40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文10-44:産学連携と科学の堕落

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※2010年6月18日のYahoo!ブログを再掲。

 

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イノベーションに関連する本を読む企画第三弾。ちなみに第二弾は、OPEN INNOVATION(感想文10-39)、第一弾はイノベーションのジレンマ(感想文10-29)だった。

第二弾のOPEN INNOVATION(感想文10-39)は、企業の自己完結型の研究方式が終焉し、基礎研究を大学なり研究機関が実施し、そこからビジネスになる種を企業が積極的に掘り出していくという構図へと移行しつつあることを示していた。しかし、その本は産学連携推進が当然のごとく底流していた。

さて、本書。タイトル通り、産学連携に否定的。でもでも、どちらが正しいとかそういうことではない。第二弾は、ビジネスに軸足があり、第三弾は科学に軸足がある。スタンスの違いであり、どちらも正しいといえば正しい。

いつの頃からか、不況になると科学がいじめられるようになった。成果の分かりにくい研究は縮減される。はやぶさに後継機がないっていうのも最近の話題。

大学や研究機関は、国からの支出だけに頼ることができなくなってきた。産業界から研究費をもらったり、ロイヤリティ収入を狙ったり、あるいはベンチャーを起こす。こういった一連のことが産学連携と持てはやされ、企業などからの共同研究収入(外部資金)を獲得した研究者は賞賛される。

こういう状況(アメリカではより如実で露骨)において、本書は産学連携の負の部分を冷静に列挙している。特に生命科学に関する記載が多い。学問分野によって、産学連携が抱える問題点は異なるので、広く「科学」について言及することは、原理的にはできないかもしれないが、それでも重要な指摘がなされていると思う。

印象に残った箇所を書き出してみよう。

ここで問題にしていることは、大学が社会を啓蒙するのを目的として孤高の存在として守られるよりも富を追求する存在に変わるべきなのかということである。

大学の商業化活動への賞賛は多く書かれているので、これが大学組織の高潔さにもたらす悪影響は考えてみることすらめったに行われなくなっている。

アメリカの研究機関の高潔さを守るということは、グランドキャニオンのような自然資源を、そこに眠っているかもしれない貴金属を求めての乱掘から守ることである。

「孤高の存在」とか「高潔さ」といったかつて大学が持っていた特質が失われつつある。大衆に迎合し、富を追求し、資本を蓄積し、コメンテータやコンサルタントに化す。大学をそのように仕向ける政策があり、そのように変貌していっている。

政府の政策と裁判所の判断は大学そのもの、大学教員、政府によって資金援助されてきた非営利研究機関に、科学や医学研究を商業化し、営利企業と連携することの新しい誘因を与えた。

産学連携にインセンティブを与える。日本でも様々な取り組みが実際に行われている。ビジネス展開の望めない研究はどんどん端に追いやられてしまう。

大学が自分達の科学の実験室を商業的企業の領域に変換し、この商業目的を達成するために教員を採用するようになるにつれて、大学が公共の利益のために科学を行う機会はほとんどなくなるであろう。それは社会にとって計り知れない損失である。

産学連携は必ずしも公共の利益のためにならない場合がある。巡り巡って、社会が大きな損失を被ることに鳴ってしまう。

本書のあとがきで訳者である宮田由紀夫さんが、うまくまとめてくださっている。

社会貢献の名のもとで産学連携があまりに行き過ぎると、教育や研究という使命に支障をきたすというトレード・オフが生じるのだが、実は産学連携は社会貢献のひとつに過ぎないので、産学連携の過熱は社会貢献の中でもトレード・オフを生じさせるのである。

大学や研究機関は社会貢献をするべきだと思う。した方が良いとかじゃなくて、しないといけない、と思う。でも、社会貢献は企業と組んで新しいイノベーションを起こすことだけではない。科学の面白さ、素晴らしさを伝えることの方がはるかに大事だと思う。

産学連携への熱中は、社会貢献を矮小化してしまうかもしれない。高潔さを失った大学や研究機関は、単に企業が共同で出資して作る研究所に変貌してしまうかもしれない。

不況の日本で、科学にかけられる期待は小さくない。しかし、産学連携やイノベーションに偏りすぎると、土台の科学がまさに堕落してしまうことになりはしないか。このようななかなかに辛辣な意見は、基礎研究者の考えを代弁しているようにも感じる。

