40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-18:科学者をまどわす魔法の数字,インパクト・ファクター

f:id:sky-and-heart:20210705185604j:plain


何かを正しく評価するのは大変難しい。会社組織での自身の働きと、その評価が乖離していると感じる人は少なくないだろう。あるいは大した働きもしていないのに評価されている人をやっかむこともあるだろう。

なろう系小説や漫画での追放モノのテンプレは、現代社会の自己評価と他者評価の乖離に苦しむ心理状況の合わせ鏡であり、「働きに見合った評価をされていない」、「なんであいつが評価されるんだ」、「もっと正しく評価してくれ」という心の叫びと同じである。

科学者の世界はどうだろうか。本書は、指標の一つとして広く採用されているインパクト・ファクター(以下、IF)の問題点を丁寧にデータを用いて指摘している。

ウィキペディアによるとIFとは、『自然科学や社会科学の学術雑誌が各分野内で持つ相対的な影響力の大きさを測る指標の一つである。端的には、その雑誌に掲載された論文が一年あたりに引用される回数の平均値を表す。』とある。

私が理系の大学院生だった頃、今よりもIFが重視されていた。Nature、Science、Cellといった高IFジャーナルへの論文掲載が科学者の世界で出世するための手段であり、必要条件だった。

もちろん今でも、なるべく高IFジャーナルに投稿するのが基本的な習わしであり、短期的な論文評価はどの雑誌に載ったかが重視される。しかし、IFは論文の評価指標ではなく、雑誌の評価指標なのだ。

同じ雑誌に掲載された論文でも、被引用回数には少なくても10倍単位、極端な場合には1000倍近い差がある。したがって個々の論文の被引用回数の代わりに、雑誌のインパクト・ファクターを使うのは、あまりにも乱暴な行為だと言えるだろう。(p.20)

IFの不都合な真実の一つがこれだ。先述したとおり、IFは論文が一年あたりに引用される回数の平均値だが、その平均値に意味はない。引用数は正規分布しておらず、たくさんのほとんど引用されない論文(結果的にインパクトを残さなかった論文)とものすごく引用されるごく少数の論文で構成されているからだ。

高IFジャーナルへの掲載は、高引用を保証しない。高引用論文は高IFジャーナル論文の中でもごく一部だ。ジャーナルの評価指標であるIFを、代理指標として論文評価に用いるのは不適切である。

では、ジャーナルの評価指標としてIFを用いるのは適切なのだろうか。本書ではこれも間違いと指摘する。

研究論文以外の記事の引用も分子では数えていて、それを分母の研究論文数で割っているので、出てきた数値、つまり現在発表されているインパクト・ファクターは、研究論文一本当たりの平均被引用回数ではなく、研究論文以外の記事への引用によって水増しされた値になっているのである。(p.45)

IFの水増しが公然と行われている。研究論文以外の記事で自らのジャーナルに掲載された論文を引用する。ジャーナル自らが指標となるIFを操作できてしまっている。しかし、ジャーナルを一方的に責めることはできない。

問題はもはや「インパクト・ファクター操作は悪いこと」と単純に片付けられるレベルのものではないのではないだろうか。インパクト・ファクターの操作など、一番やりたくないのは編集委員たちである。でも、やらなければ雑誌は死ぬ、廃刊に追いやられる。地味だが重要な研究の発表の場が消えていく。やらざるを得ない。(p.96)

IFの低い雑誌の生き残り策として、IF操作が横行している。正しくないのは誰もがわかっている。必要悪として機能してしまっている。科学の健全性にも関わる。ジャーナル自ら操作できるIFを指標とすることがそもそも間違っているのだ。

研究成果をあるいは科学者を評価するためにIFが利用されている状況において、科学者はあるいは科学者を雇用する大学や研究機関はどう行動するのか。行動経済学的観点から考えても面白いだろう。

これから職を得ようとする世代の状況はもっとシビアである。とにかく、最重要視されるのはインパクト・ファクターの合計数。「渇しても盗泉の水を飲まず」とグレイ・ゾーンには近づかず真摯な態度で研究に取り組む心清き研究者と、とにかく手段は選ばずインパクト・ファクター集めに奔走するグレイな研究者。どちらが生き残る可能性が高いか。おそらく、後者である。(p.80)

『グレイな』という表現は研究不正と不可分な領域の存在を示唆している。テニュア職を手中にするために、バレない程度にライバルを出し抜こうとする、あるいはバレないような操作ばかりうまくなる科学者もいるだろう(そういう人を科学者と呼ぶのは不適切だが)。

論文数や被引用回数を重要評価項目とする世界大学ランキングの登場によって、これらを偏重する傾向はますます強まり、ついには、大学の方針そのものに大きく影響するようになったのだ。(p.136)

科学者を雇用する大学もIFや被引用回数に呪縛される。引用されやすい研究分野への新規参入が加速し、すぐには芽の出ない独創的な研究が行われなくなる。

インパクト・ファクター偏重主義、簡単に数値化できる指標にもとづいた業績至上主義は、ついに科学の真髄である再現性を揺るがし、科学の信頼性をおびやかすところまできたな、というのが個人的かつ率直な感想である。(p.154)

これから科学はどうなるのか、どうあるべきなのか。著者の指摘するとおり、一部の研究領域では再現性の低さが問題となっている。再現できない研究は科学とは呼べない、はずだ。

