40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文18-46:フィラデルフィア染色体

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※2018年10月30日のYahoo!ブログを再掲。

 

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ウィキペディアによると、フィラデルフィア染色体とは、『慢性骨髄性白血病および一部の急性リンパ性白血病に見られる染色体の異常。22番染色体と9番染色体間での転座によって、c-ablとbcrという遺伝子が融合し、異常なタンパク質を生じる。造血幹細胞を無制限に増殖させるようになる。』とある。

感想文を書く前に、自分のために、まずは用語を簡単に整理しておきたい。白血病は「急性」と「慢性」に大別できる。急性白血病は、がん化した細胞が急激に増殖するので、またたく間に命を奪ってしまうことがある。有名人では、夏目雅子本田美奈子アンディ・フグ、漫才師カンニング中島忠幸らが犠牲になっている。

本書では急性ではなく、慢性、 つまりがん化した細胞がゆっくりと増殖する白血病に対する治療薬の開発について描かれている。その中でも慢性骨髄性白血病で見られる「染色体」が「転座」する現象である、フィラデルフィア染色体が本書のタイトルとなっている。

じゃあ、「染色体」とは何か。DNAとヒストン(タンパク質の一種)で構成される巨大な複合体であり、細胞分裂の際に色を染めると観察できるので、染色体と名付けられた。染色体という命名は、DNAが発見されるよりもずっと前のことだ。ヒトは、23ペアの計46本の染色体を有している。うち22ペアは男女同じだが、残る1対は性染色体(XY:男性、XX:女性)となっている。ちなみにニワトリはZW:メス、オス:ZZでヘテロがメスなのだ。性染色体それ自体、面白い話がたくさんあるのだけれど、脱線するのでこの辺にしておこう。

染色体異常は病気と関連する場合がある。例えば21番染色体が3つあるとダウン症になる。性染色体の増減による病気もある。他方で、常染色体の増減は致死的なケースが多いので、死産となってしまい、そもそも生まれてこないパターンがほとんどだ。

では、「転座」だが、早い話が染色体の一部が入れ替わってしまう現象のことだ。入れ替わったとしても、DNAの情報の総体それ自体は同じなので、影響のない場合もあるが、フィラデルフィア染色体の場合、入れ替わる場所が影響して、慢性骨髄性白血病を引き起こす。

転座はDNAの総量に影響しないが、タンパク質の発現に変化をもたらす場合もある。結果的に病気の原因になる場合もあるかもしれないが、何かしら表現型(見た目)に影響を与えることがあり、転座が種の分化を促進するという説があるくらいだ。いかん。また話がそれた。

本書は、慢性骨髄性白血病CML)と呼ばれる希少疾病の原因−フィラデルフィア染色体−の発見・解明から、特効薬−グリベック−の開発・上市までも半世紀にわたる歴史をつまびらかに追った、医療ノンフィクションである。(p.357)

 訳者あとがきにこのように書かれている。新薬誕生―100万分の1に挑む科学者たち(感想文08-66)でも登場したグリベック。世界初の分子標的薬であり、慢性骨髄性白血病の患者でない私でも知っているほど、非常に有名な薬だ。

ちょうど本庶佑先生のノーベル生理学・医学賞受賞があり、がん治療薬が話題になっていて、そう言えばこの本を読んだことないなと思い至り、読んでみたのだった。

本書は医療ノンフィクションであるが、射程は医療にとどまらない。科学史的経緯を踏まえて基礎的な分子生物学を丹念に描いており、ある程度知識があったとしても読み進めるのは難しい。理系の修士号を持っている私でも難しかった。

フィラデルフィア染色体は、bcrとablの一部が結びつく転座だった。この融合遺伝子が、融合タンパク質を作っていたのだ。(中略)この融合タンパク質は、活性を増したチロシンキナーゼとなっていたのだ。(中略)継続的なリン酸化が、白血球の過剰産生をもたらすシグナル伝達経路を刺激する。(p.117)

CMLは、転座→融合遺伝子→融合タンパク質→キナーゼ(リン酸化酵素)→白血球の過剰産生という流れで起きる。この機序が分かるまでに、多くの研究者による地道な研究の積み重ねがあった。

しかし、グリベックとして上市されるまでには、苦難が待ち受けている。ポイントは2つある。1つはこれまでにない全く新しいタイプの薬であるという点。もう1つはCMLは希少疾患であるためマーケットサイズが小さいのでビジネスとして旨味がないと経営陣が判断したという点だ。

