40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文09-19:さらば財務省!―官僚すべてを敵にした男の告白

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※2009年3月30日のYahoo!ブログを再掲

 

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著者の高橋洋一は、財務省の元官僚である。

本書では、小泉政権下に起きた郵政民営化の全体像が、実働部隊にいた著者の視点から生々しく記されている。

郵政民営化は、05年9月の解散総選挙で、民意を得て、達成された。とはいえ、本当に郵政民営化の是非がきちんと国民が判断したかというと疑問が残る。

何となく、勢いで小泉純一郎を支持したけれど、郵政民営化って一体どういうことなのかは、案外、多くの国民は分かっていなかっただろう。ぼく自分も含めて。

本書ではっきりしたのは、郵政民営化は是か非かの問題だったのではないく、避けられない事態だったということだ。

そして、現在の政治の大雑把な見取り図を知ることもできる。どの政治家が「上げ潮派」でどの政治家が「財政タカ派」なのか、だれが「小さな政府」をだれが「大きな政府」を目指しているか、同じ自民党内でもこうも違うかということが分かる。

また、「政治家と官僚と国民はジャンケンの関係」という話も印象深い。上手く関係性を言い表している。政治家は官僚に強いが、投票権のある国民に弱い。官僚は国民に強いが、政治家の圧力には屈する。国民は政治家を選べるが、お上にはあっさりと従う。

なるほど。

この3すくみによって、ある種の安定は築かれているのかもしれない。

さらに、著者が最後に関わったのが「公務員改革」だ。現在、すっかり骨抜きにされている感はあるけれど、郵政民営化よりも遙かに困難な改革だ。

現在の官僚は、ほんの少しでも既得権益を奪われそうになると、激烈な拒絶反応を示す。あらゆる手段を駆使して、改革案を骨抜きにし、無力化しようとする。

自身の将来の安定した基盤を揺るがしうる公務員改革が、遅々として進まないのは、公務員改革のために、公務員が関わらざるを得ないという構造的な問題があるからだ。

政治家が主導して改革を進めるのが理想だが、それが能力的にできそうにない。官僚でありながらも改革に協力した著者は、結果的に、副題の通り「官僚すべてを敵にした」のだ。

本書は新しい話題だからこそ、楽しめるものでもある。鮮度のあるうちに興味のある人はお読みすることをオススメします。

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(感想文の感想など)

著者の高橋洋一さんは菅義偉内閣で内閣官房参与(経済・財政政策担当)となり、密かにご活躍を期待していたのだが、「さざ波」が悪かったのか、「笑笑」が悪かったのか、ツイートが大炎上して辞任へと追い込まれたのは記憶に新しい。

うーむ、中野雅至さんよりも遥かに著書が多い。

感想文08-08:公務員クビ!論

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※2008年3月4日のYahoo!ブログを再掲

 

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公務員系の新書今年2冊目。まあ、あれだ。もうおなかいっぱい。もういいよ。今年はもうこれ以上、公務員に関連する本を読みません。たぶん。

本書はひどく真っ当。著者自身の人生、経験を元にして、公務員が抱える苦悩を描いている。公務員の仕事は非効率にならざるを得ないというのは共感する。非効率な仕事だからこそ役所が抱えてやらないといけない。効率的にできる仕事があるのなら、それは民間に任せてしまっても構わない。

そうやって考えていくと、国が関わる仕事って本当に少なくなるだろう。徐々に役人と呼ばれる人たちの数は減っていき、非効率な仕事を忍耐強く遂行できる専門家だけが残るだろう。

一つ学んだのは、国家公務員の身分保障がなぜ手厚いのかということ。それは「猟官制」に対抗するため。要は政権が代わるとごっそりと役人が総入れ替えするような事態にならないようにするため。そうか、そうだったんだ。だからあんなに手厚く守られているんだ。