本書は、自分の立ち位置について改めて考えるきっかけを与えてくれた。

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(感想文の感想など)

今の大学は「孤高の存在」ではなく、「高潔さ」も失われている。かつてそれを本当に持っていたかどうかは眉唾ものだけれど、そういう目では見られなくなったというのは確かだろう。

大学には大学の良さがあったけれど、公的資金に頼ってしまっている以上、国家と趨勢を共にせざるを得ない。

科学は堕落してしまっているのか。生き残るためには仕方なかったのだろうか。

感想文10-39:OPEN INNOVATION―ハーバード流イノベーション戦略のすべて

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※2010年5月31日のYahoo!ブログを再掲。

 

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イノベーションに関連する本を読む企画第二弾。ちなみに第一弾は、クリステンセンのイノベーションのジレンマ(感想文10-29)

本書もイノベーションのメッカであるハーバード大から出されたもの。ハーバード大なんて行ったこともないし、きっとこれからも行くことはないだろう。たぶん。

さて、オープン・イノベーションという用語が、この業界で人口に膾炙するきっかけになったご本。気になった箇所を引用しつつ、まとめてみたい。

企業における"中央研究所"という名称に象徴された、自己完結型の研究開発体制が終焉を迎えようとしている。

そう、自己完結型の研究開発は、クローズド・イノベーションと呼ばれる。これからはオープンになる。これからといっても、本書が出版されたのは04年。原著は、03年に出版されているので、決して新しいコンセプトではない。

実際に国内企業でも中央研究所が閉鎖の憂き目にあっている。ぼくがずいぶん昔にお世話になった某L研究所も潰(さ)れてしまった。

(20世紀初頭の企業内研究所では、)創造的な研究活動ができるような環境を企業内で作り出す必要があるのだ。当時のリーディング産業である化学や石油産業では、こうした方法でイノベーションが行われてきた。

20世紀初期のこうした姿は、不毛な大地にいくつかの城が築かれている情景を思い浮かべればよい。城は企業内研究所であり、その中ではその企業の製品に関する詳細な研究が行われている。城はそれぞれ独立しており、外部からの訪問客はほとんどない。外部の者は、城の中から生み出される研究成果に驚くのみである。

なるほど、確かにそうかもしれない。企業という大きな城が、研究開発の広大な砂漠にぽつりぽつりとそびえ立っている。これがクローズド・イノベーション時代の心象風景といえる。

さて、著者のテクノロジーへのドライなところも本書では見え隠れする、っていうか、隠そうとしてない。

テクノロジー単独では何の価値も生まないということである。テクノロジーは商品化されてはじめて価値を生む。

多くの知的財産権は無価値であり、事前にどれだけの価値があるのか判断することも困難である。また、知的財産権の価値はビジネスモデルと独立に判断することも困難である。

知的財産権の価値はビジネスモデルに依存するということである。これまで知的財産権のマネジメントについて述べた書物は、知的財産権それ自体に価値があることを前提としてきたが、これには重大な認識の誤りがあったのである。

うーむ。ドライだ。テクノロジー知財も特許もそれ自体に価値はないと言ってのける。あくまで権利であり、そこにビジネスモデルがないと、価値を生み出すことはできない。

特許は伝統的に、他社を自社のテクノロジーから排除するための法律的な枠組みとして、ビジネス戦略に活用されてきた。これは、垂直統合により、企業内で安全に知識を移転させる方法が採用されてきたのと同じである。このように、クローズド・イノベーションの時代においては、特許は参入障壁と認識されており、利益の源泉としては認識されていなかった。

参入障壁としての特許から変貌しつつある。でも実際にはあんまりピンとこない。じゃあ、特許って何なんだろう。

1990年代になると、知的財産権は利益の源泉であり、企業価値を増加させる手段として認識されるようになった。自社内で活用されていない知的財産権を他社にライセンスして利益を上げることは、企業戦略の重要な一部となった。Dow Chemicalといった企業は特許保有を整理することにより、特許の保有コスト(申請料、翻訳料、年次更新費用等の管理費用等)を減らす戦略を採用した。

そうか、権利を売買することで価値を生み出すようになった。ビジネスモデルが大事で、自分が知財を持っているかどうかはあんまり関係のない時代になった。ビジネスモデルが思い浮かばない特許は、もう売っちまえということに等しい。

