40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文17-30:バッタを倒しにアフリカへ

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※2017年6月27日のYahoo!ブログを再掲

 

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インパクトのある題名。なぜバッタを倒すのか。それは蝗害(こうがい)からアフリカを救うためだ。著者の前野ウルド浩太郎さんは、1980年生まれの若い研究者だ。

本書は、人類を救うため、そして、自身の夢を叶えるために、若い博士が単身サハラ砂漠に乗り込み、バッタと大人の事情を相手に繰り広げた死闘の日々を綴った一冊である。(p.7)

本書は、単身モーリタニアに乗り込み、フィールド調査でサハラ砂漠を駆け巡り、様々な苦難を乗り越えていく、勇気と情熱を与えてくれる本である。

一方で、大人の事情とあるように、研究上の悩みではなく、研究者として生き残れるかどうかその瀬戸際の心情を明け透けに語ってもいる。

バッタとアフリカという観点だけでなく、若い研究者の人生を本人が生々しく描き、苦悩、葛藤、諦観、達観といった移り変わる心理がひしひしと伝わってくる。

前野ウルド浩太郎さんは生粋の日本人である。なぜウルドというミドルネームが入っているのだろうか。

ウルド(Ould)とは、モーリタニアで最高に敬意を払われるミドルネームで、「○○の子孫」という意味がある。(中略)かくして、ウルドを名乗る日本人バッタ博士が誕生し、バッタ研究の歴史が大きく動こうとしていた。(p.83)

受け入れ先であるモーリタニア国立サバクトビバッタ研究所のババ所長にその熱意が認められ、ミドルネームを入れることにしたのだ。本書はタイトルだけでなく、著者名にもインパクがある。

バッタとイナゴは相変異を示すかいなかで区別されている。相変異を示すものがバッタ(Locust)、示さないものがイナゴ(Grasshopper)と呼ばれる。日本では、オンブバッタやショウリョウバッタなどと呼ばれるが、厳密にはイナゴの仲間である。(p.113)

相変異について聞いたことがあるなと思ったら、クマムシ博士の「最強生物」学講座(感想文14-09)で登場していた。バッタとイナゴの違いって相変異で決まるのだ。よって、オンブバッタとかショウリョウバッタはイナゴの仲間であり、バッタではない。虫の世界は面白い。

そうだ。無収入なんて悩みのうちに入らない気になってきた。むしろ、私の悲惨な姿をさらけ出し、社会的底辺の男がいることを知ってもらえたら、多くの人が幸せを感じてくれるに違いない。(p.266)

今時の研究者は、強かさがないと生き残れない。前野さんは自分のキャラ押しで研究者としての道を切り拓くことに成功した。こういったキワモノ的な行動には妬み嫉みの入り混じった批難が起きるのが常だが、何も好き好んでこういう行動を選択したわけではなく、昆虫と同じく生き残り戦略として追い込まれて導き出されたのだと思う。

科学や研究に投入される国家予算が減らされ、イノベーションと称し近視眼的な研究にばかり投資される昨今、研究者が純粋な好奇心だけで生きていくのは大変厳しい環境になっている。過酷な砂漠で強かに生きるサバクトビバッタは、日本の若手研究者にとって良いモデルかもしれない。

幸運にも前野さんは日本で研究職としてのポジションを得ることができ、こうして本を出版することもできた。大人の事情に悩み苦しみ、か細い稜線を踏破し、昆虫学者として確固たる地位を確保している。

私自身、振り返れば、到底研究者になることについては、実現可能性の低さと運要素の大きさを前にして、早々に諦めた口だ。いや、後付けの言い訳は止めておこう。結局は、自分自身にその能力がない上に、そこを乗り切ってでもやりたい研究を見つけることができなかったのだ。

それでも本書を通じて私は勇気をもらった。何か新しいことにチャレンジする。色あせてきているが、年初に誓った思いのはずだ。一歩踏み出す、と。まずはそこからだ。よし、やってみるか。

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(感想文の感想など)

コロナのせいで話題になっていないが、コロナがなければ世界的な大問題としてもっと取り上げられていたであろうサバクトビバッタ蝗害問題。【国際】FAO、サバクトビバッタ蝗害が2021年にも継続と警鐘。追加支援金が40億円必要と試算によると『被害額に換算すると8億米ドル。1,800万人分の食糧が失われた』とのこと。