Bcr/Ablは「腫瘍遺伝子時代の低い枝に生った果実」なのだと彼は言った。希少疾患なので、CMLマーケティングの観点からは魅力に欠けることはわかっていた。(中略)しかしつながりが明確なので、このキナーゼは治療の原理を証明するには格好の標的となりえた。(p.154)

CMLは希少疾患であり、当時は不治の病だった。しかし、病気の機序は解明されていた。分子標的薬は非常に有望だった。患者からは強く望まれている薬だった。

STI-571は、細胞株の研究が終わって3年近くも、また初期の毒性研究と企業合併からはおよそ2年も、前臨床試験の状態のままだった。キナーゼ阻害のプロジェクトは1984年に始まっていた。リード化合物は1990年までに合成されていた。それから7年経っても、まだフェーズⅠの臨床試験は始まっていなかったのである。(p.218

 リード化合物が合成されてもなお、臨床試験を始めることができなかった。開発していた製薬企業が合併し、社長が交替し、マーケットの小さい希少疾患の薬について、莫大な資金のかかる臨床試験を開始するという決定はなかなか下りなかった。

ここで本書の主人公的存在であるブライアン・ドラッカーの執念が開発を前進させる。グリベックの場合、人を動かしたのは、科学的整合性でも事業性でもなかった。CMLを治療する薬を世に出すという、一人の人間の強い執念だった。

一つの画期的な薬が世に出るまでのストーリーはワクワクさせると同時に、グリベックですらここまで苦労するのかと愕然ともした。しかし、勇気をもらった。諦めず、信念を持って取り組めば、いつかは道が拓けるのだ。きっと。

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(感想文の感想など)

地道な基礎研究がこうして薬となって多くの人命を救うというストーリーには胸を熱くさせられる。

とはいえ、リン酸化が未だにちゃんと理解できてないんだよな。

感想文13-40:イノベーションとは何か

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※2013年7月3日のYahoo!ブログを再掲。

 

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ネットでは有名な池田信夫さんのご本。ネットでの言説は読んだことがあったけれど、こうして書籍を読んだのは初めて。本書はイノベーションについて分かりやすく説明してくれている。

仕事上、イノベーションについて考える機会が多く、これまでも色々と本を読んできた。本書は特段の目新しさはないかもしれないけれど、日本人が日本の具体的な現象について踏み込んでいるので、より現実味を持つことができて面白い。

気になった箇所を挙げておこう。

顧客の要望を聞くマーケティングで成功した商品はほとんどない。それは顧客は既存の商品を前提にして生活しており、その枠を超えるものを開発するインセンティブがないからだ。

イノベーションのジレンマ(感想文10-29)でも似たようなことが書かれていた。顧客の要望を聞いて開発すると持続的イノベーションになってしまい、気がつけば破壊的イノベーションに市場を奪われてしまう。

必要なのは、既存の組織のなかで「発想を転換する」ことではなく、まったく別のフレーミングをする変人が、最後まで自分の思い込みを実行できる環境をつくることである。

本書のキーワードの一つがフレーミングだ。自己解釈で説明すると、何か物事を判断する際に一定の範囲(フレーム)があって、その範囲を超える問題については対処できないし、かといって無限に広げることもできない。組織の中だと同じフレームで考えてしまって、結局イノベーションにつながらないってこと。

イノベーションは多くの場合、既存の技術を改良する持続的イノベーションを破壊するのではなく、フレーミングを変えて新しい市場を発見するのだ。

フレーミングを変えるという理屈はわかるけれど、それを実行するのは難しい。人間は固定観念から逃れることは難しいし、勝手に文脈を読み取ってしまうからだ。だからこそ変人が必要で、組織においては鼻つまみ者なのだろうけれど、その組織の発展には欠かせないので、ある程度自由に野放しにする度量が必要なのかもしれない。

科学の理論が帰納から生まれるのではなく科学者の直観から生まれるように、イノベーションを生むのも統計や分析ではなく才能だから、それを作り出すハウツー的な方法はない。

まあ、きっとそうだろう。そう考えると科学者に自由を与えるとイノベーションが起きるのかもしれない。まあ、結局はビジネスにならないとけいないので、科学者にとって最適な環境は、イノベーションを起こす変人にとっても良い環境になりうるってことかな。