次世代の発明のためのシードは政府や大学が提供する必要がある。特に大学の基礎研究における役割は増大している。企業は大学との関係を深めて、その研究成果を受け入れ、適切なビジネスモデルにより商品化を行っていくべきである。

より踏み込めば、どこがどんな知財保有しているか、アクセスし、評価する人間がこれからは求められるし、そういう人間に多くの報酬が支払われるようになるだろう。保有している側は、どうやってアピールするかが大事になるだろうし、できることなら自らビジネスモデルを考えたい。

テクノロジーにとっては、有効なビジネスモデルが見つからない限り、そのテクノロジーの価値は僅少なものとなってしまう。ゆえに、知的財産権から利益を得ようとするならば、たとえ自ら商品化する予定はなくとも、知的財産権にとって有効なビジネスモデルを見つける努力をしなければならないのである。

そうね。研究開発する側も、ビジネスモデルを考えないとダメってこと。ダメっていうのは、価値を生み出さないってこと。まあ、価値を何に設定するかで、問題意識はまるで変わってしまうだろうけれど。

イノベーションとは、既存のビジネスを伸ばすだけではなく、新たなビジネスを成長させることでもある。これにはリスクがつきまとう。多くのイノベーションは失敗するのである。しかし、既存のビジネスは必ず限界に突き当たる。イノベーションしない企業には死あるのみである。

イノベーションの鍵は、社内だけにあるのではない。どこかへその鍵を探しに行こう。

No Innovation No Life.

今度は、もうちょっと企業よりでない、イノベーションとかに批判的な本を読んでみようっと。

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(感想文の感想など)

オープン・クローズ戦略とか、そういうことも学んだ。とはいえ、それはあくまで開発側の話。

市場を作るのは需要と供給だ。需要つまりはユーザーの受容も大事なんだけれど、両者がそろってはじめてイノベーションが起きるのだと、今はそう考えている。

感想文10-29:イノベーションのジレンマ

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※2010年4月23日にYahoo!ブログに掲載したものを再掲。

 

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この4月に異動して、仕事の内容が変わった。どうやらイノベーションに関することを担当するようだ。はたと困った。まったく土地感がないばかりか、そもそもイノベーションということの本質をまったく把握していない。

ということで、しばらくの間、イノベーション関連の本を読むことにした。せっかくなのでそれをまとめて、こうしていつものブログに載っけてみたい。

ブログは限りなくプライベートな営みであるが、たまには仕事に結びつけてみよう。とはいえあくまで試みであって、いつそれを止めてしまうかは分からない。とにかくこれが第一弾。

実は本書はずっと読んでみたかった。昨年からちょいちょい進めていた経済に関する知識の蓄積の流れで、この本の存在を知ってはいた。まあ、あまりに手広くジャンルを問わずに多読しているので、本書に到達してなかった。うん、前置きはこのくらいにしておこう。

率直に言って久しぶりに気持ちの良い知的興奮を味わえた本だった。

優良企業がイノベーションでつまずく。それはなぜか。特に日本の大手の企業は失敗している。そこには非常にシンプルな答えがあった。

イノベーションには持続的イノベーションと破壊的イノベーションの二つがある。

時として「破壊的技術」が現れる。これは、少なくとも短期的には、製品の性能を引き下げる効果を持つイノベーションである。皮肉なことに、(中略)大手企業を失敗に導いたのは破壊的技術にほかならない。

そうなのだ。企業はより良い製品を生み出そうと、研究開発を進め、性能は向上していく。精度が高く、高機能で、時には高価になってしまう。ところがそこに落とし穴が待っている。

歴史的にみて、このような性能の供給過剰が発生すると、破壊的技術が出現し、確立された市場を下から侵食する可能性が出てくる。

需要よりも高い性能が供給されるようになってしまうと、破壊的技術に足元を救われてしまう。性能は低いが、より安価で、利便性の高いイノベーションにその優位を奪われてしまう。

「顧客の声に耳を傾けよ」というスローガンがよく使われるが、このアドバイスはいつも正しいとは限らないようだ。むしろ顧客は、メーカーを持続的イノベーションに向かわせ、破壊的イノベーションのリーダーシップを失わせ、率直に言えば誤った方向に導くことがある。

しかし、なかなか大手企業は破壊的イノベーションに対応できない。しかも実直で確実で正当な経営それ自体が、足かせになってしまう。顧客の声は破壊的イノベーションにはまったく役に立たない。それどころか、失敗に導くかもしれない。なぜなら、