サバクトビバッタの大群が日本に来てもきっとだいじょうぶだろう。なぜなら前野ウルド浩太郎さんがいるのだから。

感想文17-28:医薬品とノーベル賞

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※2017年6月9日のYahoo!ブログを再掲

 

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炭素文明論(感想文14-11)以来の佐藤健太郎さんの本。会社の後輩に借りて読んだ本。佐藤さんは難しいことを分かりやすい文章で説明してくれる、そんな技量のある貴重な書き手だ。私には、非常にフィットして、読んでいて心地よい。

2015年に、大村智さんとウィリアム・C・キャンベルさんが「線虫の寄生によって引き起こされる感染症に対する新たな治療法に関する発見」でノーベル生理学・医学賞を受賞した。大村さんのことは受賞して初めて知った。自分の不見識を恥じるばかりだ。同時に「マラリアに対する新たな治療法に関する発見」で屠呦呦さんも受賞している。両者ともオンコセルカ症とマラリラという顧みられない熱帯病(Neglected Tropical Diseases)に対する貢献という共通項がある。なぜこれらが受賞に至ったのか、というのが本書の重要な着眼点である。

人間が生活する上で、今や薬は欠かすことができない。病気や怪我をした時に、薬に頼る。薬は、健康を維持し、QoLを高めることに大きく貢献している。

他方で、高額のがん治療薬「オプジーボ」が登場したように、最先端技術が応用されたがん治療薬、再生医療などは、新しい時代の薬や医療の象徴となるのかもしれない。

これまでにない全く新しい薬を作り出すことは極めて困難になっている。しかし、製薬企業はその巨体をごくわずかな商品で維持している。

臨床試験も専門の企業に任せてしまうことが多く、大手製薬企業は権利を買って製品を売るだけ、という医薬が増えてきました。いわば、製薬企業は「製薬」する企業から徐々に「医薬商社」にシフトしつつあるのです。(p.121)

なるほど。医薬商社としての製薬企業かぁ。薬は確かに儲かる。しかし、儲かる薬を生み出すのは非常に難しいし、成功確率は極めて低い。そのため、赤い罠 ディオバン臨床研究不正事件(17-07)にあるように他社製品との僅かな違いを誇大広告するようなことが行われ、臨床試験のデータを改ざんしていた疑いが起きている。

近年のノーベル賞は、貧困の解消や環境問題への貢献が重視される傾向があります。(p.212)

なるほど。真の科学技術の意義とは何か、そのことを改めて考えさせられる。

(オンコセルカ症やマラリラの治療薬開発による大村先生ら)3氏の受賞は、現代の製薬企業の方針に対する、ノーベル賞委員会からのアンチテーゼであったとも受け取れます。先進国の老人たちを数ヶ月長生きさせる薬を創り、何千億円を稼ぐ-そんな医薬創りが、果たして正しい姿なのか?と、問いかけているようにも見えます。(p.212)

辛辣な意見だが、正鵠を射ている。先進国の老人たちを数ヶ月長生きさせる薬。これは確かに製薬企業にとって儲けになるが、果たして何の意味があるのだろうか。世界中には未だ感染症で苦しむ人はたくさんいる。しかし、儲けにならないので、その問題を解決するために研究開発が行われることはない。

ネット環境が整備され、誰もがスマホや携帯電話を持ち、簡単につながり、簡単に情報が共有されるようになった今でも、多くの人はテロや戦争の被害にあい、殺され、飢餓に苦しみ、感染症は克服されない。

科学技術が金儲けの手段となり、その圧力はさらに強くなり、産業連携という名目で儲かる、儲かりそうな研究に強くシフトしていく。

日本はこれからノーベル賞不遇の時代を迎えることだろう。基礎的な研究を疎かにしてきたことの代償であり、国際社会の中での日本の科学技術のプレゼンスは確実に低下するし、実際に低下している。

もちろんノーベル賞が全てではない。しかし、日本がこれからどのような姿勢や考え方で研究開発を国家として進めていくのかノーベル賞委員会からのメッセージは示唆に富んでいて、傾聴に値するだろう。

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(感想文の感想など)