ここからは、〈反〉知的独占(感想文13-17)にも関係する知財権の話題。

著作権は、他人の複製を禁止し、その表現を拘束する点で、憲法に定める自由を侵害するものであり、その範囲は最小限度に抑制すべきである。

特許権について本書は深堀りしてなくって、著作権について紙幅を割いていた。著作権が幅を利かせすぎることへの非難は少なくない。

著作権とは、政府公認の独占なのだ。こういう政策は有害であり、例外的に許されるのは電力やガスなどの「自然独占」の場合だけだ。

なかなかに辛辣なご意見で、私も同調しないでもない。政府公認の独占といえばそうだけれど、条約もあるので、なかなか日本だけが著作権による独占(比較的緩いけれど)を止めるってわけにもいきそうにない。一度作り上げられた制度を壊すのは既得権益との戦いがあり、時間がかかるだろう。

シュンペーターは、新古典派経済学の想定しているように無数の企業が限界費用と等しい価格で商品を売る「完全競争」では、イノベーションは生まれないので、一定の独占は必要悪だと主張した。この仮説は多くの経済学者が実証的に検証したが、その結果は否定的なものが多く、「シュンペーターの逆説」と呼ばれる。

こちらも〈反〉知的独占(感想文13-17)で言われていることと同じだ。独占がなぜダメか。その理由は死荷重を生み出すからだ。独占できないから研究開発できないというのは、実証的には示されていない。この点は、今後さらに議論が活発になるだろう。

それからその他のこと。

ガラパゴスは「変化に敏感に対応する進化」ではなく、「変化の圧力が弱いために生き残った特殊な進化」なのだ。そのひ弱な種が、(中略)強力な「外来種」との競争に生き残れるかどうかはわからない。

ガラパゴス携帯、略してガラケーだなんて言われていて、ずーっと違和感があった。日本で独自の進化を遂げたので、海外では売れないという話だけれど、それってどこがガラパゴスと関係があるのか。独自の進化は何も悪いわけではない。新婚旅行でガラパゴスに行ったことのある私からするとちょっと見過ごせないのだ。

ところが池田さんは違った視点を示してくれた。「変化の圧力が弱いために生き残った特殊な進化」というのだ。変化の圧力っていう言葉については違和感はあるけれど、まあいい。外来種に弱いというのは正しいだろう。

ガラパゴス諸島には固有種がたくさんいるけれど、動物の楽園というわけではない。島が新しいこともあり、緑は少なく、火山の噴火も耐えない。動物が暮らしていくのに必ずしも良い環境というわけではない。

でも、のんびりしたイグアナが生きていけるように、外敵が少ないし、食べ物を奪い合う競合相手もいない。そんなところにタフで食欲旺盛な別の動物が入り込んだら生き残れないかもしれない。

日本の携帯電話はどうだろうか。ガラケーは意外と生き残っている。iphoneによって駆逐されたというわけでもない。とはいえ、海外に持っていっても全く生き残れない。動物園とか博物館のような珍しいものとして展示されるのがお似合いだろう。

うーん、ガラパゴスになると饒舌になってしまう。本書はイノベーションについて関心のある人は一読の価値がある。表現がやや過激なところがあるけれど、それは個性というか持ち味として読者に受け入れてもらうしかないかな。

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(感想文の感想など)

イノベーションを起こすやり方についての言説は、①戦略的に起こせる、②一部の天才が起こす、③起こしやすい環境は作れる、の3つにざっくりと分けられると思う。もちろん、イノベーションなんて存在しないとか、偶然でしか起きないとか、他にもあるけれど。

どれも正解なのかもしれない。一部の天才(あるいは変人)を一定数、許容する社会を作って、自由に研究させて、新しい市場を作り出していくという戦略を考える。

どうなんだろうか。イノベーションを起こしたいという熱意のある人はいるのだろうか。そうではなくて、世界を変えたいとか、本質を知りたいとか、そういうことに熱を持てるんじゃなかろうか。それが結果的にイノベーションと呼ばれるようになったのではないだろうか。

感想文12-22:希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想

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※2012年4月24日のYahoo!ブログを再掲。

 

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絶望の国の幸福な若者たち(感想文12-14)に続く、古市憲寿さんの本。こっちの方が古いので、時系列的には遡って読んでます。

ピースボートについて書かれた珍しい本。ピースボートとは、よくお店とかの壁に貼ってある99万円で世界一周できるツアーだ。99万円で世界一周できるっていうのは格安で、なかなかに興味がそそられる。若ければ行ってみたいなと思ったかも知れない。