民間企業の景気が良くなり、人前で胸を張って公務員してますって何だか言えなくなってきている昨今、公務員に応募する人は減ってきている。東大法学部卒のいわゆるエリートたちが、国家の中枢で仕事したいと思わなくなってきた。それが良いことなのか、悪いことなのか分からないけれど、ある程度発展してしまい、もうこれ以上大きく成長できなくなってきた国に、非常に優秀な人材が行政に携わる必然性が薄れているのかもしれない。

とにかく公務員が安泰というのはもう神話になりつつある。もはや公務員は誇れる職業ではなくなっているからだ。

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(感想文の感想など)

著者の中野雅至さんはその後もたくさん本をお出しになっている。調べてみるとなかなかユニークなご経歴だ。

感想文08-03:公務員、辞めたらどうする?

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※2008年1月30日のYahoo!ブログを再掲

 

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公務員の人生というものに興味があった。どうしてって?今、そういうところに出向していて、公務員たちに囲まれて仕事をしているから。

日本は小さな政府を目指している。職員の数を減らしたり、人件費を減らしたりしようとしている。一方で既得権益を守ろうと、道路とか農業とか医療とか公共性の高そうな事業にしがみついている既得権益のある人たちが抵抗している。しばらくはゴタゴタとするだろうけれど、どっちにしろ少しずつ職員は減らされる。

計画的に人員を減らされるっていうのは、そこに属する人間にとっては辛い。自分が属する組織が成長することで、自身の成長と重ね合わせて、生きていると実感できることもあるのに、それができない。少しずつ身が削られていく。じわじわとしぼんでいく。

将来に不安を感じる公務員がたくさんいても不思議ではないだろう。

実際に公務員になろうとする人は減ってきている。公務員の役割は、構造的にも機能的にもそして歴史的にも終わりつつある。若い人は敏感にそんな状況を感じ取るし、日々の仕事は見事にルーチンワークが多くて、知的に刺激されるようなこともあんまりない。

辞めたいと思う人は結構いるんだろうけれど、実際に辞めるとなるとそれはそれでものすごく大変なようだ。

作者は公務員の転職サイトを立ち上げ、運営している。その名も「役人廃業.com」

 

本書では実際に公務員を辞めた実例を紹介している。作者自身もその一人だ。

実際に公務員を続けていこうかどうか悩んでいる人には必読の書。公務員転職の現実について語られ、実例だけでなく具体的な方法や考慮すべきポイントが記されている。

とはいえ公務員でない人間が読んでもぴんとこない。公務員業務の閉塞感や冗長さや儀式や儀礼があまりに多いことに、端から見ているとよくこんなんで毎日遅くまで働いているなぁと感心するだけなんだけど、実際に公務員でどっぷりつかってしまうと、自身の人生観にまで浸食して、初心がすっかり色あせてしまってるんじゃなかろうか。

転職できない最大のリスク要因は、年齢だ。高血圧とか高脂血症とかと一緒で、年をとると「転職できない」リスクが高くなる。

本書はせいぜい30代中盤までに書かれている。40代になって公務員から民間企業に転職するというのは現実的ではない。そういう覚悟でお読みになると大変参考になるのだろう。

公務員を続けるのも、辞めて転職するのも、どちらもイバラの道だ。無傷で駆け抜けることはできそうにない。

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(感想文の感想など)

今、HPにアクセスしてみると「公務員プラス」へとリニューアルされていた。

でも個別相談会の案内が2018年が最新なので、現在はあまり活用されていないのかもしれない。

感想文21-22:名画で読み解く プロイセン王家12の物語

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名画で読み解く イギリス王家 12の物語(感想文19-06)に続く、名画で読み解くシリーズ第5段。

今回の舞台はプロイセン王国。世界史(どころか歴史全般)に疎い私は、プロイセンと聞いてもよくわからない。ドイツの昔の名前で、普仏戦争の「普」の方くらいにしか理解が及んでいない。