行き過ぎた分野の細分化の反省から異分野融合が進み、個人の研究からチームの研究へと移行し、地球規模の課題に取り組むために国際連携も進んでいる。

しかし同時に、米中の対立が顕在化し、オープンアクセスのビジネスモデルを悪用したハゲタカジャーナルが乱立し、ヒューマンスケールを超えた分量の論文が量産されている。

科学の本質は何か。科学という営みは誰のために存在し、そしてどこへ向かうのか。科学の覇権はどうなるのか。

「役に立たない」科学が役に立つ(感想文20-37)にあるように、科学は真に世界を結び、普遍性をもつ事業である。

IFという指標がもたらした歪み。科学そのものの存立までもを揺さぶっている。それでも私は科学に期待し、科学を信じたい。世界を正しい方向へ変えていくのは、人の行動や判断の総体であるが、その行動や判断の根拠となるのは科学以外にありえないという信念があるからだ。

危機的な気候変動、感染症の蔓延、格差の拡大と経済成長の限界など、今、後戻りできない大きな変化の渦中にいるのかもしれない。こうして大して危機感もなく書いているけれど、数十年後にこのブログを読み返してみて、激しく後悔するかもしれない。

人類の知が問われている。しかし、その知は、評価指標の歪みによって、フェイクが入り混じっているのだとすれば、いったい何を信じて行動すれば良いのだろうか。悲劇でありホラーである。

感想文21-17:雪ぐ人 えん罪弁護士今村核

f:id:sky-and-heart:20210611170447j:plain


著者はノンフィクション作家の佐々木健一さん。これまで辞書になった男(感想文14-62)Mr.トルネード 藤田哲也(感想文17-48)を大変面白く読ませていただいた。

佐々木は人物に焦点を当てて描くタイプの作家だが、その人選がユニークだし、脈絡がなくて幅広い。本書の主人公はタイトルにあるとおり「えん罪弁護士今村核」だ。

えん罪で思い出すのが映画「それでもボクはやってない」。この映画はどこで見たんだろうか。テレビで放映された時だっただろうか。はっきりとは覚えていないが、他人事ではないことに背筋が凍る思いをした。

幸運にもこれまで逮捕された経験はなく(逮捕されるような行為もしてない)、未だに民事事件と刑事事件の違いも、警察と検察の違いもよく分かっていない。

なんとなくフィクションやファンタジーの世界ではイメージできる。ゲームの「逆転裁判」であり「Judge Eyes」がリファレンスになるのだが、さすがに現実世界とは大きく乖離していることは理解している。

自分が取材対象になることを少しも歓迎していない男。それが、"えん罪弁護士"今村核だった。どことなく浮世離れし、近寄りがたい雰囲気を漂わせている53歳(取材当時)、独身。そんな今村がこれまでに築き上げてきた実績は驚異的だ。無罪14件―。法曹界の誰もが舌を巻く圧倒的な数字である。(p.7)

この文書を読むと、今村は無罪を勝ち取る辣腕弁護士というイメージを想起しそうだが、そんな単純な話ではない。コミュニケーションが苦手で、徹底した科学的な調査をし、静かな怒りを抱え、そして経済的には困窮している。

生き様に美学があり、格好良さを感じる。しかし、弁護士としてのロールモデルにはならない(食えない)。目指しても弁護士という職業でこう在りたいという理想とそこまでできないという現実の間にある穽陥でもがき苦しむことになる。今村本人も苦しみ、悩んでいる。

全身全霊を注がなければ、冤を雪ぐことはできない。救えたとしても、元に戻るわけではなく、深く感謝されるとも限らない。えん罪弁護士とはそういうもの、と今村は静かに受け止めていた。(p.97)

えん罪の被害に合うともう二度と日常に戻ることはできない。起訴されれば相当の可能性で有罪判決を受けてしまう。仮に無罪を勝ち得たとしても、疑われて当然の行為があったのではないかと周りから思われてしまう。また長期間勾留され、家族にも職場にも迷惑を掛けてしまう。

「疑わしきは罰せず」とか「疑わしきは被告人の利益に」という言葉を聞いたことがあるだろう。

日本の刑事司法では、無罪の立証まで行わなければ、現実的に無罪を得ることは難しい。だが、弁護側が提出した証拠も、裁判官が採用してくれなければなんの効力も発揮しない。(p.198)

しかし、現実は厳しい。疑われた側が無罪を立証しないといけない。お金も時間もかかるし、専門家の協力も必須だ。やったことを証明するのは簡単だが、やっていないことを証明するのはとても難しい。UFOを捉えた映像はUFOの存在証明になり得るが、UFOの映っていない画像はUFOの不在証明にはなり得ない、に似ている。

構造的な問題も背景にある。裁判官人事制度の歪みとも言える。法服の王国 小説裁判官(感想文14-05)では行政訴訟の事例を出したが、似たようなものだ。えん罪を認めて無罪判決を出さないインセンティブが働いている以上、これからもえん罪被害者は後をたたない。

正しく事件を裁くのではなく、自分の身可愛さを優先する構造になっているのが問題の背景にある。しかしこの構造を変えるのは容易ではないし、ましてやえん罪被害者も痴漢されたと訴えた人にとっても、そんな構造は知ったことではない。巻き込まれて初めて知る。