免疫チェックポイント阻害因子の発見とがん治療への応用により、2018年にノーベル生理学・医学賞本庶佑先生が受賞したのは記憶に新しい。

オプジーボはまさに、先進国の老人たちを数ヶ月長生きさせる薬ではあったのだけれど…。がんと免疫については改て勉強したいところ。

感想文17-07:赤い罠 ディオバン臨床研究不正事件

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※2017年2月7日のYahoo!ブログを再掲

 

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今から約3年前の2013年頃にこのディオバンの研究不正問題が大きく取り沙汰された。論文は撤回され、責任著者の京都府立医科大学の教授は辞職した。さらに問題となったのは、製薬会社のノバルティスファーマ社がこの臨床試験に深く関与していたことだ。利益相反であると非難された。

その後、京都府立医科大学だけでなく、東京慈恵医科大学、滋賀医科大学千葉大学名古屋大学臨床試験に関与していたことが明るみとなった。

遂には、利益相反だけではなく、肝心の臨床試験のデータを改ざんしていた疑いが起こった。その結果、

2014年6月11日、高血圧治療薬に関わる臨床研究論文不正に関与した疑いで製薬会社の元社員が逮捕されるという事態が発生した。研究論文不正で逮捕者が出るという事例は、医学界のみならず、あらゆる学問領域において前代未聞の出来事である。

とあるように、ついに件のノバルティスの社員は逮捕されるに至った。判決は2017年3月16日予定なので、現時点では未だ結審していない。真相は未だはっきりしていない。

本書は、ディオバン関連論文について発表当所から内容に疑義を抱き続けてきた高血圧の専門家としての視点、また、日本医師会から推薦を受けた厚労省調査委員会委員としての視点から事件の経緯を整理し、問題点を明らかにしようとするものである。

私は医師でもなく、製薬会社の人間でもなく、今のところ高血圧患者でもない。とはいえ、医学系の大学院を修了し、こういった薬剤、統計、臨床研究の関わりについて関心を持ち続けており、久しぶりに本書を通じて考えてみることにした。

私が大学院生の頃(もう15年も前のことだが…)、EBM(Evidence Based Medicine)がちょうど盛り上がっていた時期だ。医師が勘や経験に頼る医療はもう時代遅れで、エビデンス(根拠)に基づいた医療こそが正しい医療とする考えだ。当然、EBMへの反発は当時あった。

同時代的に分子生物学も盛り上がってもいたのだが、その修士課程のカリキュラムでは医療統計学や疫学を履修し、そもそものエビデンスとは何か、エビデンスの強弱とは何か、妥当性とは何か、エンドポイントとは何か、研究デザインとは何か、こういったことを学んだ。あいにく学んだことを活かす仕事に就いていないので、忘れつつあるのだけれど…。

当時に比べて、随分と医療現場にもEBMが根付いたのかもしれない。しかし、

エビデンスを批判的に吟味することなく盲信してしまう風潮も生まれ、それが今回のディオバン事件の一因となった。

とあるように、EBMが根付いたからこそ、エビデンスを無根拠に信じ込んでしまうことが起きていたのかもしれない。

「種まきトライアル」(seeding trial)とは、企業が新薬の販売を促進するために企画する臨床試験のことであり、いわば研究の名を借りた販売促進手法の一つである。(中略)研究目的に科学的意味はほとんどない。

製薬会社はごくわずかな商品による大きな売上で多くの社員を雇用し、その巨体を維持している。今回のように需要の多い高血圧治療薬では、そのシェアを伸ばそうと苛烈な競争が起きている。

そこで広告宣伝は当然重要となるが、そのウリ文句として言えるような根拠のために種まきトライアルが行われる。これは研究開発ではなく、単なる販売促進でしかない。他社製品との僅かな違いを誇大広告する。こういったことが日常的に行われているのは、ビジネスモデルに起因している。

ディオバン事件は様々な問題点を浮き彫りにした。特に患者のためのEBMが、製薬会社の利益ために歪められ、結果的に患者に不利益をもたらしてしまっているということだ。

処方される患者はその薬のエビデンスまでチェックすることは通常ないし、チェックしたとしてもその原著論文やさらには研究デザインやデータまで吟味することはないだろう。

post-truthポスト真実)やalternative facts(オルタナ・ファクト)という言葉が今の時代を表すワードとして注目されている。科学的な批判に耐えうるような根拠をめぐる戦線は、今後も広がっていくだろう。