プロイセンは1701年から1918年まで続いたので、200年ちょっとの歴史がある。1701年といえば、日本では江戸城松の廊下で浅野内匠頭吉良上野介を斬り付けた事件が起きた年。第五代将軍綱吉の元禄時代である。

プロイセンの王様といって思い出すのは、第3代のフリードリヒ大王(=フリードリヒ二世)だ。フランスのポンパドゥール夫人、オーストリアマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータの3人による反プロイセン包囲網(3枚のペチコート作戦)で敵対したことで知られる。

とはいえ、大王以外は全然わからない。本書で勉強してみよう。

歴代の王様は、

名前が似ているので、区別をつけるために括弧内にあだ名が載っている。一部、酷いあだ名もあるのだが。

本書では絵画を見ながら歴史も学べるのだが、歴史の授業が大の苦手だった私にはするっと入ってはこない。人名を覚えられないし、地名も複雑でわからない。何よりもヨーロッパは何度も戦争が起きて、支配する国がコロコロ変わる。宗教問題も複雑に絡み合う。

ざっくりプロイセンの歴史を整理してみよう。

難しいな。説明できる気がしない。

ヴィルヘルム1世&ビスマルクの時代をもう少し深く勉強してみたい。

歴史は視点を変えるとまったく異なる様相が見えてくる。そこが面白いところだとは思うのだけれど、歴史のダイナミズムを正確に捉えることができない。よって感想文もあまり書けないんだよね。

感想文21-21:土偶を読む

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jbpress.ismedia.jp

この記事を読んで、関心を持ち、本書を読むに至った。早速、結論を載せておこう。

そこで私は宣言したい。-ついに土偶の正体を解明しました、と。結論から言おう。土偶縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。<植物>の姿をかたどっているのである。(p.004)

土偶とは植物の人体化なのである。信じるか信じないかはあなた次第ではあるけれど、本書を読み進めていくと、なるほどと納得させられる理屈の力強さはある。

小学生の頃に、粘土で土偶を作る機会があった。記憶が曖昧でもしかしたら埴輪を作ったのかもしれない。そもそも土偶と埴輪の違いを認識していなかった。

土偶縄文時代(約1.5万年前~紀元前3世紀ころ)に現れた土製の人形であり、埴輪は古墳時代(4~7世紀)に登場した素焼きの土製品である。なるほど、作られた時代は大きく隔たりがある。

本書の主役である土偶縄文時代に登場し、その正体は謎に包まれていた。私は考古学に興味を持てなかったのだが、その要因ははっきりしている。小学生の時に発掘調査を見学する機会があり、近くで見たいなと近寄ったら、砂が削り落ちてしまって、それについて酷く叱られたからだ。物凄い剣幕で怒られた記憶があり、怒られたその事実しか覚えていない。それ以来、考古学に近づくのはやめようと誓ったのだ。

考古学で思い出すことと言えば、もう1つある。旧石器捏造事件、通称「ゴッドハンド事件」だ。ウィキペディアでは、『日本の前期・中期旧石器時代の遺物(石器)や遺跡とされていたものが、それらの発掘調査に携わっていたアマチュア考古学研究家の藤村新一が事前に埋設しておいた石器を自ら掘り出すことで発見したように見せていた自作自演の捏造であることが2000年に発覚した事件』とある。

スクープとなり、連日報道され、大いに盛り上がっていた。そうか、20年以上も前になるのか(遠い目)。件のアマチュア考古学研究家の藤村さんは、今どうしているのだろうか。

話が大きくそれたが、本書との出会いは、これまであまり関心を持ってこなかった考古学について考える機会となった。著者の竹倉史人さんは、実際に遺跡を訪れたり、土偶のレプリカを購入したり、縄文人に近い生活をしてみたりと、土偶の謎に迫るアプローチが面白い。

古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである。(p.030)

土偶は芸術作品ではなく、実用品であり、呪術の道具なのだ。土偶は当時の最先端の「テクノロジー」であり、自然界を操作しようとする欲望の化身でもある。

土偶の変遷は重点的に利用された植物資源の変遷を示しているのである。(p.280)