構造的な問題と断定するのは簡単だが、構造的な問題だからこそ変わらないし、変えられない。今村さんも構造的な問題の被害者とも言える。

私がえん罪被害者になりそうなとき、真っ先に今村さんに依頼することにしよう。今村さんの存在を知ったことが、歪んだ司法に対峙するかすかな希望に思える。

感想文17-48:Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男

f:id:sky-and-heart:20210611170027j:plain

※2017年9月28日のYahoo!ブログを再掲

 

↓↓↓

辞書になった男 ケンボー先生と山田先生(感想文14-62)以来の佐々木健一さんのご本。辞書になった男は非常に印象に強く残っている作品で、非常に面白かったのを覚えている。佐々木健一が書いた本ということで、期待して読んでみた。

本書の主人公は、藤田哲也(1920-1998)だ。恥ずかしながら、本書を読むまで藤田博士のことは全く存じ上げなかった。ウィキペディアには『ダウンバースト(下降噴流)とトルネード(竜巻)の研究における世界的権威として知られ、その優れた業績から Mr. Tornado(ミスター・トルネード)、Dr. Tornado(竜巻博士)とも称された。また観測実験で得た難解な数式なども、見やすい立体図などの図解にしてしまうことから「気象界のディズニー」とも呼ばれていた。』とある。同じ年生まれは、アイザック・アシモフ長谷川町子三船敏郎、森光子、原節子ミヤコ蝶々といったところ。

若くしてアメリカで教授となり、偉大な研究業績を残し、ダウンバーストを発見し、飛行機の墜落事故を大きく減らすことに成功した。藤田博士は偉大な気象学者と言える。

しかし、本書は知られていない藤田博士の実像に肉薄していく。なぜダウンバーストを発見できたのか。なぜ藤田博士という偉大な学者が形成されたのか。そして、藤田博士はどういう人物だったのか。

藤田博士は25歳の時、長崎への原爆投下の被害調査を経験している。写真を撮り、木の倒れ方を観察し、爆心地を割り出す。観察眼、立体的に空間を把握する能力、物理現象を正確にイメージする力、いかんなく発揮され、養われた。

アメリカ人関係者への取材で、よく彼らが藤田について語る際に使った言葉が「天才」だった。(p.231)

藤田は天才だった。その天才性はアメリカの地であるかこそ存分に発揮された。アメリカには天才を許容する度量があり、そしてその天才を活かす舞台があった。アメリカでの生活は時には孤独であったかもしれないが、計り知れないほど大きな成果ももたらした。

査読を受けずに自説を発表するスタイルは、米国気象界の中で明らかな異端だった。(p.175)

天才は時には傲慢にも映る。藤田博士は学問に厳しい。自らにも厳しく、弟子にも研究仲間にも厳しい。その厳密性がゆえに、査読というアカデミックでは当たり前のシステムを無用と考えた。自らの学問の厳密性を信じ、課しているが故にのことだ。

天才で傲慢。やはり日本では収まりきらないスケールであろう。

何のために研究しているのか。学者同士の議論に終始するより、一般大衆に向けて幅広く研究成果を届けることが学者本来の務めではないか。そうした考えから、広報活動にも熱心に取り組んだ。(p.270)

査読なく自説を発表し、広報活動にも熱心。この一面だけを捉えてしまうと、現代の研究不正と紙一重という印象すら受けてしまう。しかし、藤田博士は完璧主義者で、学問に極めて厳格で、ストイックな研究生活を続けていた。

そして、何よりも好奇心が旺盛だった。生涯現役での研究を心から望んでいた。

何故なのだ。気象史に残る決定的瞬間を捉えた画像を見ながら、なぜそのような欲求が迫り出してくるのか。ようやく墜落事故原因の証拠を掴んだ直後に、なぜわざわざその元凶の中へと自ら突っ込むという、向こう見ずな冒険心を抱くのか。下手をすれば命を失いかねないことは、誰よりもよく知ってるはずだ。だが、藤田哲也という人はそういう人なのだ。自分の目で見て、体験してみないと気が済まない質だった。(p.213)

ダウンバーストを墜落事故の原因と突き止め、その存在を掴んだ。すると、藤田博士は、ダウンバーストに飛行機で突入してみたくなるのだ。どんな風の影響を受けるのか、そこまで知りたくなるのだ。

本書で、知られざる藤田哲也の実像を描いてみせた。晩年の病との戦い、むしろ病に対しても自身の研究能力を使わざるを得ないほど苦しんだ姿があった。それでもなお、空白は残る。家族のことだ。

藤田博士のストイックな研究生活は、人類に貢献するという光を生み出したが、妻や子どもという親しい存在にはその光は到達しなかった。

アメリカだからこそ輝いた強烈な個性、異端な才能。藤田哲也という偉大な学者の存在を私は知ることができ、非常に嬉しく思う。私自身は何度も飛行機に乗ったが、何事もなく無事に安心して利用できるという恩恵を受けている。

藤田博士は、天才であり、傲慢であり、完璧主義者であり、芸術家であった。何より偉大な学者だった。しかし、夫や父としての役割は十分には、あるいは全く果たすことはできなかったかもしれない。

このことを責めても仕方ないし、家族以外に責める資格はない。完璧な人間などはいない。偉大な人物の実像に迫った時、見たくないものも見えてしまう。しかし、このことが藤田博士の新たな魅力となり、輪郭を際立たせ、陰影をもたらす。