欲望と理性の二項対立という単純な図式ではない。今や世界は混沌とし、抱える課題は複雑に絡み合っている。正しく物事を認識するためには、費用も時間もそして覚悟も必要となったということに早く慣れないといけない。

本書の射程から外れてしまい、風呂敷が広がりすぎたきらいがあるが、今の空気は、根拠が、そもそもの科学が標的にされつつあると感じてならない。

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(感想文の感想など)

事件はどうなったか。

2017年3月16日:元社員とノバルティス社に対して無罪判決(東京地裁

2018年11月19日:控訴棄却=無罪(東京高裁)

現在、最高裁に上告し、最終決着はついていない。

感想文14-09:クマムシ博士の「最強生物」学講座

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※2014年2月19日のYahoo!ブログを再掲

 

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著者の堀川大樹さんは、クマムシを専門とする生物学者だ。1978年生まれということで30代なかばの若手研究者だ。私と同い年で少し親近感がわく。

クマムシは聞いたことがある人も多いだろう。ものすごく過酷な環境でも生きられる、地球上で最もタフな生物の一つだ。本書では捕まえ方だけでなく、飼育方法まで掲載された実践的な一冊となっている。

2014年1月24日の日経新聞で『零下196度でも死なないヒルを発見』という記事があった。ヌマエラビルという種類のヒルで、凍結して解凍しても生きているとのこと。

また、2014年1月2日の産経新聞で『“絶食”のまま6年目 三重のダイオウグソクムシ』という記事もあった。6年間も餌を食べないでも生きていられる。世の中は広いもので、人間の常識では考えられないような生物が生息している。調べられていないだけで、まだまだ驚きの能力を秘めた生物がいるかもしれない。

さて、本書で気になった箇所を挙げておこう。

プロフェッショナルの日本人クマムシ研究者は、私を含めて5、6人といったところだ。

少ない。わりと知名度のある生物だけれど、プロの研究者は少ないようだ。意外だなぁ…。

堀川さんが発見したのは、「ヨコヅナクマムシ」という種類のクマムシ。発見したのはいいけれど、そのクマムシを飼育するためにかなり苦労されたようだ。要するに何を食べてくれるか分からないと、死んじゃうので、増やしようがない。

餌もクロレラ工業株式会社の「生クロレラV12」という特定の銘柄のクロレラしか食べない。

マニアックな生物は好みもマニアックだ。どうやら魚の餌らしい。ちょっと銘柄が違うだけで食べてくれないとのこと。

本書では、クマムシだけでなく、最先端の生物学について分かりやすく紹介している。印象的だったのは、人工化合物のクロロウラシルが、DNAのチミンに置き換わった大腸菌が生まれたという話。

今回の研究結果から示されたことは、「生物を作る部品は現存する分子でなくてもオッケー」ということだ。

DNAという生物の基幹ともいえる分子ですら置換可能という事実であり、いわゆるサイボーグ化した大腸菌が現実に誕生している。思った以上に生物は柔軟だ。

それから、初めて知ったこととして、サバクトビバッタの相変異のこと。

個体密度が低い環境では、孤独相とよばれるモードになっている。しかし、個体が密集した環境で生育すると、その子どもは親に比べて飛翔力に優れた形態をもち、群れを作るようになる。体色も、緑色から黒色へと変化する。このモードは、群生相と呼ばれる。 

大量のバッタが畑に飛んできて、食い荒らして去っていくといったことがたまにニュースになる。その犯人がサバクトビバッタだ。群れをなすとモード・チェンジする。ウィキペディアには写真も載っているけれど、孤独相と群生相では、色も違えば顔つきも違う。同一種だとは思えないほどの変わり様だ。こういう生き物もいるんだね。

私は、国に頼らずに十分な研究費を確保する手段として、キャラクタービジネスを提案したい。

ほほう。堀川さんは実際にクマムシさんというキャラクタービジネスを展開している。

確かに可愛い。もふもふしたい。実際の大きさとはずいぶん異なるけれど。

キャラクタービジネスは当たれば大きい。ふなっしーもテレビで引っ張りだこで、関連グッズはたくさん発売されて、結構売れている。とはいえ、既にたくさんのゆるキャラ自治体で製作され、過当競争になっている。巷にゆるキャラはあふれ、飽和状態だ。