縄文時代土偶の姿形の変遷がある。土偶デザインに流行りと廃りがある。土偶=芸術作品という前提に立てば、ファッションのトレンドとみなせる。他方で、本書のように土偶=実用品という前提に立てば、全く違ったものに見えてくるから面白い。つまりは縄文人は何を食べていたか、どの植物資源を大事にしていたかの傍証となる。

人間の知性の特性は演繹や帰納にあるのでもない。われわれの現実世界を構成し、意味世界を生成させ、あらゆる精神活動の基盤をなすものは、アナロジーである。(p.332)

ウィキペディアによるとアナロジー(類推)とは、『特定の事物に基づく情報を、他の特定の事物へ、それらの間の何らかの類似に基づいて適用する認知過程』とある。

残念ながら、「土偶=植物の人体化」説に明確な根拠があるわけではない。当然のことながら批判されるウィークポイントとなる。ぱっと見、土偶は植物と似てるよね、とする仮説はあくまで類推であり、その仮説が計測データや観察された事象ときちんと整合するかどうかを本書では丁寧に検証していく。

アナロジー(類推)はファンタジー(思い込み)と裏腹で、特定のアカデミズムからは忌避される手法かもしれない。他方で、本書に掲載されている椎塚土偶は、頭が貝の形をしてると誰もが直感するだろう。不可思議かつ不可解なのは、貝をモチーフにして土偶が作られたのではないかという仮説をこれまで誰も検証しなかったどころか、誰も提示しなかったことだ。

本書も出版に至るまで苦労があったそうで、門外漢の人類学者が異なるフィールドである考古学で新説を発表することの難しさがうかがい知れる。

考古学は古色蒼然とした閉鎖的なアカデミズムとする批判もあるだろうが、残された謎という未解決性が神秘性とつながり、考古学の価値を維持する役目を土偶が果たしてきたのかもしれない。解決されては困るアンタッチャブルな存在としての土偶

そこに知ってか知らずか暗黙のルールを破り、土偶の正体を解明し、華々しく発表し、美味しいところをかっさらっていった掟破りの人間として白眼視される。

しかし、閉ざされた蓋は空いてしまった。土偶=植物説がファンタジーである可能性も十分に残されているが、否定するためにはきちんとした証拠を出さなくてはならない。逆に新設が定説として定着していくと、そこを起点とした新たな謎が生まれ、新たな研究領域が広がっていく。

すると、土偶学あるいは土偶研究がにわかにホットな学問フィールドとして脚光を浴びるようになる。本書に影響を受けてこの学問に新規参入する若い人たちが増えていく。考古学以外の専門家も参入してくる。

逆にこれで盛り上がらず、健全な議論がなされなければ、土偶学だけでなく考古学の未来は暗いものとなるだろう。学問の新たな展開はいつもスリリングで面白い。そしてその瞬間に立ち会えるのは大変貴重だ。

感想文21-20:美貌格差 生まれつき不平等の経済学

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美しい人は得をするのか。本書では経済学者がこの疑問に真っ向から取り組んでいる。

読書リストを調べてみると、これまで美についての本を読んだことはない。アートや芸術に関連する本は読んだことがあるが、何を美とするのか、あるいは何を醜とするかについてはきちんと考えたことはない。

本書は、そもそも美醜を量的に分析できるのか?性、人種、文化的背景、価値観など美醜のスコア化に影響を与える要素は多数にあるのではないか?といった素朴な疑問も当然対象とし、過去の研究事例やデータを通じて、きちんと回答してくれる。

つまり、美醜はある程度の再現性を持ってスコア化できるし、美しい人は得していると。

訳者あとがきでは、

つまり見てくれと稼ぎ、自分の容姿と相方の容姿は相関している。そこで、稼ぎと相方の容姿が本人の幸せに与えている影響を調整してみると、美貌の違いによる幸せの違いは大部分が消えてしまった。結論:美形がなんで幸せかって?自分はたっぷり稼げるし、それに見るからにステキな相方を捕まえられるからです。(p.236)