↑↑↑

 

(感想文の感想など)

感想文を見直すと、査読を受けずに自説を発表するスタイルというのは際立っている。

アメリカ気象学会が藤田博士の生誕100年を記念して伝記をつくるというニュースがあったが、その伝記を見つけることはできなかった。

感想文14-62:辞書になった男 ケンボー先生と山田先生

f:id:sky-and-heart:20210611165213j:plain

※2014年12月19日のYahoo!ブログを再掲

 

↓↓↓

本書は辞書の物語である。って、辞書?辞書は無味乾燥で、淡々と言葉の意味を説明し、整理したものと思っているかもしれない。私も思っていた。辞書に個性は疎かたいした違いはないと。そうじゃないのだ。辞書も人間が作ったものであり、人間が作ったものである以上、そこには作り手の情熱や思いや信念が詰まっている。ドラマがあるのだ。

そのことを知っただけでも本書の価値はすごく高い。大変面白い。

これは、日本を代表する二冊の辞書の誕生と進化を巡る、二人の男の情熱と相克の物語である。

二人の男とは、タイトルにあるケンボー先生と山田先生のことだ。つまり、

新明解国語辞典』の生みの親、山田忠雄(やまだ ただお)

三省堂国語辞典』の生みの親、見坊豪紀(けんぼう ひでとし)、「ケンボー先生」
であり、恥ずかしながら、辞書の名前は知っていても、生みの親の名前は知らなかった。

この二冊を世に送り出した「山田先生」と「ケンボー先生」は、辞書界の二大巨星だった。二人は奇しくも東大の同級生であり、元々はともに力を合わせ一冊の国語辞典を作り上げた良友だった。だが、ある“時点”を境に決別した。そして、同じ出版社から全く性格の異なる二冊の国語辞典が生まれた。

そしてこの本はミステリーでもある。ある時点は確実に存在し、その存在は山田先生の新明解にちゃんと例文として記載されているのだ。

じてん【時点】「一月九日の時点では、その事実は判明していなかった」(『新明解』四版)

まさかそんなことが辞書に書かれているだなんて、読者(この場合は、言葉を調べる人)は想像するだろうか。分かる人にだけ分かるようにそっと忍び込ませていた暗号だ。1月9日とは何のことだろうか。

辞書というと広辞苑を思い浮かべる人もいるだろう。私もそうだ。あの分厚い一冊は、知識の量と重さと広がりを否応なく醸し出している。

「日本で最も売れている」と言うと、『広辞苑』を思い浮かべた人もいるだろう。しかし、『広辞苑』は累計約1200万部なのに対し、『新明解』は累計約2000万部。2倍近い差ではるかに『新明解』の方が発行部数が多い。そのことを知っている人が、どれだけいるだろうか。

知りませんでした。新明解は実家にあったかなぁ。母親が小学校の先生で、専門が国語だったんだけれど、辞書について何か話を聞いた記憶がないなぁ。私があんまり話を聞く子ではなかったからかもしれないけれど。

そうそう、辞書と言って思い出すのは、辞書の神様・金田一京助のこと。孫にあたる金田一秀穂さんをテレビのクイズショーで見ることもある。辞書の神様という印象は今も強く残っているのだが…。

そもそも金田一京助は、辞書編纂よりもアイヌ語研究の言語学者として評されるべき人物だった。(中略)金田一京助が編者の仕事をしていないことは、辞書関係者の間では周知の事実だった。

ということで、金田一京助は別に辞書の編纂をしていたというわけではない。でも金田一京助がブランドになっているから、辞書出版会社も金田一京助の名前を載せていた。

これは意外な事実だ。金田一秀穂さんも「辞書の神様の孫」みたいな紹介をされるとややフクザツな心境になるかもしれない。

さて、まあ色々あって、「新明解」と「三国」という2つの性格の異なる辞書が世に出た。

『新明解』が「ことばの意味の解説」に重きを置いているのに対し、『三国』はどんなことばを辞書に載せるかという「見出し語の選定」に重点を置いている。

「客観」と「主観」、「短文」と「長文」、「現代的」と「規範的」。編集方針から記述方式、辞書作りの哲学に至るまで、まるで性格が異なる。

というように、辞書は思いの外、個性的なのだ。なかなか一つの言葉を複数の辞書で読み比べるなんてことはしない。また、辞書を普通の本のように通読するということもない。でも本書を読んで、辞書を比較したり、通読したりしてみたくなった。特に山田先生の新明解の主観的で、長文で、規範的な説明を読んでみたい。

辞書だけでなく、人物像も面白い。2人の辞書の生みの親も辞書に負けず個性的だ。

ケンボー先生が“戦後最大の辞書編纂者”と言われる所以は、「ワードハンティング50年」の成果である145万例のことばにある。辞書作りのために、これほどのことばを一人で集めた人物は、日本でも、いや世界でも皆無と言っていいだろう。

ケンボー先生の家族へのインタビューも本書では掲載されているが、異常な家庭の状況が伝わってくる。毎日、休みなく、ひたすらワードハンティングに励むケンボー先生。

取り憑かれたかのようにことばを集めるその姿は、子どもにとっては理解し難い父の姿だったろう。

取材を通して私に浮かんだ「ことば」のイメージは、「砂」だった。(中略)ケンボー先生は、変わり続ける「砂漠」の景色を、灼熱の中、必死にキャンバスに写し取ろうとスケッチを繰り返す画家のように思えた。