破壊的製品がどのように、どれだけの量が使われるか、そもそも使われるかどうかは、使ってみるまで誰にも、企業にも顧客にも分からない。

そうなんだ。破壊的製品の市場はまったく分からない。市場があるかどうかすら怪しい。そういう状況に大手企業は対応できない。それは安定的経営を志向しているからだ。安定的経営の志向が経営の失敗につながる。まさにジレンマ。どうしたら抜け出せるのか。詳しいことは是非とも本書を読んで欲しい。

さて、本書で印象に残った話をピックアップしてみる。

まずは人工インシュリンのこと。新薬誕生―100万分の1に挑む科学者たち(感想文08-66)でも取り上げた人工インシュリン。イーライ・リリー社が開発した遺伝子組換え技術によって作られた純度100%のインシュリン(商品名はヒューマリン)だ。新薬誕生ではものすごい発明品のように喧伝されていた(実際にスゴイ)けれど、商品としては今ひとつだったそうな。

インシュリンは既に十分なほどその純度は高く、既存薬で効果の薄い糖尿病患者はごくわずかだった。純度を高めるという持続的イノベーションは、ヒューマリンで限界に達したが、市場はヒューマリンに対しては冷ややかであった。その市場をかっさらったのが、デンマークの小さなノボというメーカーで、ペン型の利便性の高いインシュリン投与キットが爆発的に売れたとのこと。

この逸話は非常に興味深い。遺伝子組換え技術は、今でも科学に貢献しているし、生命科学の分野では欠かすことのできない技術といえる。しかし、その素晴らしい技術であっても、市場では失敗してしまうこともあるのだ。

もう一つ、印象的だったのが、電気自動車。これからまさに破壊的イノベーションになるかもしれない逸材だ。著者のクリステンセンが自動車メーカーの社員として、どのようにこの破壊的技術で成功をおさめるか思考実験をしている。なかなかに面白い。

電気自動車が加速する!でも登場したように、これからの自動車の主流は電気自動車になるかもしれない。しかし、それはエコカー減税があるからとか、地球環境のためとか、はたまたもう自家用車にガソリン車は販売してはダメという規制によるからではない。

電気自動車は、破壊的イノベーションだ(かもしれない)からだ。電気自動車は、ガソリン車に比べて、加速力が低く、走行距離は短く、最高速度も遅い。今の自動車ユーザーの視点ではさっぱり売れない。しかし、この性能の低さが売りになるかもしれない。スピードがたいして出ないことは、ぶつかって

もたいした被害を起こさないともいえる。安全な乗り物として、高齢者や未成年者向けに市場があるかもしれない。

電気自動車は、ガソリン車とまったく異なる構造を持ちうる。操作方法がまったく異なるため、自動車教習や年齢制限を変えてしまう可能性を有している。ガソリン車であるからこそ構築されたシステムがことごとく破壊されるかもしれない。でもどうなってしまうか、今から想像するのは不可能だ。

破壊的イノベーションの到来が待ち遠しい。ちょっとばかりイノベーションの本質が分かった気になった。

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(感想文の感想など)

本書の著者であるクレイトン・クリステンセンは2020年1月23日にお亡くなりになった。

色々とイノベーションに関する本を読んだけれど、この本が最も分かりやすかった。結局はできた製品がどう使われるかってことなんだけれど、それを事前に予期するのは難しいし、たくさんいるユーザーにこれまた変態的な発想で使い出すやつがいて、こうして世の中が変わっていくのだろう。

イノベーションの起こし方(方法論)の言説が多いけれど、イノベーションの起こされ方(結果論)からは何を学べば良いんだろうか。売れる売れないは気にせず、商品を市場に出してしまえってことなのだろうか。そうなるとやっぱり大企業は遅かれ早かれ衰退していくんだろうな。

感想文09-62:クラウドの衝撃―IT史上最大の創造的破壊が始まった

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※2009年10月5日のYahoo!ブログを再掲。

 

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クラウドコンピューティングcloud computing)と言葉がある。

ウィキペディアによると、インターネットを基本にした新しいコンピュータの利用形態である。ユーザーはコンピュータ処理を、ネットワーク(通常はインターネット)経由で、サービスとして利用できる。とのこと。