それでもキャラクタービジネスは魅力的な資金源となりうる。特許権と同様に当たる可能性は低いものの、そんなに維持管理費用をかけずにビジネス展開できるのは長所といえよう。可愛さだけでなく、ある種のキモさ、際どさといった他にない魅力をアピールできるとブームになるかもしれない。国に頼らない研究費の稼ぎ方を模索するというのは、何とも現代の研究者らしい。

しかしながら、得てしてキャラクター性が強いのは、生み出されたクマムシさんではない。生み出した堀川さんご本人だろう。本書では、堀川さん以外にも生物学者が登場するが、どの方もキャラが濃い。世間的には変人と分類されることだろう。

キャラクタービジネスへの展開を推奨するのは、ご自身や付き合いのある研究者を投影した結果なのかもしれない。ポストさかなくんになれるか。今後の動向が楽しみだ。

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(感想文の感想など)

今現在、堀川さんはポストさかなクンにはなっていない。別に目指していたというわけでもなかろう。研究者によるキャラクタービジネスは私の知る限りでは進んでいるとは言い難い。

むしろクラウドファンディングを活用したり、(私はあまり知らないが)ユーチューバーとして研究費を確保している方がいるのではないだろうか。

国から基礎研究への投資は減少傾向にある一方で、国以外から研究費を集金する仕組みやアイデアはまだまだたくさんある。マジメに科研費を獲得するために書類を作成するのも良いが、拘らなければやりようはあると思う。別の道も、そりゃあ、大変だけどね。

2021年新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

ずいぶん遅い新年の挨拶ですみません。

2年連続で実家に帰ることなく、新年を迎えました。昨年は長男の受験のため、今年はそう、コロナ禍のせいです。

2020年はあまり思い出深い出来事がありません。長男の小学校卒業式の謝恩会で司会をしたことくらいでしょうか。大きなトラブルなく務めを果たせてホッとしたのを覚えています。

仕事ではオンラインセミナーで司会をしました。司会ばかりだな。司会業が好きなわけではありませんが、やる人がいないので、好むと好まざるとにかかわらずお鉢が回ってくる役回りです。

バスケはそこそこできましたが、久しぶりにぎっくり腰(軽度)をやらかし、季節の変わり目は要注意ってことを再認識しました。もう若くはありません。

ゲームは昨年末にSwitchでダビスタを購入し、実に四半世紀ぶりに熱中しましたが、重大なバグが修正されないのでしばらくは放置するという決断に至りました。不条理に勝てないのは仕方ない(ダビスタあるある)にせよ、重大なバグは早く直してよと正規価格で購入したユーザーは願うばかりです。

それからP5S(ペルソナ5 スクランブル ザ ファントム ストライカーズ)も楽しくクリアしましたが、こういう無双系のアクションゲームは老眼が進行しつつあるおじさんにはキツイものがあります(だからダビスタ買ったんだよな)。ストーリーがご都合主義的な展開ではあるものの許容範囲であり、ペルソナファンとしては十分に楽しめる作品でした。個人的にはSwitchでP4Gがしたい。Steamに移植したんだったら、Switchにも移植してよと強く願うばかりです。

あと、桃鉄も買いました。長男と次男の地理の勉強にもなるというもっともらしい理由で購入しましたが、まだあまり遊べてません。慣れてくると、運ゲーではなく、カードを駆使し、リスクを排除した嫌らしい戦いになるので、家族間であろうと人間関係が悪化するのは必至なのです。

あと、昨年はSwitchインディーズゲームを数本購入しました。コロナ禍と自粛と(おおよそ4月以降)で紹介したゲーム以外だと『world for two』。音楽が美しく、懐かしい感じのドット絵がノスタルジックでした。ゲームそれ自体は単純ではありますが、静かにそっと心に何かを残してくれる優しさを感じました。

