40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-24:在野研究ビギナーズ

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在野研究っていう言葉に何とも言えない甘美な響きがある。あえて悪し様に言えば、権威主義に凝り固まった政治家と変わらないアカデミア人たちに、真っ向から学問で反旗を翻す在野の研究者。そんな構図を思い浮かべる。

本書は現役で活躍中の15人の在野研究者たちよる、研究生活の実践と方法をおのおのの体験のなかで論じてもらった編著である。(p.4)

今回取り上げられた15人は十五人十五色で、十五把一絡げにすることはできない。研究分野も年代も生きてきた足跡がそれぞれ異なる。

本書を読み終えて思い浮かべたのが、アウトサイダー・アート入門(感想文16-06)だ。在野研究者の多くはきちんとした大学教育を経てなお、大学には残らず、本業は別にあって、空いている時間を活用して研究している人たちだ。よって、在野研究者は研究の世界のアウトサイダーと言える。当然、インサイダーは大学や公的研究機関に所属している研究者ということになる。

とはいえ、アートの世界にインサイドもアウトサイドもない。線引きすることはできないし、線引きすることに意味も見言い出せない。誰しもが表現者足り得るのがアートだからというのが理由になる。

では研究はどうだろうか。メンデルやメアリー・アニング(感想文09-35)のように、アウトとインの線引きはできない。線引きができるとすれば、研究成果だけであろう。それが真なのか偽なのか。とはいえ、この線引きも短期的にはできないこともある。巧妙な研究不正で包まれる場合もあれば、当時の技術では間違って解釈されても仕方ない場合もあろう。人間がすることなので、厳格な反証主義かて万能ではない。

私自身がほとんど理解できていないためだが、いわゆる文系の研究(これももちろん多様である)の真偽はどのように判断されるのだろうか。論文掲載の仕組みが違ったり、ピア・レビューが無いような分野もあるやに聞いている。長い時間をかけたとしても真偽がはっきりしない、あるいははっきりさせようのない真偽よりも、作法や流派に重きを置かれる場合もある。

さて、本書について2つの側面から考えてみたい。1つは大学という存在だ。

本書の表紙に「大学に属してませんけど、なにか?」とあるように、大学に属していない研究者のことを在野としている。純化すると4つに分類できる。①大学教員の研究者、②在野研究者(大学教員でない研究者)、③大学教員の非研究者、④大学に教員でない非研究者(ほとんどの人たち)。

ジャーナルへのアクセシビリティや研究費獲得で在野研究者は大学教員よりも不便だったり不利だったりする。しかし、気ままに好きな研究ができて、教授からアカハラパワハラを受けたり、学生教育や大学の雑務といった業務から開放されるメリットもあろう。

教育学者の山本哲士さんはこう言っている。

僕が言いたいのは、既存の大学には一切可能性はない。あなたたちでどんどん別な自由な大学つくりなさいって話。(中略)自分たちで大学をつくる責任もとらないで、持ち時間が潰される、そんな寝ぼけたことを言っているから駄目なんですよ、そういうふうに不能化させているのが国家資本なんです。(p.199)

山本哲士さんのことはさっぱり存じ上げてないが、なかなかに強烈なキャラクターをお持ちだと言うことは分かった。「大学改革」という病(感想文18-08)にあるように、今の大学は疲弊している。その根本原因は国家資本で経営しているからだ。新しい大学を作れというのは、国家資本との訣別を意味している。

「在野」は「在朝」との対比で用いられてきた。朝廷にフォーカスを当てた場合、それ以外の場所は「野」であるという構図だ。在野とは朝廷との関係にもとづいた相対的な分類概念であることに注意されたい。(p.112)

国家資本が投下されている大学に属している研究者は、在朝研究者だ。先ほどの山本さんが言っていることは、要するにみんなが在野研究者になれということだ。

もう一つの側面として「知」について考えてみたい。

研究を通じて、新しい事実や解釈の発見が生まれる。これらを「知」と呼ぶことにしよう。論文になったり、あるいはネットで公表されるなどして、それは知識(あるいは情報)として伝播する。在野研究者という枠に収まらない人たちが知の生産に貢献している。質の高い知を生産するのは確かに難しいかもしれないが、生まれた知を多くの人に知ってもらうことは、現代社会では難しくはない。

人間の身の丈をはるかに超えた情報環境は、今後もますます拡大してゆくだろう。そうしたなかで、いかにして研究する者として正気を保つか。これこそが以前にも増して真剣に検討すべき課題になりつつあるのではないだろうか。つまり、なにが専門であれ、自分が現在もっているごく限られた知識-そうであることが否応なく思い知らされる時代でもある-を使っていかにして適切に研究に取り組めるか。これは、在野の研究者はもちろんのこと、専門の研究者にとっても他人事ではない。(p.123)

現在進行系のコロナ禍で知識と情報が氾濫している。どの情報が正しいのかさっぱり分からない。テレビをつければ感染症に詳しい専門家がコメントしている。感染研出身の大学教授だったり、WHO事務局長上級顧問だったり、病院経営者だったり、専門家会議メンバーだったりと、肩書だけを見たら信用できる!ってなる人がたくさん登場するが、言っていることが違う。それぞれの見解があって、統一しないのは仕方ないし、それはそれで健全だなと思うけれど、そこから自らが取捨選択して行動するのには無理がある。

知性の限界―不可測性・不確実性・不可知性(感想文10-46)のように、一個人が処理できないほどの情報があって、個別にも体系的にも知と呼べるものかもしれないが、その知も暫定的で限界があるし、さらにそこから正しく知ることにも限界がある。「お湯が新型コロナウイルスを殺す」みたいなはっきりしたデマですら見抜くのが難しいのに、検査が足りないとか、アビガンが効くとか、手洗いうがいが大事とか、BCG接種してたら感染しにくいとか、集団免疫があれば大丈夫だとか、もうお腹いっぱいなのだ。

大量の情報を浴びると、都合の良い情報しか見えないようになる。当然、私もそうだ。科学の狭量さを批判し、市民の選択を尊重するファイヤアーベントの主張は崇高ではあるが、ゴメン無理やでというのが正直な気持ちだ。

随分飛躍したのでそろそろまとめていきたい。

結局のところ知を生産するために、国家資本を投入された大学は必須ではないし(むしろ国家資本と訣別した知の生産の場を設けることが重要)、生み出された知は情報となり容易に伝播することができるが、あっという間に大きな情報の海に希釈され、その知が正しく伝わることもまた期待できない。

それでは研究という活動は一体なんだろうか。情報が氾濫し、知の限界を実感する今、知を生み出す研究の意義はなんだろうか。研究の意義とは人間が人間であるため、つまりは存在価値に関わるのではないだろうか。知りたいという好奇心によって研究が行われる。そこから生み出された知を他者がどう利用しようが、本来的には生産者のハンドリングの埒外だ。

表現したいという人間の根源的な欲望がアートとなるように、知りたいという根源的な欲望が研究を駆動する。しかしながら、欲望は肥大し、歪む。制御困難であり、人間の業の発露という側面も忘れてはならない。

大学が低迷していく中で、在野研究者という存在は、今後、ますますハイライトされるだろう。本書では誰しもが研究者になれるという希望を描いている。知に対する敬意は失われ、権威は喪失している今、知の復権は在野研究者にかかっていると言っても過言ではない。知の復権が望ましい未来なのかはわからないのだけれど。