気になる箇所を書きだしてみよう。

ピースボートが日本社会のある部分を濃縮したような空間だと感じたからだ。ピースボートを通して見えてくるもの。それは、今を生きる若者の問題、不安定雇用の問題、組織の問題、旅の問題、自分探しの問題と様々だ。僕は特に「コミュニティ」と「あきらめ」というキーワードと共にピースボートを考えてみたいと思った。

ふむふむ。コミュニティとあきらめっていうのはあんまりピンと来ない組み合わせだ。だからこそこのテーマが本になったのだろう。

彼ら(※希望難民)のために必要なこと。それは「希望」の冷却回路の確保だと思う。つまり希望難民化した若者をあきらめさせろというのが本書の提案だ。

若者に必要なのはあきらめ、って若者が言う。日本は自由な国になったものだ。皮肉ではなくって、良い意味で。

本書の主張が「若者よ、あきらめろ」ではなく「若者をあきらめさせろ」というのがポイントだ。それは、僕が「あきらめられない若者」ではなくて、「あきらめさせてくれない社会」という構造を問題にしているからである。

あきらめたいのにあきらめさせてくれないっていうのは確かにキツい。「あきらめたらそこで試合終了だよ」という有名なセリフに対して、「もう試合終了したいです」と言わせてくれない状態が今の社会にはあるのかもしれないし、若者から見るとそう捉えられるのかも知れない。

「共同性」が「目的性」を「冷却」させてしまうのではないかというのが本書の仮説である。つまり、集団としてある目的のために頑張っているように見える人びとも、次第にそこが居場所化してしまい、当初の目的をあきらめてしまうのではないか、ということだ。

ふむふむ。コミュニティには、特有の気持ち悪さと居心地の良さがあるよね。個人的にはコミュニティなるものがあんまり好きになれない。Facebookとか流行っているからしているけれど、いいね!とかいう相互承認の文化はどうも腑に落ちない。

ちょっと本書のメインでもあるピースボートについても挙げてみよう。

見事なくらいに今や旅は「商品化」され、「制度化」されてしまった。

確かにね。行き当たりばったりの旅っていうことはあんまりないかも。バックパッカー用の宿もあるし、これだけネットが発達していると、電源さえ生きていればなんとかなる。もはや制度化っていうより電子化された感かな。

1960年代末の若者との違いは、自己の存在確認が政治運動ではなく、「地球一周」という「制度化」された「新・団体旅行」に向かったという点だ。

これも面白い発想だと思う。自己存在確認としてのピースボート。こういうことを若者が指摘すると、団塊の世代の方たちは激怒しそうだ。

若者たちの語りから見えてくるのは、ピースボートが決して人生を変えるような劇的な体験ではなかったということだ。(中略)「世界」はあくまでも背景であり、異国での「大交流」は自分たちの感動を彩るための舞台装置にすぎなかったことになる。

そうなんだよね。この本が書かれた頃よりもさらに先鋭化しているような気がする。制度化し、電子化され、承認が得られるツールができている。ウェブに載せるのは当たり障りがないけれど、インパクトのあること、っていうので制度化された旅はぴったりのアイテムだ。

ピースボートという「承認の共同体」は、社会運動や政治運動への接続性を担保するどころか、若者たちの希望や熱気を「共同性」によって放棄させる機能を持つと言える。

結局は誰かに「いいね」って言ってもらいためのネタ探しになってしまっているんだろう。社会運動や政治運動って当たり障りがありすぎて、「いいね」文化に馴染めないんだ。

下品な言い方をすれば、希望難民たちは「現代的不幸」に対してムラムラして(衝動や感情を抑えきれないこと)ピースボートに乗り込み、目的性を冷却させた結果、「村々する若者」になったのである。(中略)「ムラムラ」を「村々」へ再編成する装置がピースボートなどの「承認の共同体」なのである。

なかなかに論理的なことを書いているようにも思えるし、全く否定はしないけれど、そんなに上等なものでもないと思う。承認の共同体ってやっぱりどうも不幸な感じがする。どこにも行き着かなくって、ずっとホバリングしている感じ。うまく言えないけれど。

目的性のない共同体には入らない方が良いっていうのはぼくの直感だ。このことについてずいぶん昔、って若者だった時代におじさんと論争したことがある。だから今でもバスケ以外のコミュニティは作ってない。

「共同性」による相互承認が社会的承認をめぐる闘争を「冷却」させる機能を持ってしまうからだ。(中略)「承認の共同体」は、労働市場や体制側から見れば「良い駒」に過ぎない。このことを、「若者にコミュニティや居場所が必要だ」と素朴に言っている人たちは、どのくらい自覚しているのだろうか。