6月以降、私には在宅勤務が向いていないことが判明し、できる限り出勤するようにしています。長男と同じ方向なので、一緒に家を出るようになり、お互いに昼食が必要なので私がほぼ毎日お弁当を作るようになりました(作りたくない日は長男は学校でお弁当を購入)。そんなにレパートリーはないものの、主菜と副菜の組合せを工夫すれば、飽きずに食べれるお弁当を作れるようになったと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、こうしてブログを再開したというのが2020年で最も大きな変化だったように思います。ただただ未来の自分が読み返すためだけに書いている文章ですが、ごく稀にコメントを残してくださる方もいらっしゃるので、それを励みにして今年も感想文が中心となるでしょうが、書いていきたいと思います。

それでは、恒例(このブログでは初)の2020年の面白かった本ランキングを発表します。

第5位:ピアノの近代史(感想文20-22)

私はピアノをひけませんが、日本のピアノ産業の歴史について書かれた本書を大変面白く読ませていただきました。ヤマハとカワイの成り立ち、経営の在り方、音楽教室への発展など、考えさせられることがたくさんありました。次男がピアノを習っていなければこの本を読むことはなかったでしょう。

 

第4位:日本が生んだ偉大なる経営イノベーター小林一三(感想文20-43)

高橋是清後藤新平に加えて、私が尊敬する人に追加された小林一三。久しく関西に帰ってないので、阪急電車にも乗っていません。東宝鬼滅の刃特需で業績が上方修正されました。最近ではSLAM DUNKも映画化されることがニュースとなり(鬼滅の刃の二番煎じ扱いされるのは些か心外ではありますが)、バスケ界隈は盛り上がっています。しかし、こちらは東宝ではなく東映のようです。また、SLAM DUNK時代からルール(例えば、前後半制→クオーター制など)もコートのライン(例えば、ゴール下が台形→長方形など)も大幅に変わっており、そのあたりはどうするんだろうと気になるところです。

 

第3位:相分離生物学(感想文20-27)

昨年、最も刺激を受けた生物学の本です。分子と細胞を架橋する「何か」についての学問であり、何度も唸りながら貪るように読みました。知的好奇心がビシビシ刺激され、ここからさらに新しい「何か」が生まれてくる、そんな予見があるのだけれど、うまく説明できないもどかしさと自分の能力不足に気付かされました。。

 

第2位:インドの鉄人(感想文20-31)

半沢直樹どころではない、グロボーな資本主義社会での、痺れる巨大買収劇。舞台は鉄鋼業界。主役はインド人。ちょっと古い本ではあるけれど、とてつもなく面白いです。自分の人生と関係ないことに興奮できてしまうのだから、本はありがたい存在ですね。

 

第1位:ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀(感想文20-30)

昨年、出会った中で、最も知的興奮を覚えた本。私有財産=独占=悪という考えは、極めてラディカルですが、リーズナブルでもあります。経済学の分野がますますこれから面白くなりそうだなと強く感じさせてくれました。そして何より、意外と未来は明るい、そう思わせてくれる本でした。幾つになっても良い本に出会えるのは、とても嬉しい経験ですね。

 

今年はどんな年になるだろうでしょうか。バカボンのパパよりも年上になり、体の衰えを隠すことはできません(隠してもいません)。昨年末で私が主導するプロジェクトが終了し、次に挑戦することが現時点では定まっていません。

何か始めてみようかな。何が良いかな。

今年もよろしくお願いします。

感想文18-29:経済学者、待機児童ゼロに挑む

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※2018年8月8日のYahoo!ブログを再掲

 

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待機児童が社会問題化して久しい。もともとは匿名ブログの過激なタイトルだったが、2016年のユーキャン新語・流行語大賞のトップ10に「保育園落ちた日本死ね」が選ばれたことも話題になった。いかにも扇情的な言い回しで、そこまでバズったとも思わないが、待機児童問題が解消されていない現状へのシンパシーから、少なからぬインパクトを残したことは確かだろう。

私には息子が2人いて、2人とも保育所にお世話になった。恥ずかしながら白状すると、「保活」は完全に妻任せで、私はほとんどタッチしていない。妻の努力のおかげで、認可の私立保育所に通うことができた。先生方には大変お世話になったし、同級生の親たちとは今でも交流が続いている。

長男は4月生まれのため、翌年度に0歳児として入園できた。しかし、次男は2月生まれなので、翌々年度に1歳児として入園するほかなく、結果的に我が子2人は1年間のみ別の保育所に通うことになった(当時、長男は年長)。きょうだいだと点数が高くなるのだが、それでも1歳児枠は狭き門だった。系列とは言えそれぞれの保育所への送り迎えしなくてはならず、かなり苦労したことを覚えている。雨の日とかは特に悲惨だった。