この砂漠という心象風景は、三浦しをんさんの小説「舟を編む」(私は読んだことないです)で表現されている「海」とは異なる情景を表したものだ。報われない砂漠の画家。

見坊は、用例採集に没入していき、刻々と変化することばの実相を追いかけ続けた。山田は、辞書界の現状を憂えながらも、ことばの砂漠に沈み込んでいく見坊の後ろ姿を、ただじっと見ているしかなかった。

そして山田は思い切った一手を打つ。

「見坊に事故有り」。そうはっきりと書かれている文を、見坊本人は何も言わずに凝視していた。見坊が“事故”に遭ったという事実など、一切存在しなかった。

新明解国語辞典』の完成を祝う打ち上げで披露された新明解の序文に、事故にあっていないのに事故有りと書かれていた。辞書にウソが書かれていた。このことが二人の亀裂を決定的なものにした。そしてこの打ち上げが開催されたのが、1972年1月9日だ。これが「時点」だ。

山田は辞書を作る上で、譲れない信念があった。「辞書は“文明批評”である」

見坊にも、生涯変わらない辞書に対する強い信念があった。(中略)「辞書=かがみ論」だ。(中略)国語辞典は、現代社会のミラー(鏡)である。もう一つはお手本(鑑)である、と。

文明批評とかがみ。2つの信念は別に水と油という関係ではない。しかし、決して交わることなく、2つの辞書が同じ出版社から出版され、人間が用いることばの輪郭を明確にしていった。

子どもの頃に家にも辞書があった。今、家庭を持ち、家に辞書があるはずだけれど、ここ数年、開いていない。知らない言葉があるとついついネットを使う。その方が早く、場合によっては画像も載っている。日本語で情報が乏しい場合には、英語で調べることもできる。辞書一冊ではネットの情報に太刀打ちできないのは事実だ。

今に始まったことではないだろうが、辞書ビジネスは窮地に立たされていることだろう。でも辞書にはドラマがある。その事実だけで、急に辞書に愛着を持ってしまうから不思議なものだ。

本書では二人の仲違いの真相を全て暴いたということではない。むしろ真相はきっと当事者ですら分かり得ないことだろう。東大の同期がお互いの存在を刺激し合い、そして出版社の事情も複雑に絡み合い、個性的な辞書が生まれていった。

本書はたいそう面白かった。多くの人にこの辞書のドラマを知ってもらいたい。

↑↑↑

 

(感想文の感想など)

何気なく子供の勉強で使う辞書。辞書を作る人がいて、情熱を注いでいる人がいる。そう考えると、急に愛おしく思えるのだから不思議なものだ。

佐々木健一さんの本をほかにも読んでみたい。

感想文21-16:だれのための仕事

f:id:sky-and-heart:20210609080852j:plain

本書の原本の刊行は1996年と四半世紀も前。その15年後の2011年に文庫版が出版され、補章が追加された。例示にやや古めかしさを感じさせるが、通底する労働への苦悩は、現代でも多くの示唆を与えてくれる。

題名にあるとおり、仕事には必ず顧客がいて、その顧客(=だれか)のためにするのが仕事だ。現代の労働の悩みは、仕事がシステム化して巨大化して顧客の顔が見えなかったり、そもそも顧客がだれなのかが分からないことに起因している。

本書は労働の外側にあるもの、あるいは外側に配置されているように見えるもの、仕事とそれ以外の境界やその曖昧さについて多くの紙幅を割いている。具体的には、定年後、遊び、ボランティア、家事、身体などだ。

労働の外側にあるものと、外側にあると認識される原因を突き詰めていくことによって、労働が何なのか鮮明になっていく。むしろ私たちの労働感がいかに根拠なく、こうあるべきという規範に囚われてしまっているか、に気付かせてくれる。

《労働社会》を貫通している、つねにより効率的な生産をめざさなければならないという強迫観念、もはや「禁欲」としてすら意識されないこのインダストリー(勤勉・勤労)の心性は、一種の〈労働〉フェティシズムとして規定することができるだろう。そしてまさに近代社会は、このフェティシズムによらなければ動かなかったのである。(p.50)

目的を未来に設定し、その未来のほうから現在を逆規定する、いいかえると未来の目的の実現のためにいま何をなすべきかというふうに、現在の行為を手段として規定する、そういう態度のことである。(中略)仕事が、何かをめざしておこなうテレオロジカル(目的論的)な過程としてとらえられているということである。そこでは目的が手段である労働過程を細部まで規定するのである。(p.113)

この感想文では、2つの当たり前だと思っていて、何の疑念も抱かなかったこと、具体的には「生産性」と「バックキャスト」について述べたい。

生産性とは何か(感想文20-42)で示したように、日本の長期停滞の理由を生産性に求める言説は少なくない。

しかし、生産性つまるところ一人当たりGDPの向上を至上命題と考えるのは、強迫観念であり禁欲的でありさらにはフェティシズムをも感じさせるとする本書の論考には考えさせられる。

スケジュールの空白に恐怖したり、朝から意識高く自己啓発セミナーに参加したり、ロカボフードを食べて、ジムに通い肉体を引き締める。すべては生産性のため、とまでは言わなけれど、根底にあるのは同じで、とにかく前進、進歩、進化といった前のめりの姿勢だ。