美しいと稼ぎが増え、美しいパートナーを手に入れることができる。もちろん、世の中には美女と野獣のようなカップル(あるいはその逆)もあるし、風貌への劣等感をバネにして成功する事例もあるだろう。

しかし、生まれ持った美が人生に有利に働く傾向にあるのは明白な事実であるのだ。と同時に、生まれ持った醜が人生に不利に働く傾向にあるのもまた明白な事実であるのだ。

これが本書タイトルである美貌格差に収斂するのだが、ではこの現存する格差は是正すべきなのかという、至極まっとうだがこれまで誰も踏み込まなかったであろう理路へと分け入っていく。

私たちが美形を好むのは、ある程度は純粋に差別だ。一部の少数民族の人から何かを買ったり、そういう人たちと一緒に働いたり、あるいはそういう人たちを雇ったりするのを多数民族の人が嫌うのとなんにも変わらない。この手の差別は差別をする人たちには有益だが、社会全体には有害だ。(p.144-145)

美形への嗜好性は差別という主張には首肯するのだが、だから是正せよという主張には多くの人は疑念を抱くだろう。

また、今となっては見た目で判断することはルッキズムとして非難されるし、さらには見た目についてネガティブだろうがポジティブだろうが言及すること自体も炎上の燃料となる。

ブサイクな人たちを保護するということは、すでに保護されている他のグループや、今後私たちが保護したいと思うかもしれないグループの人たちを保護するために使う資源が減るということだ。(経済)経済的に競合しないとしても、政治的には競合する可能性が高い。(p.212)

と、ここまで議論が進み、唸ってしまう。ブサイクな人たちを保護する正当性があったとしても、他にも保護対象となる人たちと政治的に競合する。本人たちの努力でどうにもならなかったことで受けた不利益の是正を主張するその要因は様々であるが、すべての人を救うことはできないし、どちらがより不公平さを感じる人が多くいるのかという政治的課題になる。

エッセイのような文体を気軽に読み進めていくと、とんでもない地雷原に連れてこられてしまう。極めて真摯に真面目に検討していくと、こうなってしまう。現在のポリコレ問題の縺れと拗れへの予見にも思える。

こうして感想文を書いているうちに、美醜の損得について真剣に考えるのはコスパが悪い、と考えてしまう。また、美醜について、例えほとんど読む人のいないブログであったとしても言及するのは、割りに合わないとも感じてしまう。

現代社会でのルッキズムへの痛烈な批判は、美醜にいかに多くの人が囚われてしまっているかの証左であると同時に、口を閉ざすことへのインセンティブになる。

美醜に囚われているが、それを表に出せない。その行動制限がかえって美醜への拘りを強化し、固着してしまうのではないだろうか。

と同時に、現在のように在宅勤務が一般化し、顔の半分をマスクで覆う生活が浸透すると、顔の美醜による損得の影響は軽減するかもしれない。

コロナによる化粧品の売上不振もその変化の一つだ。見た目以外の要素が給与やパートナー選びを左右する。これはこれで、とても興味深い経済学のテーマになるなぁ。

感想文21-19:経済成長という呪い 欲望と進歩の人類史

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「人新世」の資本論(感想文21-06)で話題になった「脱成長」というコンセプト。本書は、経済成長は至上命題なのかという根本的な疑問に挑んでいる。

本書が掲げるおもな疑問は次のとおりである。経済成長が停滞しても、現代社会は存続するのだろうか。日本は1990年代の金融危機以来、力強い経済成長を取り戻そうと努力してきただけに、この問いは日本にとってきわめて重要だろう。(p.1)