ほえぇ。

ITのことは詳しくないけれど、早い話が、メールとか文書とか画像とかそういったもの全てをインターネットのクラウドからサービスとして受け取るようになることだ。

ふーん。

タイトルほどの衝撃はない。何だか当たり前になりつつあるように思うからだ。むしろ、クラウドっていうか、情報を外在化させて処理する方が、アクセスの面で融通が利くし、セキュリティの面(クラウドが何かすれば別だけど)でも安全に思えるからだ。

既存のビジネスモデルが変わるというのも分かる。職場で職員全員に1台ずつ高価なパソコンが支給され、会社はサーバで情報を管理するという仕組みは終わってしまうというのは想像できる。

業界人にとっては衝撃的なのかもしれない。でも、ITに詳しくないぼくのようないちユーザからすれば、インターネットが登場した時点で、こうなることは分かっていたんじゃなかろうか、って思う。

サービスが最初から内在しているか、あるいは、外在しているかの違いだけではないのだろうか。より速く、より効率的で、より低コストなやり方が求められると、外在しているサービスを適宜必要に応じて利用する方が、確かに有利だろう。

商売のパラダイムは変わるかもしれない。でも、生活のパラダイムまでを変えるほどの衝撃ではないと思う。

本書は、専門用語も多く、ぼくのような素人には難しい。でも、クラウドコンピューティングが今後のITの中核となり、IBMやグーグルといった巨大企業は、次の時代に向けて着々と準備を進めているということが分かる。

IT業界は移り変わりが早い。だいたいインターネットという言葉が市民権を得て、まだ10年ほどしか経っていないだろう。

さいごに、飛躍した話をしたい。

クラウドに知性はあるのだろうか。

あらゆる知識が外在化し、クラウドに放り込まれたとしたら、それは一つの知性なのだろうか。知性って何となくもやもやしたイメージがある(ぼくが知的でない証拠かもしれない)ので、クラウドという名称はぴったりくる。

そして、いつしか主従が逆転しているかもしれない。ぼくたちがクラウドに情報を放り込むのではなく、クラウドが情報を集めるためにぼくたちを利用する。

クラウドの本当の衝撃はもう少し先のことなのかもしれない。

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(感想文の感想など)

クラウドが衝撃的に世の中を変えたみたいなことは全くなかったね。

その後、ビッグデータとか人工知能とか機械学習とかディープ・ラーニングとかIT関連でバズることになるのだけれど、まだ本質はよく分からない。

感想文08-35:生命と非生命のあいだ―NASAの地球外生命研究

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※2008年7月12日のYahoo!ブログを再掲。

 

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題名はキャッチーだ。

1978年に日本で出版されたアイザック・アシモフの科学エッセイの邦題も「生命と非生命のあいだ(原題:Is Anyone There?)」と同様の題名がつけられている。

最近だと、昨年の福岡伸一の新書「生物と無生物のあいだ」(ここ数年でもっとも面白かった新書の一つ)も似たような題名がつけられている。そして科学新書としては異例なほど売れた。

本書は2008年5月の出版なので、「生物と無生物のあいだ」に若干あやかっているのかもしれない。原題は、「Life as We Do Not Know It」であり、直訳すると「私たちの知らない生命」って感じになるしね。

福岡氏の新書でも、ウイルスが生物か無生物かという、ウイルスについて勉強する際に必ず問われる問題について書かれていたように記憶している。結論としては、確か無生物としていたのかな。

本書でも同様にウイルスについて言及している。生物ではなく、生命であるかどうかという問いで違いはある。結論は、生命である、としている。そして、さらにさらに踏み込んでいる。BSE(いわゆる狂牛病)の原因であるとされたタンパク質のプリオンも生命であるとしている。そして、私たちは生命と認識していない生命が地球上に存在する可能性もあげている。

いやはや何ともすごい展開になってきたような気がするけれど、私たちは生命を広く捉えると、地球以外の惑星にも「生命」が存在する可能性があるし、そして人工的に「生命」を作り出すこともできるようになる。

とはいえ、何となく読んでいて居心地の悪さのようなものも感じる。これまでに何となく感じていた「生命」に対する根拠のない畏敬の念の土台が崩れるというか、さらに境界線があやうくなるというか、生命論の暗唱に乗り上げてしまうというか、何とも困った話なのだ。

