40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-12:科学と非科学 その正体を探る

f:id:sky-and-heart:20210527060026j:plain

「科学」について考えることは私のライフワークだ。科学とはなんぞやという根本的な問いも大事だし、本書のように科学と非科学の境界について考えるのもとても楽しい。

東京が緊急事態宣言で図書館が閉館(この対処法には大変不満があるがそれはまた別の話)していて、数駅先の大型書店で本書を見つけて購入した。

本書は、ウイルスは生きている(感想文16-16)の著者である中屋敷均さんによるエッセイだ。

残念ながらコロナで社会が変わる前の著作である。というのも、コロナ禍で科学への社会の不信が高まっているように感じていて、私が抱えるもやもやに何かしら新たな視点とか思いも寄らない示唆を与えてはくれないだろうかと期待して購入したのだ。

とはいえ、本書は私に大いに刺激を与えてくれた。本を久しぶりにちゃんと読んだのも影響しているかも知れない。年度初めは仕事でバタバタしていて、本を全然読めなかった。

科学への不信感が高まってるなと感じる、そんな瞬間がある。私の勝手な肌感覚なので客観的な観測に基づいてはいない。どういう時に感じるか。それは、政治的な判断の根拠に科学が使われる時だ。

政治が科学に基づいて決断を下すのは良いことじゃないか、と反論が即座に返ってきそうだが、言いたいことはそうではない。科学が有効に機能する範囲は極めて限定的で、こうするのが正解ですとはっきりと明言できる場面は残念ながらほとんどないのだ。

「現段階の観測事実や過去の事例から、おそらくこうするのが正しい判断ではないでしょうか、いや、もちろん間違っている場合もあるし、把握していない要因があれば異なる結論になることもありますよ。」

と専門家であればこんな風にアドバイスしてくれるだろう。断言しない姿勢は、信頼できる専門家の証なのだが、往々にして「こうです、間違いありません」とか言う厚顔無恥な評論家の方が信頼されてしまう。

本当に難しい問題に対峙して、クリアカットなソリューションを提示できる専門家は存在しない。しかし、そんな真摯な専門家のアドバイスに従い政治家は判断するのが適切であるが、結果が伴わない。正しく行政の担当者に伝わっていなかったり、メディアが歪めて報じたり、国民が意図せぬ行動をしたりと、結果につながらない要因は色々あるかも知れないが、結局は失敗の原因を科学に求めることが多い。専門家でも意見が食い違うこともあるし、予測が外れることも珍しくない。

社会に「神託」を下す装置としての「科学」と、この世の法則や心理を追求する<科学>という、科学が持つ二つの顔が乖離する。(中略)科学的には分からない部分を残したまま、社会に対して「神託」を下さなければならないという問題だ。(p.44)

本書では具体的事例として、低線量の放射線被爆、遺伝子組み換え食品、残留農薬が挙げられているが、昨今のコロナ対策、地球温暖化対策も社会に「神託」を下す装置としての「科学」が問われている。装置なので、使えるかどうかだけでなく、コスパや現実との折り合いなどの使い勝手も問われる。

「装置」としての科学が使えないと思われた時に科学不信が高まる。回り回って科学への投資が減り、科学の世界に新規参入する若者も減ってしまう。

「意志ある選択」。科学はそれを人から奪うためではなく、与えるために存在する。不確かさも含め、科学的知見は常に「考える素材」である。それが科学の存在意義であり、その「選択」こそが、私たちに与えられた、世界を拓く力、生きる意味、なのではないだろうか。(p.175)

それでも私たちは科学に頼らざるを得ない。科学には常に不確実性が伴う。現在の科学技術や知識が足りていないからだし、いくら科学が発展しても分からないことは分からない。確率でしか説明できない事象もたくさんある。

少しでも確度や精度を上げる。最大限、努力をした上で、科学に基づき判断する。しかし、判断するのは、政治家や地方行政の首長や一部の公務員だけではない。自らのこととして選ぶ必要がある。

国民性を過度に強調するのは好きではないが、「お上」の判断を無批判に受け入れたり、投票率が半分に満たないのは、選ぶことの主体性を放棄してきた私たち国民に大きな責任がある。

それでも私はこれからの世代に期待している。自ら考え、考えを伝え、そして集団で意思決定するトレーニングを明らかに私たち世代よりも受けているからだ。またそうすることが生き残るために不可欠な戦略にもなっている。たぶん。

科学が世の中を変えるのではない。人間の行動や選択の積み重ねが世の中を変えるのだ。行動や選択の材料として科学を是非、活用して欲しい。科学は私たちの生活から遠いところに存在しているのではない。

科学とは何かだけでなく、科学とどう接していくか、どう使うのかについても考えさせられた。