そんな息子たち2人は晴れて卒園し、小学生になった。すっかり自分たちの問題ではなくなったため関心の薄れた待機児童問題について、経済学者が挑んだというタイトルに惹かれて気になって本書を手にとってみた。

長男が入園した頃とは違い、ミクロ経済学を学んだ今となっては、経済学がいかに世に役立てる学問かを知っているので、難解な待機児童問題にどう切り込み、どう解決するのか、ワクワクしながらページをめくっていった。

日本の保育は社会主義だと考えれば、待機児童という形の良い「行列」に並ばなければならないことも納得でしょう。我々は、お上から保育サービスの「配給」を受けているのであり、配給量が足りなくて待機児童が発生する仕組みになっているわけです。(p.69)

待機児童問題の根本原因は、社会主義的な制度であるということだ。極めて明快であり、解決策もはっきりしている。にも関わらず、解決できない。なぜなら既得権益が存在するからだ。

重要なポイントは、待機児童がいる方がむしろ認可保育所にとって好都合だということです。待機児童問題が解消されてしまっては、既存の認可保育所はこれほど楽な経営ができません。(p.90)

誰が既得権益を受けているか。それは認可保育所であり、特に公立の認可保育所だ。公立の場合、職員は地方公務員であり、給与が高く、高コスト構造であり、公費依存体質になっている。他に既得権益を受けているのは、既に保育所を利用している親たちでもある。私たち家族自身も既得権の受益者だったのだ。

既得権の受益者が、保育園の新規参入を阻止し、超過需要を維持する。それによって、未来を担う乳児たち、そして子を持ちながら働きたい親に苦労を強いさせる。さらには子どもをもうけようという意欲を削ぐこともあるだろう。制度や仕組みを変え、市場に任せる状態にすることが望ましい。

著者の鈴木亘さんは、大学教授であり、アカデミアの世界にいながら、実世界の問題解決に多くの労力を費やしている。こういう方がもっと増えれば良いと強く願うし、そのためにもミクロ経済学は全国民に必修の学問にして欲しい(できれば世界規模で)。そうすれば、既得権益層を守る社会主義的な政策を出すような政治家、役人、それを擁護する論調のメディアは早々に退場するだろう。

まだ時間はかかるかもしれないが、待機児童問題は解消される兆しがある。価格規制を撤廃し、競争原理を働かせ、民間による新規参入が増えている。特に0-2歳児の保育は大きな需要があり、本来であれば大きなビジネスチャンスと言える。社会主義的に行列に並んで配給を待つような仕組みは愚かであり、コネや賄賂が介在しやすい素地にすらなる。なぜ現代の日本でこんな仕組みが維持されるのか理解に苦しむ。

本書を読んで、小池都政を少し見直した。希望の党のすったもんだがあり、すっかりネガティブなイメージが定着してしまったが、東京都の待機児童問題に対する取り組みは正しく機能していると評価できる。是非、鈴木先生のような方をブレインとしてどんどん活用して欲しい。

世の中がようやく変わりつつあるように感じる。私を含むロスジェネ世代を境に、社会主義的な政策を支持しなくなってきた。さらに若い世代は、毛嫌いすらしているのではないか。

皆が皆でないものの、いよいよ社会主義はダメだということが、議論の余地なく決着したことを若い世代ははっきりと悟ったのだろう。社会に必要なのは自由と競争と協力であり、参入障壁や価格規制や補助金ではない。

まだまだ社会には多くの問題がある。解決策は既得権益と規制の突破ということに等しい。個人的には、労働、年金、社会保障だ。いずれ解決して欲しいし、そういう政策や政策を提案する政党を強く支持したい。

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(感想文の感想など)

2019年10月1日から幼児教育・保育が無償となり、認可保育所などの利用料が無料となった。それは良いことだなと思った方はご用心。この施策は決して褒められたものではない。

本の著者である鈴木亘さんによる以下の記事が大変参考になる。
www.nippon.com

かく言う我が家は正社員共働きであるため、保育の必要度の点数が高く、息子2人は認可保育員でお世話になった。つまりは、「強きを助け、弱きをくじく」倒錯した政策の恩恵を受けたと言える。その時はそんなことを考えもしなかったのだが。