本書は決して簡単な読み物ではないし、生物学の知識がないと分かりにくい部分もある。読んでみても、何だか分かったような、分からないような、まあそんな本です。

それから、宇宙人とかUFOの研究といったトンデモ関係の本ではないので、そういう期待で読むとがっかりすること間違いなしです。

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(感想文の感想など)

タンパク質も生命ってことになると、非生命って何だろうとそちらの疑問が膨らむ。

私が生きているうちに地球外生命体に会える日は来るだろうか。来て欲しいな。

感想文20-14:昆虫食と文明

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何かと話題の昆虫食。ポップな表紙で安易に読んでみたのだが、思った以上に難解だった。

難解な理由は、そもそも食べること、命を奪うことについての考察が込み入っているからだ。射程が広い。だからこそ分厚い。小さい字で300ページ以上ある。まとめようにもまとめられない。

いやはや、昆虫食について真面目に考えるとこうなるよということなのだ。美味しいとか不味いとか、栄養がどうだとか、環境への負荷がどうだとか、そういうこと「も」大事なんだけれど、それは表層的な問題であって、歴史とか多様性とかアイデンティティとか、これまた一言二言では片付きそうにないテーマへと広がり深まり、先進国と途上国と都会と田舎とでまた観点が変わる。

それだけではない。そもそも食べる対象となる昆虫の範囲、昆虫の種類、生態、人との関係、環境との関係、そういったことにまで目を向けていくので、途方に暮れてしまった読者は私だけではないだろう。

ちょっと読んでみて、昆虫食に詳しくなります的なノリでページをめくることはオススメしない。かといって、どういう心持ちを読者に求めれば良いのかもよく分からない。

私自身は消化できていない。多くの理屈が書かれているが、結局のところ昆虫食については感情的に忌避感を持っている人がそれなりの数いることは否定できない。

環境に良いとか、畜産業自体が環境に負荷が大きすぎるとか、栄養満点だとか、またまた表層的な話に戻ってしまうのだけれど、結局は慣れ親しんでない食べ物を食べることに抵抗を感じるのは普通だし、それを乗り越えるためには、価格、味、栄養価だけでなく、オシャレ感とかかっこよさとかどこかの大臣の発言のようなセクシーさがないと、食文化として広がらない。

ものを食べることは原料のリストがすべてではない。それどころか、食べ物の恩恵の大部分は、それが食べられる社会的背景と、それがどのように作られ、加工され、育った土地から私たちの口まで輸送されたかという複雑な生態学的結びつきに関係しているのだ。(p.61

私は毎年、人間は栄養のためだけに食べるのではないと繰り返す必要を感じていた。われわれがある食品を特定の方法で調理して食べるのは、歴史の気まぐれからであり、楽しみのためであり、アイデンティティの源としてなのだ。(p.317

昆虫食について考えるということは、結局は「食」について考えるということになる。何をどうやって食べるのか。

しかしながら、食文化の変遷は思った以上に早いかも知れない。日本で肉食が一般化したのは、明治時代以降だろうし、朝からトーストを焼いて食べることが一般化したのは戦後からだろう。

海外のどこにいっても寿司屋がある一方で、日本でインド料理屋に出くわすのは珍しくなくなった。私が大学生の頃はインド料理屋は珍しい存在で、ナンがあんなに美味しいものだとは知らなかった。

一種の奇行とか未知との遭遇的な感じで昆虫食が注目されては、消えていく。NHKで昆虫食が特集されていて、ベッキーが昆虫を食べているのを見て、こういう仕事が来るようになったのかとしみじみと見たのを思い出す。

とはいえ、メディアが報じても結局のところ、根付いてはいない。相変わらず長野県の一部ではイナゴを食べているだろうが、東京のスーパーで昆虫が売られるようなことにはなっていない。

そういえば、本書では経済との関係についての考察はあまりなかった。ビジネスとして昆虫の養殖業についての記述はあったが、需要、供給、生産コスト、正の外部性、情報の非対称性、共有地の悲劇など、これらの観点で書けることはたくさんあるかも知れない。

周縁に再生の源泉を探すうえで私たちは、食料を確保する現在の方法の起源を歴史的に見ること、つまり近代的なシステムがまだ伝統的慣習を消し去っていないところを地理的・文化的に見ることができる。すると、どうすればこうしたさまざまなアプローチがシステムに浸透し、それを変えることができるのかを考えられるようになる。(p.233

