40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-31:「私物化」される国公立大学

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私が大学生だったのは四半世紀前。あの頃の大学と大きく変わったと耳にしていたが、本書では衝撃の事実が記されている。

学長中心のトップダウン型経営が国公立大学に何をもたらしたか。七つの大学の荒廃した現状を報告する。

7つの大学とは、大分大学京都大学下関市立大学筑波大学東京大学福岡教育大学北海道大学。私は院生時代を含めると3つの大学にお世話になっているのだが、そのうちの1大学が該当している。

文部科学省(感想文21-23)で書いたように、政府はイノベーション要するに産業(≒金儲け)の方向に大学を行動変容させようとしている。

また、「大学改革」という病(感想文18-08)においても、現場を無視した改革による弊害を描いている。

法人化を契機として、自主的で、「地域社会に開かれた大学」は実現したのだろうか。<中略>答えは「No」である。法人化を契機として国による財政的支配はむしろ強化された。「開かれた」のは政権与党たる自民党や一部の財界人に対してであって、地域住民に対してではなかった。この微妙でありながら決定的な分岐点を形作る装置がガバナンス体制である。(p.3-4)

政権与党と一部の財界人にとって都合の良いように大学は変わろう、変えさせられようとしている。大学の「改革」から一歩進んで、「私物化」と指摘されるまでになった。

大学の「私物化」とは、公的なものであるはずの大学を一部の者が自身や仲間うちの私的な利権のために占有してしまうことである。(p.90)

そして本書のキーワードがガバナンスである。

かつての「大学の自治」は、現在「ガバナンス」という言葉で語られるようになっている。両者の最大の違いは、「誰が」という主体の有無である。(p.64-65)

自治であれば、文字通り、大学教職員が自ら治めるのだが、ガバナンスでは主体は明示されない。結果、大学のトップである総長を選考するルールが変わり、教職員の意向は無視され、大学運営から教職員が排除された。現場無視の改革、しかも自分の仲間たちによる運営、これを私物化と言わずして何と呼ぶだろうか。

日本大学のような私立大学であれば、私物化の素地があり、そうなっても仕方ないけれど、そうならないように監督官庁が指導する仕組みが必要だろう。一方で、国立大学の私物化が先鋭化している。しかも、国が率先して助長しているのだ。

大学があらたな価値創出のために作り変えるべきはまず、「運営から経営へ」という発想そのものであり、そこで必要とされたのは、国と市場に色目を使った「経営」などという言葉に代わる、「コモンズ」としての大学にふさわしい新しい理念の創造だったのではないか。(p.85-86)

コロナ禍で大学はオンライン対応など教育の在り方の見直しに迫られた。こういった緊急事態対応は、権限の集中やガバナンス体制は比較的有効に機能したかもしれない。

しかし、コロナが収まり、SDGsなどの地球規模課題への対応を考えていくと、多くの教職員が知恵を出し合い、協力し、共創する環境整備が求められる。

ガバナンス&経営の発想は、資本主義経済に貢献する民間企業であれば望ましい姿かもしれないが、人を育て、新たな知を生み出す大学にとってはどうだろうか。

コモンズが大学にふさわしい新しい理念かどうかはさておき、限られた人間による私物化は、大学の機能を制限し、歪ませる。そんな大学で育った人間は果たしてどうなるだろうか。