人員の32.79%にあたっている。死亡者数は32名。(中略)4年間の死亡者数は146名に達していた。

海軍兵員の約3分の1が脚気にかかっていた。原因不明の病気によって、戦力が大きく減少してしまうことは大問題になっていた。

兼寛が食物の栄養バランスに病因があると考えて、米・麦等分の主食を海軍の兵食とさだめたのは、まさにイギリス医学の臨床重視の姿勢そのものであった。つまり、かれは、実証主義に徹して海軍創設以来大問題であった脚気患者の死者をゼロにすることに成功したのである。

脚気感染症であると考えられていた時代に、食物を変えることで病気の発生を抑えるという手法に対して、ドイツ医学派から苛烈な抵抗があった。しかし、本質的な原因が分からなくとも病気を抑え、予防することができる疫学的手法は極めて実践的であり、スピーディに、時には低コストで対応できる。

日本陸軍の朝鮮派兵から台湾平定までの戦死、戦病者の数について奇妙な現象がみられた。戦死者は977名、戦傷死者293名であったが、これに対して病気にかかって死亡した者は実に、20,159名にも達し、圧倒的に多かったのである。(中略)脚気患者で死亡したのは3,944という戦慄すべき数字で、戦死及び戦傷死者の合計の3倍以上にものぼっていたのである。

他方で、ドイツ医学派で固められていた陸軍では、麦飯が取り入られることはなかった。結果、多くの死者を生み出し、戦争ではなく栄養バランスの崩壊によって尊い人命が多数失われたのだった。

数多くの欧米の医学者たちは、栄養バランスのくずれた食物の摂取が脚気の原因として主張した兼寛の説が、ビタミンB欠乏を原因とする学説に発展したものとして、兼寛を脚気研究開発の第一人者としている。日本では、その後、オリザニンを発見した鈴木梅太郎によって脚気が消滅したとされたが、欧米では兼寛を世界にさきがけてそれを根絶した医学者として最大の敬意を寄せていたのである。

日本ではあまり名前の知られていない高木兼寛だが、このように世界的には著名で、大きな貢献を果たした人物として尊敬されている。ただ、脚気という病気そのものは白米にこだわった日本で顕著な病気であったので、グローバルな病気の克服とは考えられていない点は付記しておく。

高木兼寛は、英国留学を果たし、35歳で『海軍全体の医務関係を総轄する最高責任者』となり、脚気を克服し、医学における『第一回の博士の学位の授与者』の一人となった。私が知っているのは、あるいは私が知りたかったのはここまでだったのかもしれない。

残酷なのはこれほど有能で偉大な人間が、老害化していくという事実だ。栄養の重要さにこだわるのは良いが、そこにエビデンスのない持論が混じり、独自の健康法の開発へとつながっていく。学校で講演するなど、その活動は精力的に続いた。

若くして成功した兼寛だが、その晩年は相対的に残念な人物へと変質していく。これもまた人間の姿なのだ。本書を通じて兼寛の生涯は必ずしも良い時期がいつまでも続いたというわけではないということを知った。

高木兼寛は偉大であることに変わりはないし、森林太郎(鴎外)は医師としては非難されて妥当であろうと思う。しかし、森林太郎には鴎外という文学者としての側面があり、兼寛には晩年の独自の健康法開発という残念な一面もある。

大きな仕事をなし、偉大な業績を挙げた人間であっても、触れてほしくない一面もあることだろう。

そういったところまで余すところなく描ききる吉村昭さんの作品を今後も少しずつだが読んでいきたい。

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(感想文の感想など)

読み直すと、高木兼寛は慈恵医大を創設してたんだね。吉村昭さんの本は、その後もちょくちょく読んだので、その感想文はまた何かの機会に再掲します。