40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-06:「人新世」の資本論

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サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃(感想文20-46)に続く、人新世についての本。わりと話題の本らしく、興味深く読ませていただいた。あえて大事なポイントを最初に書いておこう。

本書の主張は「脱成長」である。

無限の経済成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが、「自由の国」を拡張し、脱成長コミュニズムという未来を作り出すのである。(p.276)

未来永劫、右肩上がりに経済成長するなんてありえない(と誰しもが知っているはずな)のに、経済成長を金科玉条とし、様々な政策が実行されてきた。日本では経済成長を否定する政治家や政党もなければ、そもそもの選択肢もない。ましてや経済が成長しているのかどうかすら怪しいばかりか、格差は広がり、気候変動は激しくなり、感染症でパニックになり、いよいよ21世紀序盤で世紀末感が漂い出している。

2020年12月策定の「2050年カーボンニュートラルに伴うグリーン成長戦略」では、

『温暖化への対応を、経済成長の制約やコストとする時代は終わり、国際的にも、成長の機会と捉える時代に突入したのである。』と書かれている。

温暖化対応は成長のチャンスだ!と、勇ましい掛け声の遠吠えは、経済産業省が策定者なので致し方ないのかもしれないが、どこか鼻白んでしまう。二酸化炭素を資源として活用する技術や、二酸化炭素を排出せずにエネルギーを生み出す技術の開発への投資が予見されるが、その研究開発と経済成長のリンクが本当に正しい道なのか、これまで議論されてきたとは言い難い。

「経済成長を諦める」をマジメに議論する論点として認識されていないし、経済成長しない≒人類滅亡的な考えに囚われている方も多いと思う。私自身も囚われているうちの一人だ。

地球環境の破壊を行っている犯人が、無限の経済成長を追い求める資本主義システムだからだ。そう、資本主義こそが、気候変動をはじめとする環境危機の原因にほかならない。(p.117)

この指摘はかなりラディカルではあるが、温暖化対応と経済成長は同時に達成できないとする主張はうすうす多くの方が直感的に知っていたのではないだろうか。

持続可能な経済成長を求める「エコ社会主義」の立場への移行は、もちろん重大な見解の変更である。だが、生産力至上主義からの決別は、より大きな世界観である「進歩史観」をも揺るがすことになる。(p.165)

本書でも登場するエマニュエル・ウォーラーステインさんによる著作、史的システムとしての資本主義(感想文09-56)にあるように、真理探究こそが進歩の基礎であり、普遍主義は信仰であり、科学は資本主義に組み込まれているのだ。

技術によって自然を服従させ、人間を自然的制約から解放するという生産力至上主義のプロジェクトが失敗していることを、「科学」は暴き出す。(p.188-189)

本書では、科学への期待が描かれているが、果たして科学は資本主義に打ち勝てるだろうか。そもそも闘争できるだろうか。脱成長は既存の科学の終焉、あるいは科学のパラダイムシフトを引き起こすのではないか。

晩年のマルクスが提唱していたのは、生産を「使用価値」重視のものに切り替え、無駄な「価値」の創出につながる生産を減らして、労働時間を短縮することであった。労働者の創造性を減らす分業も減らしていく。それと同時に進めるべきなのが、生産過程の民主化だ。労働者は、生産にまつわる意思決定を民主的に行う。意思決定に時間がかかってもかまわない。また、社会にとって有用で環境負荷の低いエッセンシャル・ワークの社会的評価を高めていくべきである。(p.319-320)

このように本書は、脱成長のコンセプトを晩年のマルクスの思想から再発見していく。40年以上も経済成長がすべてだと信じこまされてきた私は、その呪縛を認識できたが、その呪縛から解き放たれるほど世界の認識の在り方が変わったわけではない。

脱成長、つまりは経済成長の放棄は、私の子供たちを含む次世代への責任放棄ではないか、と考えてしまう。しかし、継続的な経済成長の希求により、地球環境が不可逆的に壊滅的な状態に陥り、人類の存続が危ぶまれるのであれば、そちらのほうがはるかに大問題だと言える。

悩ましいのは、今この時点で、少なくとも日本では、脱成長の選択肢が提示されていない。だったら、自ら作り上げれば良いじゃないかと言われそうなものだが、何を取っ掛かりにすれば良いのかすらよくわからない。私自身も呪縛されているし、多くのビジネスパーソンもそうだろう。

ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀(感想文20-30)とも通じる点がある。しかし、私有財産の放棄と、本書の〈コモン〉の復権は別物かもしれない。

脱成長は確かに新たな理念としてこれから賛同を集めるかもしれない一方で、既存の資本主義でもまだまだ工夫の余地はあるのではないか。そう考えてしまうのは、呪縛のせいかもしれないし、脱成長を信じきれてないからかもしれない。

経済成長が私たちの欲望と深く結びついている。地球環境のために私たちは自制できるのだろうか。痩せたいと願いながらも、節制できない人たちが私を含めてあまりにたくさんいるのが現実だ。自制ではなく、薬で食欲を抑えたり、外科的に胃縮小手術を選びたがる人もいるだろう。

自分に甘い人間の行動を変容させるには、どうすれば良いのだろうか。選択肢が提示されるだけでは、行動は変容しない。地球の危機を煽っても、変わらないだろう。それでもこうして新しい理念が生まれ、少しずつムーブメントになるのは時代の変化だと思うし、そういう変化に素直に賛同できないのは自らの老いの証左かもしれない。