私を含むロスジェネとして生きた人たちは、経済成長の波に置いてきぼりにされた。バブルが崩壊し、甘い汁を吸った人たちの後始末を押し付けられる。生まれた時代のせいで、就職先はなく、不安定な非正規雇用で糊口をしのぎ、結婚や家庭を持つことができなかった人も少なくない。

今、コロナですっかり忘却の彼方に霞んでしまったアベノミクスの記憶はアベノマスクに上書き保存され、株価だけは上昇し、実体経済を反映していない。

経済成長を実感したことはないが、身の回りの技術の進展は華々しい。ポケベル、PHS、携帯電話、スマホへとモバイル端末が劇的に進化した。ゲノムシーケンスが安価かつ高速になり、iPS細胞が登場し、ゲノム編集が可能となった。人工知能が再び脚光を浴び、今は量子技術が話題になっている。ゲームと映画の区別はつかないほどになり、VRで没入できるし、ドローンは飛ぶは潜るはで、カメラはどんどん小型化&高解像になった。

技術革新が起きているのに、私たちはその恩恵を受けているのに、経済は成長していない。なぜだろうか。

テクノロジーが急速に発展しているにもかかわらず、なぜ経済成長率は低迷しているのか、という疑問だ。私の見解は次のとおりだ。それまでの産業革命は人間の労働を内包できたのに対し、現在の革命はそうではないからだ。現在の革命により、社会はこれまでにない二極化構造になる。社会の頂点に立つ指導者たちは、スマートフォンを用いてほぼ自分たちだけで組織を動かせるようになった。一方、価値連鎖の末端に位置する対人サービス業などでは、雇用は創出されるが、生産性が低く、低賃金を強いられる。中位所得層では、強烈な圧力が生じ、逆に雇用が大量に破壊された。これはコンピュータと人間が競合した結果だ。(p.3)

富む者はますます富む一方で、コンピュータが人間の仕事を奪い、特に中位所得層の仕事は減り、低賃金労働者が増え、格差が拡大する。この流れは今後も変わらないだろう。

改めて原著のタイトルを確認すると、LE MONDE EST CLOS ET LE DESIR INFINI(閉じた世界と無限大の欲望)である。発刊は2017年9月。ピケティの「21世紀の資本」(*読んでません)が話題になった2013年から少し後だ。

訳者あとがきでは、

マルサスが警鐘を鳴らした人口爆発が人口転換という奇跡によって回避されたように、環境問題や労働強化による人間疎外も、上から押しつけられる政策ではなく、人々の心境の変化によって解決される。それは、われわれが現在の経済成長という無限大の物質的欲望から解放される、そして解放されなければならないことを意味する。現在、われわれはそうした精神的な岐路に立つという見通しだ。(p.204)

とあるように、やや楽観的な見通しを示している。まさか感染症が世界の在り方や人間の行動を、さらには歴史までもを不可逆的に変えてしまうことを予見していたわけではないが、今まさに「精神的な岐路」に立っていることに同意する人は多いだろう。

本書には重要な示唆が多くある。いくつか列挙しておこう。

現代社会の逃れられない根源的な問題は、富をこれまでとは別の方法で考察することにある。経済成長率という統計の数値に囚われることよりも、社会が生み出すべき基本的な財について考えをめぐらせることのほうが急務だ。すなわち、医療、教育、環境である。それらの財は、統計にはコストとしか表れないが、われわれが何としても守るべき最も重要な財なのである。(p.4)

コストとしてカウントされがちな医療、教育、環境こそが、最も重要な財という主張に改めて首肯する思いだ。ここにさらに、「防災」も追加したい。昨今の気候変動いや気候緊急事態とも呼べる現状を鑑みると、自然災害に如何に対応していくかは極めて重要だ。

経済成長の枯渇を心配する先進国社会には、経済成長を失速させる恐れのある措置を講じる意欲はほとんどない。新興国は、これまで先進国が物質文明の恩恵をふんだんに享受してきた様子を蚊帳の外から眺めてきたため、物質文明が自分たちから奪われることに納得しないだろう。環境危機に対処しうる道徳的および政治的な方策を見つけるには、すべての社会の間で、共通の未来を構築するのだという信頼関係を(再び)築くことが、確固たる前提条件になる。はたしてそのようになるのだろうか。(p.130)