本書の出版当時と大きく異なるのは、SNS文化の拡大と浸透で、労働の外側というか自身のプロモーションの一環で、前のめりの姿勢をオンタイムで他者に知らしめて、承認を得ることで、さらに生産性向上への糧とする。

絶えず自分を追い込み、変革し、それをさらけ出し、相互承認する。巨大な組織の一員(歯車の一つ)であることを忌避し、独り立ちを覚悟した人ほど、寄る辺が人生そのものの劇場化になっていく。

もう一つのキーワード「バックキャスト」であるが、最近の流行り言葉になっている。本書ではバックキャストというフレーズは出てこないが、先程の引用は同じ意味を言っており、先取りした指摘と言える。

例えば、プロサッカー選手になりたい子供がいたとして、逆算していくと、高校生では強豪校かあるいはジュニアユースでレギュラーとして活躍し、そのために中学生では強豪のクラブチームあるいは早々に海外にサッカー留学する、そのためには小学生で足技はもとより戦術理解を進めると同時に語学を学び、そのためには…と逆算して、一つ一つ積み重ねていく。

仕事のプロジェクトも同様で、あるべき未来や市場を設定し、そこから逆算して研究開発を進めることが良しとされたり、あるいはそういった性質の資金が集中的に投下される。

このバックキャストの仕組みを初めて聞いた時はなるほどなと思ったのだが、いざ始めて見ると早々に鼻白むことになる。理屈の上ではそうだが、バックキャストして積み重ねていくことの虚しさと茶番さと詰まらなさが心に浸潤してくる。

確約した未来などはなく、今進む道が正しいのか、行き詰まるのか、超えられない壁があるのか、断崖絶壁が待ち受けているのかわからない。障害を乗り越えるためには情熱とときには狂気が必要で、限られた時間で光が見えない中をじりじりと進むほかない。

プロジェクトのほとんどは成功しない。成功が約束されているプロジェクトにはバックキャストなど必要ない。逆説的にバックキャストが有効なのは成功するプロジェクトだけだ。

生産性もバックキャストも共通するのは、前へ向かった1本道で直線的な時間感覚であり、進歩への無邪気な憧憬、あえて辛辣に言えば、愚かな自己中心的な盲信だ。

ひととしての「限界」に向きあい、それと格闘すること、そこに仕事の意味がある。(中略)仕事をじぶんの可能性のほうからではなくじぶんの限界のほうから考えてみることは、仕事の意味をじぶんのほうからではなくその仕事がかかわる他人のほうからも考えてみるとともに、仕事について別のイメージを得るためにはとてもたいせつなことである。(p.172)

自分ひとりでできることは極めて限られている。どんな天才であってもそうだ(天才は悩まないかも知れないが)。私は仕事で悩むが、ほとんどがどうすればもっと楽になって、もっと楽しくなって、そしてどうすれば世界の多くの方の幸福につながるか、という悩みだ。

先日、若い職員とオンラインで仕事について話すことがあった。ある若い職員は仕事と自己実現のズレについて悩んでいた。その時はうまく回答できなかったが、本書を読んで少し整理された気がする。

「仕事と自己実現をリンクさせるのはそもそも間違っている。自分本意だからリンクしてしまっている。誰のために働きたいのか、誰と働きたいのか、そこを考えてみてはどうか」と。説教臭くなく伝えるのは難しいな。

希望のない人生というのはたぶんありえない。そして希望には、遂げるか、潰えるかの二者択一しかないののではない。希望には、編みなおすという途もある。というか、たえずじぶんの希望を編みなおし、気を取りなおして、別の途をさぐってゆくのが人生というものなのだろう。働くことにはつねに意味への問いがついてまわるが、その意味とは、たえず語りなおされるなかで掴みなおされるほかないものなのであろう。(p.189)

誰でも人生には希望があるし、意味もある。しかし、クリアな答えはない。見つけては失い、失っては気づく。

定年後(感想文17-41)にも通じる。労働の外にあるものにこそその人の人生の希望や意味にヒントがある。より良い人生にするために引き続き考えていきたい。

感想文21-15:アパレルの終焉と再生

f:id:sky-and-heart:20210607182600j:plain

知らない業界について学ぶのは刺激的だ。仕事柄、アパレル業界とは接点がなく、おしゃれな服を買わないし、最先端のファッション動向も皆目検討つかない。

40歳を過ぎると、そもそもどういう服を着れば良いか分からない。仕事では、基本的にスラックス、ワイシャツ、ジャケット、革靴という出で立ちになるが、コロナ禍になってからオンラインでの打合せが増え、カジュアルな出で立ちの在宅勤務者と打合せするようになると、出勤者が旧態依然としたビジネス・スタイルを維持する意義も規範も薄まり、ジャケットをスポーティなアウターに変更して出勤するようになった。あまりカジュアル過ぎると守衛に止められやしないかという心理と、毎日会社に着ていけるような私服を持ってないという現実のため、スラックスとワイシャツは維持している。

未だにネットで服を買うことに違和感があり、必要な服を店舗で購入しているが、購入している店はここ数年1つしかない。以前は代官山のセレクトショップに行っていたが、店のコンセプトと私の好みがややズレ始めたのと、若干遠いので、長らく訪れていない。服を選ぶのは面倒だし、そこそこの価格帯で清潔感があって他の人とかぶりにくく、ラフに着れるのであれば、文句はない。