これは面白い指摘だ。相互承認が社会的承認を冷却させてしまう。社会的承認の分かりやすい例が結婚だと思う。結婚しない(できない)人は、相互承認のツールにハマっていると思う。どこかのアイドル好きのコミュニティがあったとして、それはやっぱりアイドルが好きなんじゃなくって、アイドルが好きな自分が好きで、それをお互いに承認しあっているだけの関係に思える。

でもそれが悪いってことではない。そういう生き方もあるし、そういう幸せもあるだろう。ただ、そういうベタベタした関係性がぼくには肌が合わないってことだけだ。

メリトクラシーが壊れた社会で、それなのに「夢を追うことの大切さ」が繰り返し言い立てられる社会で、若者を「あきらめさせる」必要性はますます増しているように思える。その解決策の一つがまさに「コミュニティ」であり「居場所」なのだ。

あきらめとは何なのか。どういう状況なのか。ってこれって夢って何だっけと思うことと同じだし、ぼくはすっかりおじさんになってしまっているのかもしれない。

相互承認で満足すると、社会的承認が不要になるっていうよりも、社会的承認が得られないから、相互承認に逃避するというのが正直なところではないだろうか。承認への欲求は現代において強い。それは得難いからだ。

正社員になること、結婚すること、子どもを授かること。そのうち全てを手に入れることができた人は非常に幸運だと思う。不幸なのは自分たちの親の世代はそれらを得てきたということだ。今はその昔当たり前だったことが得られない状態になっている。だから社会的承認ではなく、簡単に得られる相互承認へと走る。

ピースボートからずいぶん遠いところに来てしまった感がある。電子化した相互承認の文化はどこへ向かうのだろうか。人と会って話すこと、それ自体が貴重となり、目的化するような時代になるのかな。

うーん、考え過ぎな気がしてきた。まあ、はっきりしていることは、ピースボートには乗らない方が良さそうってことかな。

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(感想文の感想など)

バスケ以外のコミュニティとして息子のサッカーチームが新しくできた。コミュニティは居心地の良さを感じることもあれば、人間関係の煩わしさを感じることもある。

読み直すと、自分自身が若者から大きく離れてしまったことに気付かされる。

感想文12-14:絶望の国の幸福な若者たち

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※2012年3月26日のYahoo!ブログを再掲。

 

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もうぼくは若者ではない。

結婚し、子どもが生まれ、役職も与えられ、部下がいる。年長者からはまだまだ若造扱いされるけれど、さすがに若者という認識はない。

若者とバスケをすることがよくある。バスケのあとはよく一緒に飲む。草食系とか覇気が無いとか生きる気力がないとかゆとり世代とかまあ世間では批判的に言われる。

しかし、若者の多くは親切で、合理的で、近しい友人や家族を大切にする。人の悪口や文句を言わず、素直で、優しい。そして多様だ。自分についてもそうだけれど、特定の世代をひとまとめにするのは無理がある。すでに自分の息子の世代ですらそう思う。保育園では1学年に1人はハーフの子がいる。自分の世代では考えられなかった。人種(という幻想)ですら画一でない。もう○○世代と呼ぶのはやめにした方が良いだろう。

前置きが長くなってしまった。著者の古市憲寿さんは、何と1985年生まれ。現在、26歳。若い。いや~若い。一若者からこういう意見が出されるっていうのは良いことだと思う。そしてタイトルが良い。本の売れ行きはタイトルで決まる。こんな絶望的な国の日本でどうして若者が幸せなんだろう。

せっかくなので印象に残った箇所を挙げていこう。

現代の若者の生活満足度や幸福度は、ここ40年間で一番高いことが、様々な調査から明らかになっている。(中略)日本の若者の7割が今の生活に満足しているのだ。

ほええ。こんなに就活が厳しく、非正規雇用でいつクビが切られるかもわからず、給料も少なく、ストレスばかりだろうに。まあ、今思うと、ぼくも若い時代(20代)は別にその状況に絶望はしてなかったかな。

若者に広まっているのは、もっと身近な人々との関係や、小さな幸せを大切にする価値観である。

それはよく分かる。若者って家族とか友人が大事だよね。若者の歌う歌詞にもよくでる。だから幸せなの?いやそうじゃないみたい。

将来の可能性が残されている人や、これからの人生に「希望」がある人にとって、「今は不幸」だと言っても自分を全否定した事にはならないからだ。逆に言えば、もはや自分がこれ以上は幸せになるとは思えない時、人は「今の生活が幸せだ」と答えるしかない。