現実世界の環境危機を目前にして国際連携が進んだかというとそうではない。むしろトランプ大統領の出現やブレグジットといった自国第一主義が先鋭化した。しかし、自国第一主義も一時的な現象かもしれず、環境危機に加えてコロナ・パンデミックが流れを変えるかもしれない。

状況への「馴化」と、常に適応しながらも期待値自体を下回るのではないかという心配の二つを組み合わせると、不快な結論が得られる。すなわち、われわれは常に不足という心配に悩まされ続けるのだ。どんなに注意しても、不足の心配は人間の心を常に苛む。人間が欲求から逃れるためにどんなに豊かになっても、その新たな状態がすぐに新たな基準になり、すべては振り出しに戻るのである。(p.152)

かくて行動経済学は生まれり(感想文18-09)で導き出された、効用を最大にするのではなく、後悔を最小にしようとする人の特性のために、不足を恐れ、その恐れが欲望に結びつく。

欲望の源泉について私は考えたことがなかったので、ハッとさせられた。欲望の源泉が人の特性から来るのだとすると、欲望のコントロールは人の性質そのものをコントロールすることに等しいからだ。

現時点で私は賛同していないが、もし脱成長を志向する場合、欲望をどうするかという問題と対峙することになる。欲望が人の性質に根付いているなら、そこに介入することは原理的に可能であるが、その方法や帰結は人道性を問われる。いや介入するほうが人道的とする意見もあるだろうか。いずれにせよそこまで踏み込まないといけない状態にまで人間の欲望が肥大化し、地球環境を損ねているとも言える。

経済成長により、人々は社会の一員になり、社会は人々を保護すると約束し、社会的な敵対関係は緩和される。不況になって経済成長が消え失せると、暴力が再燃する。その犠牲になるのは、しばしば少数派だ。(p.189)

脱成長が地球環境への負担を軽減させるかもしれないけれど、暴力を生み出す蓋然性が高い。過激な排斥運動や特定民族への弾圧はすでに現実に起きている。脱成長のためには、暴力へのケアも同時にしないといけないとなると、とても悩ましい。思った以上に、人という生き物は厄介だ。

今後、人々は、自分たち自身や自分たちの子供たちに、自分が最高と思う社会を約束するために働く。族内婚は、社会的な病理以上に深刻だ。なぜなら、族内婚は、物質的なモノという普通の意味での商品よりも社会的なつながりを消費する社会の存在形式であるからだ。(p.192)

族内婚とは、

toyokeizai.net

で示された、「横の旅行」とも連関する。社会にはレイヤーがあるのだが、そのレイヤーを意識できず、レイヤーが社会の全てだと思ってしまう。似た価値観、似た経済観念、似た生活様式の族内だけでの婚姻(≒より強固なネットワーキング)が行われる。

玉の輿や逆玉のようなレイヤーを乗り越える婚姻が起きない。格差でも分断でもなく、断絶であり、レイヤー外の人間の存在を認知できないほどだ。そしてその断絶状態には欲望が関わっている。

本書は、経済成長が果たしてきた機能だけでなく、経済成長が人の欲望をさらには生物的な性質を源泉とすることに言及し、さらには経済成長を放棄することの危険性についても明らかにしている。

経済成長は、邦題にある呪いというよりも、抗不安薬として役立つ側面が強く、だからこそ依存性があり、抜け出すのが難しい。呪いはむしろ人の特性であり、呪いがもたらす苦しみを紛らわせるために経済成長が利用されている。

日本では経済が停滞して久しい。私たちは苦しみに慣れたのだろうか。呪いを解き放つのは何だろうか。人類史が変わる転換期に私たちは生きているのだろうか。