40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文10-61:世界史の中の石見銀山

※2010年8月15日のYahoo!ブログを再掲

 

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石見銀山は、2007年に世界遺産に登録され、日本でもその知名度が高まった。かくいうぼくも石見銀山のことはまったく知らなかった。そしてこの本を読むまで、日本で銀を産出した山くらいにしか思っていなかった。

本書は石見銀山に関する新書だと思ったら、そうではない。大航海時代における日本の立場を再認識させられるスケールの大きな本だ。そして、そこに石見銀山が深く関わっている。

SFと歴史小説とミステリーが混在したような一冊で、純粋に面白く読めた。もっとぼく自身が世界史と日本史に精通していればもっと堪能できたんだろうけれど。

本書では、日本とポルトガルの知られざる深い関係について仮説を示している。

なぜ、ポルトガル語が、たくさん流入したかといえば、ポルトガル人が、大勢いたからである。なぜ、ポルトガル人が、大勢いたかといえば、ポルトガル本国が滅亡したため、多くのポルトガル人が日本へ亡命したからである。

確かに今でもポルトガル語はたくさん残っている。合羽、ボタン、タバコ、パン、バッテラ、金平糖、カルタ、トタン、ビードロなどがそう。アメリカ大陸を挟んだ遠い国の言葉がこれだけ残っているのは、それだけポルトガル人が日本に来たからだ。

てっきり、大航海時代に黄金の国を探し、キリスト教を広めるために、日本に来て文化や言葉を伝えていったと無邪気に思っていたら、1580年にポルトガルが滅亡して、スペインに併合され、それで日本に亡命に来たというではないか。うーむ。

なぜ、ポルトガルの宣教師たちは、大友宗麟の名を騙ってまでして、遣欧使節を送ったのだろうか。(中略)ローマ法王に直訴して、日本におけるポルトガル人の努力と功績を訴え、(中略)せめてスペインの支配を和らげるよう、法王の影響力を行使してもらう狙いがあったのではあるまいか。同時に、日本に亡命したような状態のポルトガル人すべての窮状を訴える目的もあったにちがいない。

天正遣欧少年使節がローマへ出航したのが、1582年。使節の一人である伊東マンショは、大友宗麟の縁者ではあったが、宗麟が任命したわけではないようだ。なぜ嘘をついてまで法王に会いに行ったのか。そこには祖国が無くなってしまったポルトガル人の藁にもすがる思いがあったのかもしれない。

そして、この辺から一気にストーリーのスケールが大きくなるし、石見銀山が関係してくる。

大久保長安の親ポルトガル政権樹立を目指したクーデター計画に関して、日本側、オランダ側それぞれに記録があり、細部では異同があるものの、おおよそ一致していることは、動かし難い事実である。

大久保長安(1545~1613)は、戦国時代の武将であり、徳川家康の家臣となった。石見銀山が徳川家に接収されると、長安は銀山の奉行となった。そう、御奉行様。

しかし大久保長安が亡くなると、長男の7名は、家康に皆殺しにされ、一族は身分を剥奪された。長安に至っては、墓を掘り返されて、首を切られて、晒し首にされた。何がそこまで家康の怒りをかったか。これまでは長安が銀山を利用して、不正に蓄財したことが原因とされてきた。

本書では、何とポルトガルと組んでクーデターを画策していたという、一見、突拍子も無い仮説が示されている。これが本当だったとしたら、そりゃあ、家康もぶち切れるわ。

こうして石見銀山が急にギラギラしたものに思えてくる。ずっと平和だと思っていた日本でクーデターだなんて。その舞台になったのが、石見銀山。うーん、一度行ってみたい。

こんなこと(あくまで仮説です。)があったし、日本は鎖国に突入するしで、日葡関係は一気に疎となった。かろうじて、ポルトガル語や天ぷらや南蛮漬けといった料理が残っているくらい。

現在、日本で最も知られているポルトガル人は、きっとクリスチアーノ・ロナウドだろう。文化的にはすっかり疎遠だ。

それでも、日本とポルトガルが極めて近蜜だった時期があったのは確かだ。クーデターが本当に成功していたら、まったく異なる歴史になっていただろう。うーむ。ポルトガルにも行ってみたい。

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(感想文の感想など)

今現在、石見銀山には行けていない。行ってみたいけれど、ちょっと遠いんだよなぁ。ポルトガルにも行ってみたいが、仕事で行く機会はさすがになさそうだな。

大久保長安のクーデター説はどこまで信ぴょう性があるのだろうか。