現状を否定したくないから逆説的に幸福だと表明する。

人は将来に「希望」をなくした時、「幸せ」になることができるのだ。

これは恐ろしい。絶望を植えつければ幸福が実現する。ぎょえぇ。若者が今幸福ですという背景にはさらに悪くなるかも知れない予感が含まれているんだ。

僕は幸せの条件を、「経済的な問題」と「承認の問題」の二つに分けて考えていることになる。

ほうほう。「幸せって何だっけ」というCMがあったなぁ(知っている時点で若者ではない)。簡単に言うと、お金に余裕があること、そして誰かから必要ですって言われること。

貧困は未来の問題だから見えにくい。承認欲求を満たしてくれるツールは無数に用意されている。

ふむふむ。本当に生活が苦しくなるのはもうちょっと先だろう。若い時代にはそんなにお金は必要でないものだ。そして、SNSとかで簡単に誰とでも繋がるし、すぐに「いいね」って言ってもらえる。そういう観点からすると7割の若者はまあ幸せなのだろう。

しかし、残りの3割にはものすごい不満がどろどろと底流しているんじゃなかろうか。それが時として秋葉原や広島で無差別的な悪意として発生する。経済的にも行き詰まり、誰からも承認されない。そういう状況で辺り構わず負のエネルギーを発散する人間が出てくるんだろう。

一人一人がより幸せに生きられるなら「日本」は守られるべきだが、そうでないならば別に「日本」にこだわる必要はない。だから、僕には「日本が終わる」と焦る人の気持ちがわからないし、「日本が終わる?だから何?」と思ってしまうのだ。歴史が教えてくれるように、人はどんな状況でも、意外と生き延びていくことができる。

若者は存外ドライになりがちだけれど、これについてはぼくも賛同する。別に間違っちゃいない。物心ついた頃から日本は低迷していて、世界では存在感がなく、日本を意識するのはせいぜいワールドカップやオリンピックの時だけ。借金は増えるばかりで、未来に希望なく、国に期待はしていない。そこそこの幸せを守れればそれでいいし、それしか望んでいないのだから愛国心なんかを求められては困る。

日本には期待していない。だから私たちにも期待するな。これが本心じゃないだろうか。

震災で日本が一つになったというのは幻想だ。はっきりしたのは未来にさらにお荷物が増えたということだ。奪われ押し付けられる側にとって、その土地で生きることは必ずしもその国を守ることを意味しない。

関係性が希薄になり、幸せの範囲が狭まり、未来を望まない。そういう人間が多数になった時、つまり年老いた時に、若い世代にどういうことを言うのだろうか。国は信用するなとか言うようになるんだろうか。

様々な変革が世界各地で起きようとしている。日本では血が流れるような変革はないだろう。静かに淡々と国の力を弱めていくことは変革に繋がるかもしれない。希望があるから絶望もあるのだ。未来を望まない若者は絶望をせずにすむ分、幸福なのかもしれない。

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(感想文の感想など)

若者の幸福論。私の子供たちは幸せそうだけどなぁ。

感想文11-16:無縁社会―“無縁死”三万二千人の衝撃

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※2011年4月29日のYahoo!ブログを再掲。

 

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このブログでは過去にも「死」に関するテーマを頻繁に取り上げてきたように思う。

死について興味があるというわけではない。現代は死から隔離されているので、死を意識しないと生の意義が乏しくなるから、こうして繰り返し取り上げているように思う。

死にまつわる数字には強烈なインパクトがある。

  • 日本の解剖率は2%。
  • 年間3万人の自殺者。

そして本書で、日本の死の現場で、新しい数字が付け加えられた。

  • 年間3万2千人の無縁死。

自殺者とその数は重なる部分も多いだろう。具体的な実数が把握されていなかった孤独な死者の存在が本書によって明らかになってきた。そして同時に、孤独な死の背景を調べることは、非常に難しいことも分かってきた。

本書で知った言葉がいくつかある。1つが、「行旅死亡人」。ウィキペディアによると

飢え、寒さ、病気、もしくは自殺や他殺と推定される原因で、本人の氏名または本籍地・住所などが判明せず、かつ遺体の引き取り手が存在しない死者を指すもので、行き倒れている人の身分を表す法律上の呼称

とある。

行旅死亡人は官報掲載される。本書は、そのわずかな情報から、孤独に亡くなった人がいったい誰でどういう人なのかを突き止めようとするところから始まっている。この世と縁の薄い行旅死亡人の存在に注目したという意味で、本書は画期的だった。