衣食住のうち、衣への出費は圧倒的に少ない。年間、平均すると10万円もかけていないだろう。なにかの備忘録的に現時点での私の衣について書き留めておいた。

前置きが長くなった。扇動的なタイトルに惹かれ、そしてこれまでアパレル業界に関する本を全く読んだことがないなと思い至り、本書を手にとった。

シーズン毎にトレンドを仕掛けて買い替えを煽り、あの手この手で「ブランド神話」を創造して付加価値を乗せ、過剰に供給して過半が売れ残るアパレルの多産多死型ギャンブル流通がコロナ・クライシスで行き詰まり、過剰な店舗やブランド、過剰な企業や雇用が、潮を引くように消えていく。(中略)美辞麗句の建前にとどまっていたエシカルサステナブルな社会が、コロナ危機というカタストロフィを契機に否応なく実現されていく。コロナ危機は産業革命以降の近現代文明の終焉と再生という壮大なドラマの幕を上げたのではないか。(p.4)

本書は冒頭から大変辛辣である。コロナ禍に陥る前からすでに破綻しつつあったアパレル業界は、コロナ禍で完全に息の根が止まった。もちろんユニクロやワークマンのように業績を伸ばすブランドもあるが、電子商取引(EC)への移行が遅れたり、休業要請を受けた百貨店に多く出店していたブランドはもろにコロナ禍の影響を受けた。

百貨店もいよいよヤバい。デパ地下はいつも賑わっているが、衣料品のフロアはコロナ禍以前から閑散としていた。我が家には車がないので、百貨店の存在は有り難いのだが、百貨店が服を売らなくなる日はそう遠くないかもなと思っていたものだった。

アパレル製品は需要に倍する過剰供給が止まらず、1999年以降は業界供給量の半分前後が売れ残る異常事態が続いており(中略)生産倉庫の在庫は供給量の枠外だから、過剰供給の実態はもっと深刻だ。(p.98-99)

2020年2月のナショナル・ジオグラフィックの記事「急増するファスト・ファッション、廃棄物は減らせるか?」を読み、フードロス問題同様、衣類廃棄物問題の存在を知り、アパレル業界が気になった。実際に供給量の半分以上が売れ残ることに驚いたと同時に、なぜこんな無駄なことを…と驚くばかりだ。

近年のアパレル業界は過剰供給で収益力が落ちているから、廃棄処分を選択できるアパレルは極めて限られる。「売れ残りイコール廃棄」というイメージはアパレル業界が儲かっていた往時の残像なのだ。(p.107)

しかも悲しいことに、廃棄処分をする体力すら残されていない。自らアウトレットを立ち上げ、それでも売れないものはOPS(Off-Price Store)が二束三文で買い叩いていく。安い服が市場に溢れ、高く新しい服は売れ残り、ダブつく。

ファッションビジネスには相反する二つの理念がある。ひとつは夢を売って付加価値を訴求しようというインフレ志向の「クリエイションビジネス」、ひとつは効率的な仕組みで顧客の求める商品をお値打ち価格で提供しようというデフレ志向の「サプライビジネス」だ。(中略)「クリエイションビジネス」は顧客を限定すれば成り立つが、小さな成功を手にした者は、大きな成功を求めてリスクとコストを肥大させ、いつしか顧客とすれ違うようになる。「サプライビジネス」は顧客を広げないと成り立たないが、事業規模を拡大すれば運営コストが肥大してお値打ち価格での提供が難しくなり、いつしか顧客とすれ違うようになる。(p.200-201)

今後のアパレル業界はどうなるか。環境問題やSDGsを勘案すると本書では、エシカルな「需給一致デフレ・サプライビジネス」に転ずるほかないとしている。

他方で、ハイリスクでギャンブル要素の強い「クリエイションビジネス」も否定しているわけではない。服装やファッションに夢を描いている人は、クリエイションビジネスを指向するのであって、それがないと若く才能のある人は参入しないろう。

実用品よりも美術品としての性格の強い、一点物のオートクチュールのような高級服の市場は今後も存在するだろう。オートクチュールを必要とする大金持ちがどれだけいるのかわからないが、多くのデザイナーを食べさせていけるほどではない。そのファッション大好きな大金持ちをインフルエンサーにして、独自のブランドを立ち上げる、となれば良いが、ビジネス規模を拡大し、流通まで考えるとなると、今のアパレル業界と同じ運命を辿ることになるだろう。

フードロスを極力減らしていくのと同様に、衣類の供給過多を是正していくのは、業界としての正義に当たる。EC、DX、C2Mなど本書ではキーワードが盛りだくさんで、終焉した業界だからこそ新しい取り組みで再生していく芽が出つつある。

食品業界の持続可能性についてはクリーンミート(感想文20-20)で考えたが、本書はアパレル業界の持続可能性について考える重要な資料となった。

衣食住の一つである衣。私たち人間が生きていくために欠かせない要素であり、持続可能性について本気で考えていく対象でもある。

私もいち消費者として持続可能性を意識して行動していきたい。

感想文21-14:フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔

f:id:sky-and-heart:20210531222127j:plain

 