難解に書かれているけれど、(何を持って周縁とするかはさておき)、マイナな食文化もあっという間にグローバルに浸透する可能性を示唆している。日本でカビの生えたチーズを平気で食べるようになったのって、ここ25年くらいではないだろうか。

そういえば、先日、飲み会でカンガルーのステーキを食べた。思った以上に美味しかったのだ。とはいえ、近所のスーパーでカンガルー肉を購入できるわけではないし、晩御飯として子どもたちに提供するようなこともしない。でも25年後にどうなっているかは分からない。

昆虫食だって同様で、今すぐに昆虫を毎日食べるようになるわけではないし、専門店が乱立するようなことでもない。文化とか歴史とかアイデンティティとか、それらは動かしがたい重さがあるように思うけれど、意外と食については変わってしまうだろう。

関東に来たときはところてんが酸っぱいのに慣れず、黒蜜出せやと憤っていたが、時間が経つとさっぱりしてて美味しいなと思うようになり、むしろ黒蜜と一緒に食べる方に違和感を持つようになった。そう、そんなもんなんだ。

虫を食べるのに抵抗があるかも知れないが、虫を餌として与えた魚なら抵抗が薄いだろう。そもそも魚釣りに幼虫とか成虫を使うし、魚は虫を食べているのだから。実際に養殖用飼料として虫の活用について研究開発が進められている。食料とバッティングしないような廃材を餌にするような幼虫を餌にすれば、環境負荷が少ないだろう。

いきなりどう調理して良いかわからない虫を食卓に載せるよりは、魚や家畜・家禽の餌として活用するのが現実的だろう。あるいは細かくして肉と混ぜて整形してハンバーグにすれば心理的な抵抗は減るだろう。

冗長かつはっきりしない文章になってきたが、昆虫食について私はまだ十分に考えきれていないことが本書を通じてはっきりした。考えきれていない最大の理由は、普段から口にしている食べ物が、いったいどうやって作られているか知らないし、知ろうとしないからだろう。

虫は身近な存在だけれど、それが食料として一般化したら、きっとどうやって作られたのか見えないようになるのだろう。知らないほうが消費されやすいのだから。

感想文20-13:1本5000円のレンコンがバカ売れする理由

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いかにも興味を引きそうなタイトルの本書。最近はこういうタイトルでないと本が売れない時代なのだろう。きっと。

著者は野口憲一さん。『茨城県かすみがうら市生まれ。日本大学を卒業後、実家のレンコン生産農家を手伝いながら、大学院で社会学民俗学を専攻し、博士号を取得した異色の農業者。』とのこと。アカデミア色が強く、しかも農学ではなく、社会学民俗学をバックグラウンドとしているのだから興味深い。

民俗学者といえば柳田國男を思いつくのだけれど、他にはさっぱり知らない。それなりの分量の本を読んできたのだけれど、これまで民俗学に関連するような本を読んだことがない。

あいにく民俗学には興味を持てないが、レンコンなら興味がある。儲けることは自体はどうでも良いのだけれど、儲かる仕組みがあるのなら知りたいと思って読んだのがきっかけだ。

15000円という超高級レンコンのブランディングです。レンコンは11000円ほどが標準的な価格ですから、単純に5倍の価格で販売しているわけです。(p.4

スーパーで買うレンコンは、だいたい1パック200-300円くらいだろう。1本単位で購入したことがなけれど、おそらく普通の価格だ。そういえば、レンコンで外国産を見たことがない。たぶん外国では作っていないか、国産で需要が満たされるのだろう。

静岡県出身の知り合いから、泥付きのレンコンをもらったことがあるが、これがべらぼうに美味しかった。レンコンなんてどれも同じだと思ったら大間違いで、きっと野口農園の高級レンコンは5000円で買っても良いと思えるほど美味しいのだと思う。

レンコンはキャベツや白菜のように、種苗業者が種を作っているわけではありません。市場規模が小さいことから産業化が進展していないのです。商品として種を扱う業者が存在しないため、いわゆる自家採種なのです。(p.136

これは知らなかった。レンコンには種苗業者が入り込んでいないのだ。マーケットが小さすぎるのだろうけれど、だからこそ価格帯を自由に設定できるとも言える。

結局のところ、15000円のレンコンがバカ売れするようになった理由は何なのか。その秘密は、実はたった一つ。両親はもちろん、顔も名前も知らない先祖が苦労して育ててきたこのレンコンを、何があっても安売りすることができなかったからです。(p.148