もう1つは「直葬」。産地直送とは違って、お葬式を挙げずに、直接火葬される場合をいう。行旅死亡人だけでなく、一人暮らしのお年寄りが、自分が亡くなったら直葬にして欲しいと、生前に葬儀屋と契約している場合があるそうな。

本書は元々はNHKの特集だった。ぼくはその番組を見ていないけれど、視聴者はツイッターで自身の孤独さと重ねあわせて色々とつぶやいていた。そのつぶやきを追って、さらに若い世代が感じる無縁社会についても調査していた。

結婚率が下がり、出生率が下がっている中で、無縁死の予備軍となっている人は少なくないだろう。

携帯電話、メール、ブログ、ツイッターSNSなど誰かとつながりを持てるツールはたくさんある。簡単に誰かと連絡を取れるし、誰かの行動を知ることができる。地震が起きたときのように、緊急時に生存しているかどうかを確認することができる。

とはいえ、それでも孤独感に苦しむ若い人は少なくない。孤独の歌声では、『テクノロジーの発展はつながりの無さと孤独の距離を縮めた』と書いた。つまり現代は、日常のつながりが無い≒孤独なのだと。

一方で、思い違いもしていたようだ。『テクノロジーによって孤独感は軽減されつつある』というのは間違いだ。

いくら携帯電話でメールのやり取りをしても、ツイッターでつぶやこうとも、SNSで情報交換しても、孤独感は軽減されていない。むしろ強化されているかもしれない。孤独な人同士のつぶやきは、孤独さを紛らわすどころか、かえって増強させてしまうのではないか。

ツイッターなどのテクノロジーが悪いということではなくて、つながりを生み出す装置が孤独感を増幅させてしまうという、パラドックスが現代の抱える困難さの一つではないだろうか。

家族の規模が最小になり、その家族すら持たない(持てない)人たちが増えている。社会制度そのものが個人をバラバラにする方向へ仕向けている反面、つながりを生み出すツールが溢れている。手頃で簡便なヴァーチャルなつながりは、強烈な孤独感と表裏一体だ。

無縁死は孤独感の象徴であり、終着点だ。

乾いて砂粒化している個人が、無縁に怯える。一瞬の潤いを与えるツールはあるが、すぐに乾いてしまう。砂を土に変えるために、何が必要なのだろうか…。

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(感想文の感想など)

孤独死という言葉が人口に膾炙し、その後に本書の無縁死という言葉が生まれた。そして高齢化社会と言われるようになって久しいと思っていたら多死社会に突入したと言われるようになった。

そう遠くない終活。明るくハッピーに人生の幕を閉じたいのだけれど。

感想文10-80:生殖医療と家族のかたち

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※2010年10月22日にYahoo!ブログに掲載したものを再掲。

 

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著者の石原先生とは、以前、仕事の関係で何度もお会いしたことがある。現場の産科婦人科医として明瞭な主張があり、そして、本書で示されているようにスウェーデンでの生殖医療の調査を行うなど、海外の状況にも明るい医師だ。

スウェーデンの生殖医療の現状について詳しく書かれた一般書はこれまでなかった。どちらかというと高福祉高負担型のモデル国として取り上げられることが多い国だ。

日本人にとってスウェーデンへの馴染みは薄い(と思う)。スウェーデンに行ったことのある人は人口の5%もいないだろうし、ノルウェーフィンランドとの位置関係を正確に言える人はこれまた5%くらいだろう(たぶん)。

ところが、1年を通して最もスウェーデンが取り上げられる時期がちょうど今からちょっと前。そう、ノーベル賞だ。最も知名度の高いスウェーデン人は、ラーションでもイブラヒモビッチでもなく、ノーベル。

さて、本書では生殖医療っていうか、知られざるスウェーデン社会について色々と書かれているので、ちょっと気になった点をまとめてみよう。

ふむふむ。ヨーロッパでは事実婚の仕組みが充実しているということは聞いたことがあるけれど、日本で言う非嫡出子がマジョリティっていうのは、なかなか驚き。それで連れ子と一緒に生活しているのも珍しくない。

同居はしているけれども遺伝的な親子関係のない父親を、「ボーナスパパ」と呼ぶことがある。

だそうな。当然、ボーナスママとか、ボーナスチルドレンというのもある。「連れ子」とか「継母」とかよりはポジティブな印象を受ける。こういうネーミングひとつで、日本では多様な家族形態が推奨されていないのが分かる。