本書の著者は、高橋 昌一郎さん。これまで高橋さんの著作では、知性の限界―不可測性・不確実性・不可知性(感想文10-46)理性の限界―不可能性・不確定性・不完全性(感想文11-26)を読んだことがある。

本書の主人公はジョン・フォン・ノイマン(1903-1957)。ノイマンの名前と顔写真はボケてのお題で使われているので知っている人も多いだろう。お題「コンピュータを発明したとき、ノイマンはこう言いました」→ボケ「コンピュータができた」

人類史上稀に見る天才ノイマンは、数学における「集合論」と物理学における「量子論」の進展に大きく貢献し、過去に存在しなかった「コンピュータ」と「ゲーム理論」と「天気予報」を生み出した。彼の生み出した「プログラム内蔵方式」の「ノイマンアーキテクチャー」がなければ、現代のあらゆるコンピュータ製品はもちろん、スマートフォンも存在しない。(中略)ノイマンは、いわゆる「科学者」や「研究者」の範疇に留まらない「実践家」だった。(p.259)

にあるようにノイマンは、一概に比較できないとはいえ人類歴代天才ランキングで上位に食い込む人物であり、コンピュータを発明し、原爆を生み出し、ゲーム理論という新しい学問分野を切り拓いた。

ちなみに同い年生まれは、エックルス、金子みすゞ草野心平ルー・ゲーリッグ堀越二郎山本周五郎棟方志功小林多喜二小津安二郎。20世紀に生まれ、二つの大戦を挟み、53歳で亡くなっている。

ノイマンは紛うことなき天才だが、よくある天才型人間に見られる人格破綻や精神疾患や異常なまでのコミュ障が同居していない。車の運転が下手でよく事故ったほど不器用だったが、柔和で人当たりがよく、頭は常に高速で回転し、抜群の記憶力を持ち、幼い頃から類まれなる数学的才能を発揮し、広範な分野で数多くの業績を同時並行的に生み出した。

そんな天才ノイマンは本書では「人間のフリをした悪魔」と呼ばれている。

ノイマンの思想の根底にあるのは、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだという「科学優先主義」、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという「非人道主義」、そしてこの世界には普遍的な責任や道徳など存在しないという一種の「虚無主義」である。(p.175)

ノイマンは、京都への原爆投下を強く主張しただけでなく、戦後はソ連への予防戦争(=先制攻撃)を早急に仕掛け、ソ連を滅ぼし、世界政府樹立を夢想していた。

京都に原爆投下されていたら私は生まれなかっただろう。ソ連が滅ぼされていたら、核開発競争は起きていないだろうが、アメリカが完全に地球を支配する世界線になっていただろう。

過激な思想に思えるが、本人はそのことに何の罪の意識も感じていない。そこが「悪魔」と評される所以だ。核兵器開発の際に放射線を浴びたことが原因で53歳で亡くなるものの、ノイマンは人生を大いに謳歌した。

ノイマンは人格破綻者でも精神疾患を発症するでもなく、異常なまでのコミュ障でもない。しかし、思想の根底は悪魔のようであり、先天的に人として大事な何かが欠落していたのか、それとも後天的に削ぎ落としてしまったのか、分からない。

とはいえ、ノイマンのような思想を持つ人はそこまでレアではないように思う。ただ、普通の人間は悪魔性を発揮できるほどの能力を持ち合わせていないだけだ。ノイマンは抜きん出た能力を持っているからこそ、多くの人に愛され、信頼され、大事にされた。

戦没兵士の60%以上は、補給をまったく考慮しない大本営の無謀な作戦によって殺害された。ナチス・ドイツユダヤ人を「大量虐殺」したが、当時の日本の戦争犯罪者は、日本人を「大量虐殺」したのである。(p.185)

ノイマンが開発に関わった核爆弾は多くの人命を奪った。しかし、敗戦国たるドイツも日本も指導者が多くの人命を奪っている。悪魔の所業と言って良い。人間は誰しもが悪魔になり得る。しかし、人間は誰しもがノイマンにはなれるわけではない。ノイマンは特別な人間だ。

ノイマンを「悪魔」呼ばわりしているが、別の呼び名がよりふさわしいかも知れない。「超人」だ。肉体ではなく、頭脳で人類を飛び抜けている。超人的な頭脳が妥協なく導き出した結論は時に悪魔的に映る。悪魔でもなければ導き出せないのではと思えてしまう。

本書では、多くの科学者や数学者が登場する。影響を受けたであろうフリッツ・ハーバー感想文14-14:毒ガス開発の父ハーバー 参照)、放浪の数学者ポール・エルデシュプリンストン高等研究所の創設に携わったエイブラハム・フレクスナー(感想文20-37:「役に立たない」科学が役に立つ 参照)、相対性理論アインシュタイン不完全性定理のクルト・ゲーデルサイバネティックスの提唱者ノーバート・ウィーナーなど。

2つの大きな戦争を生き抜き、多くの天才と呼ばれる科学者や数学者と交流し、その中でもひときわ輝きを放ったノイマン

偉大すぎる天才の思想を凡人たる私は正確に把握できない。しかし、孤独や自らの異常性に苛まれる姿が描かれがちな天才像ではない、天才ノイマンの生涯と悪魔的とも形容される思想を知ることができ、大変面白かった。

人格破綻型天才と接する際には、こいつ天才だから仕方ないなと変に納得しなくて良くなったのが、収穫の一つ。