これが本書の面白いところであり、うかつに儲かるんだったら農業に参入しようという軽く甘い目論見の人たちにピシャリと冷水(いやレンコンだから泥水か)を浴びせてくれる。

これからの農業に携わる者は、これまで気が遠くなるほど永きにわたって苦労をし続けてきた全ての農業者の哀しみを背負う覚悟をしなければならないと僕は考えています。(p.149

スマート農業とかいうネーミングで、ドローンやAIを使って生産効率を上げるみたいな話が国家プロジェクトで動いている。残念ながら儲かるのは農家ではない。ドローンやシステムといった農業資材を製造販売する企業が儲かるのだ。土・牛・微生物(感想文20-10)にあるように『農業による利益のほとんどは農家以外の人間が得ている』のだ。

重要なポイントは「農業は手段であって目的ではない」という部分です。農業を営む人々にとって、農業とは生活を営むための手段以外の何物でもない筈なのです。(p.158

本書の主眼となっているのは、手段たる農業ではなく、目的たる農家の生活が大事という点だ。昨今の農業政策やスマート農業的なプロジェクトには、決定的に欠落している観点と言える。

「伝統」は文化財保護法のような政治・行政的な要因、あるいは商業的な理由によって、新たに創り続けられているということです。(中略)文化財保護法によって「伝統」が再創造され続けていることに加え、民俗学がその作業に加担してきたということも見えるにようになったわけです。(p.51

なるほど。私が民俗学に興味を持てなかった理由はこの辺にあるのかも知れない。地方出身ということもあるけれど、村の掟とか伝統といったことに対する、上手く表現できないけれど、違和感というか忌避感がある。学校の不合理なルールに馴染めず、生まれ故郷の行事や祭事も終ぞや好きになれなかった。

特定の人間が、生まれた家庭が先祖代々そうだとかそういう理由だけで、ちやほやされることにも納得がいってなかった。そういう家庭に生まれた人にとっては別の悩みが発生しているのだろうけれど。さらにはそういう伝統行事的なことやしきたりが、マスコミに取り上げられ、その存在が強化されるのも気に食わなかった。

自らが理系の道に進んだのも、能力があればその世界で生きていけると思っていたからかも知れない(残念ながらそんなピュアな世界ではなかった)。ついでに妖怪とか呪いといった畏れから離れておきたいという心理もあったかも知れない。

メタ的に、民俗学が持つ伝統の再創造への加担という機能が露呈し、そこへの反省が学問の再構築の立脚点となっていた頃に野口さんは学んだということになる。面白いのが、それを分かった上で利用してやれとむしろ実践に足を突っ込むという思い切った行動に出たことだ。

ともかく僕は、学者やマスコミなど農業とは直接関わりのない人たちに農村や農業の「伝統」や「民俗」が好き勝手に操作されているのに我慢がならなかったのです。だからこそ、農村出身で農業に関わる自分自身で、「伝統」や「民俗」を積極的に操作してはどうだろうか、と考えたのです。(p.69

覚悟のない人間が「伝統」や「民俗」を操作することを許せなかった。たまにやってきて軽く体験したり、動画を撮ったりするだけの奴らに、レンコン農家の伝統を操作されたくなかった。だからメディア取材お断りとかになるのではなく、むしろ自らメディアを利用して、積極的に発信する側に回った。

かくいう私は畜産学科出身であるが、学生時代に畜産業で生きていこうとは全く考えもしなかった。これまでにいない動物を作り出したいというマッドで無謀な野望はあったものの、土や家畜にまみれるような生活は想像できなかった。

農業はあくまで農家の生活手段なのだ。農家にとって日本の食料自給率とか知ったことではないのだ。そして私が覚悟できないほど、苦労するし、苦労してきたのが農業や畜産業なのだ。苦労して出来上がったものを安く売るとか、そんなんできない、というのが本書の根幹であり、なるべく楽して儲けようという発想とは真逆なのだ。

本書は農業の未来の一つの方向性になるのだろうか。苦労からの開放による農業のコモディティ化あるいは低価格化。それに対抗する苦労を背負う覚悟による高価格化。この考え方の違いは農業だけでないだろう。

民俗学のビジネスへの応用可能性を感じられたのは収穫かな。