私は動物が好きだ。初めての海外旅行はケニアで、たくさんの種類の野生動物を間近で見ることができた。新婚旅行はガラパゴス諸島で、ゾウガメやイグアナなどの固有種を見て、ダーウィンの進化論を着想するきっかけを追体験した(気分を味わえた)。
家族旅行では奄美大島に何度も足を運び、珍しい動植物を見たり、シュノーケリングできらびやかで多彩な魚を見たり、釣り上げたり、味わったりもした。
水族館も好きで、池袋のサンシャイン水族館やしながわ水族館などに足を運んだものだ。
でも、動物園はそんなに好きではない。
動物が好きなので、動物園に行くのはやぶさかでないのだが、ケニアで「本物」を見てしまっているので、動物園で飼育されている動物はどことなく不自然な「偽物」に思えてしまうのだ。もちろん、野生状態で見たことのない動物もたくさん動物園にはいるのだけれど、見るのなら本物を見たいなと、これは偽物なのだな、と考えてしまう。
本書は動物園の歴史とその未来を描いた新書である。驚愕の新事実とか目からウロコの大発見とかはなかったし、海外の動物園の紹介は文字ではなく動画で見たいと思った(文章だと限界あるよね)。
とはいえ、本書で最も印象深かったのは、
動物園は、これからのひととそれ以外の生きものの関係をデザインする場になれる。(p.301)
の一文。
10年以上前に旭山動物園に家族で旅行した。当時は行動や生活を見せる「行動展示」を導入したことで注目を集めていた。確かに行動展示は斬新で、動物園はまだまだ工夫の余地がたくさんあるのだなと驚かされたことを思い出した。
動物園ではないけれど、もう一つお気に入りは、板橋区立熱帯環境植物館。熱帯植物が中心だが、魚類や爬虫類の展示があり、こじんまりとはしているけれど、密度の濃いローカルな施設で、熱帯の生態系を屋内施設で再現している。
都会にいて手軽に珍しい生きものを見たいときの選択肢は、動物園、水族館、植物園が考えられる。今では、その3つが独立して存在しているのではなく、陸上動物、水中動物、植物(藻類含む)、さらには微生物まで一体化した生態系そのものを提示しようとしている。
動物の権利運動や反動物園運動も関係しているが、動物が生きている環境それ自体、複数の動植物が棲息する生態系そのものを感じてもらう展示方法が模索されて久しい。
ひととそれ以外の生きものの関係をデザインする場がこれからの動物園の姿であり、動物園というコンセプトの拡張でもある。
本書の最初に、
なじみの世界をはなれて、どこか別の世界へゆきたいという思い。圧倒的な強さをもつ動物たちへの憧れと、彼らを意のままにしたいという野望――そして、それにともなう数々の愚行と、結局「他者」としての動物たちと、いかに向きあうべきかという問い。(p.3)
とある。博物学の時代(感想文09-29:西洋博物学者列伝参照)を経て、動物園が誕生し、大きな戦争を経験し、動物園の形態が変わり、世の中の動物への意識も大きく変わっていった。しかし、動物を意のままにしたいという野望はどうだろうか。
マンモスを再生せよ(感想文18-42)のような脱絶滅は「野望」の最たるものではないか。クリーンミート(感想文20-20)に登場する培養肉も「野望」と密接に関連している。
動物園は人と動物の関係性をデザインする場として機能するかもしれないが、人間は動物それ自体をもデザインしようとしてきた。
欲望や野望の発露として動物園を捉える場合、構成要素たる「動物(生きもの)」と「場」の2つの側面がある。マンモスが復活したら動物園で展示するだろうし、培養肉が主流になればウシやブタが珍重され、展示されるようになるかも知れない。
人間は動物を飼育し、育種し、繁殖させ、間引きし、展示し、観察し、保護し、管理し、捕獲し、運搬し、売買し、駆除し、選び、殺生し、食べ、愛する。勝手なものだ。
生物の多様性は失われつつあるが、種の価値は換算できない(感想文20-44:絶滅できない動物たち参照)。文化圏でも対応が異なる。イルカ(感想文16-04:イルカ漁は残酷か参照)では、双方がひどく感情的になり、問題が拗れてしまっている。
動物園は私たちと動物の関わり方の写し鏡であるとともに、自然との関わりの希薄化によって希求された装置でもある。
関係性をデザインする場である動物園は、人間の野望と不可分であるが、最近の展示方法は好奇心を刺激すると同時に、人間のダークサイドにある本性を巧妙に覆い隠そうとしているように思える。野生を再現したかのような環境で幸せそうに生息する管理下にある動物は、果たして「本物」なのか、「偽物」なのか、あるいは本物以上の本物(ハイパーリアリティ)なのだろうか。
うーむ。一生のうちにマダガスカルで本物を見てみたいなぁ。