未だに日本ではポピュリズム的なバラマキ政策で人気を得ようとする政治が続いてしまっている。いつになったら、ちゃんと経済学からの知見を活かし、より良い社会をつくることができるようになるのだろうか。

感想文18-05:トラクターの世界史

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※2018年3月17日のYahoo!ブログを再掲

 

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トウガラシの世界史(感想文16-21)以来の○○の世界史というタイトルの本。都会で生活しているとあまり馴染みのないトラクターが主役という珍しい本。

そういえば、大学の農場実習でトラクターを運転したことを思い出した。免許は持っていたがペーパードライバーだった私にとって、ゆっくりとではあるが力強く動くトラクターを運転することのは、わりと楽しかった記憶がある。

とりわけ重要なのは、牽引力のエネルギー源が、家畜の喰む飼料から、石油に変わったことである。トラクターの登場以降、農業はもはや石油なしには営むことができない。石油がなければ、わたしたちは食べものを満足に食べることができなくなったのである。(p.ⅱ)

実感することはほとんどないが、私たちは確実にトラクターの恩恵を受けている。トラクターがなければ、大規模な農業を達成することはできないし、化学肥料がいくら発展してもそれを刈り取ることはできないのだ。

ラクターと戦車は、二つの顔を持った一つの機械であった。トラクターも戦車も、産声をあげて100年を経過したばかりの、20世紀の寵児なのである。(p.ⅳ)

本書で最も刺激的だったのが、このポイントだ。トラクターと戦車はテクノロジーとしては双子のようの存在なのだ。とはいえ、まだ100年しか歴史がないため、本書のタイトルにあるような「世界史」と名乗るほど射程の広いテーマとへ言えない。しかし、

ラクターがいない20世紀の歴史は、画竜点睛を欠くと言わざるをえない。(p.10)

とあるように、確かにトラクターについて歴史的な観点から語られては来なかったことを鑑み、こうしてトラクターにスポットライトがあたる本書の試みはなかなかに面白いだろう。

本書では、イギリスの産業革命から始まり、ロシア、ドイツ、中国、アメリカ、日本と近代史におけるトラクターの位置づけとその思想的背景について丁寧に描かれている。

本書が明らかにしたのは、機械の大型化に向かう「力」は、けっして大企業の一方的な力などではなく、農民たちの夢、競争心、愛国心、集落の規制、大学の研究、行政の指導と分かち難く結びついた網のようになっており、だからこそ、根強く、変更が難しいのである。(p.240)

化学肥料とトラクターが農業の大規模化を実現したのだが、それはテクノロジーがあったからということだけではなく、国が、集落が、農民が、その実現の夢を見て、競争があり、連携があり、そして農業社会を変えていったといえる。

さて、トラクターはここからどういった発展を遂げるのだろうか。例えば、トラクターの自動運転という技術がすでに実用化に向かいつつある。AIやIoTという言葉が人口に膾炙し、農業の世界にもその波が押し寄せつつある。

ロボットが人間が摂取するに必要な栄養素を供給する農作物を自動で収穫する。このことは大規模農業と地続きになっている、まさに「夢」である。

しかしまた、双生児として世に生み出された戦車が同様の技術が適用され、自動で人命を刈り取る装置として実現してしまえば、それはまた「悪夢」となってしまう。

なるほど。トラクターの技術開発動向や目指す方向性について考えるということは、今後の軍事産業についても重なっていくのかもしれない。

久しぶりにトラクターを運転してみたい。だだっ広い広大な土地をトラクターで耕し、農作物を収穫する。学生時代はそんな人生も良いかなと考えていたのにな。

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(感想文の感想など)

1本5000円のレンコンがバカ売れする理由(感想文20-13)で書いたけれど、トラクターの自動運転・操舵を含むスマート農業は、苦労からの開放による農業のコモディティ化あるいは低価格化と言える。

農業を「効率的で、容易に新規参入できて、しかも儲かる」産業へと変えたいという思いは分からなくもないが、自然と生き物を相手にするのはそんな生易しいものではないと思う。農業してない私が断見できる根拠はないのだけれど。