もはや日本における「核家族」数の比率は、減少の一途をたどっています。実は、現在の日本のもっとも標準的な家庭は、一人で住む「単身家庭」であるといってよい状況になっていることは、あまり知られていません。

ふうむ。ホント、そんな感じになりつつあるよね。家族どころか個人をバラバラにしている。孤独、孤立、孤食、お一人様。とはいえ、人間は一人で生きることなんてできやしない。そういう風に設計されていない。砂のように乾いてしまった個人のつながりを取り戻すことは、新しい価値を生み出すかもしれない。

ちょっと話が逸れてきたね。印象に残った文章を書き出してみよう。

「家族が欲しい」という思いは、必ずしも「遺伝子を引き継ぐ」子どもが欲しいということと、ことによると最初から完全に一致してはいないのかもしれません。むしろ、これまでの不妊治療、特に生殖医療が「遺伝子を引き継ぐ」思いの強化装置として機能してしまった可能性があります。

なるほど。こういう風に考えたことがなかった。代理懐胎で子をもうけたことで有名な向井亜紀さんは、「高田の遺伝子を残したい」といったようなことをその動機として挙げていた。ちゃっかり自分の遺伝子も残しているのはさておき、まさしく代理懐胎という生殖医療が遺伝子を引き継ぐ強化装置として機能してしまった好例だろう(本件については代理懐胎でなくとも遺伝子を残す方法はあるのだけれど)。

その結果、遺伝子を残す思いが強化されてしまった現代において、遺伝子を残せなかった人の悔しさも同じく強化されてしまっている。まあ、生殖医療の発展だけでなく、「利己的な遺伝子」といった昨今の生物学的な読み物の影響も少なくないと思う。

そのほかに、

日本とスウェーデンで、現在、大きく出生率が異なっている理由は、日本の女性が、子どもを持つ年齢を遅らせているということだけではありません。(中略)子どもを持たないという積極的選択、あるいはなんらかの理由により子どもを持てないという消極的選択が、コンスタントに行われているという以外には説明の方法がないのです。

そもそも人口が少ないので、単純に比較することは難しいけれど、スウェーデン出生率は1.9で、日本は1.3。いよいよ日本は人口が減少し、賦課方式の年金が崩壊するカウントダウンが始まっている。子どもを産めという掛け声は遠く、虚しく響き、子どもは増えない。

生殖医療にやたら費用がかかるとか、助産師がマッチョな思想で無痛分娩を否定するとか、生まれてもあずかってくれる保育園がないとか、会社に子育て支援の仕組みがないので辞めないといけないとか、色々と制度的な問題はあるかもしれないけれど、費用対効果的に子どもを産み育てるためのお金が無いというのがホントのところなんではないだろうか。

実家が裕福でない場合、少なくとも教育費だけで1千万円かかると言われているのだから、いきなり負債を1千万円抱え込むことに等しい。若い世代は自分たちの生活で精一杯なのに、遺伝子を残す余裕なんてない。ある程度、年齢を重ねると給与が上がり、遺伝子を残す経済的なゆとりが生じる頃には、生殖能力が落ちている。それで生殖医療を受けるとなったら、これまた多額の費用がかかる。

生殖医療によって家族の形が変わると言われて久しい。でも、実際には家族を持てなくなる状況に日本が追い込まれている。家族の形が変わる以前に、家族の絶対数が減ってきている。移民を受け入れることについて議論はあるけれど、家族が欲しいという思いをないがしろにして、移民受け入れを進めても、きっとうまくいかないだろう。

本書のスウェーデン像から学ぶ点は多いはず。しかしながら、物事は単一のモデルを軸にして動かすことはできない。人口が減少していく日本において、どういった社会の仕組みが適切なのか。初めて直面する事態なので、試行錯誤し、苦しみながら、システムを設計していくことになるだろう。

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(感想文の感想など)

2019年6月17日の日経新聞によると、2018年の出生数は91.8万人、出生率は1.42とのこと。出生数は減っているが、出生率は緩やかに回復しているらしい。

かたやスウェーデンは1.85でそこそこ高い。でも2を超えていないので、人口は徐々に減少していく。ちなみにお隣の韓国の出生率は0.92。1を切るのは珍しい事例。

感想文10-68:アカデミック・キャピタリズムを超えて アメリカの大学と科学研究の現在

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※2010年9月10日のYahoo!ブログを再掲。

 

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産学連携と科学の堕落に続く、イノベーションに関連する本を読む企画第4弾。

4冊目にして初めて日本人による著作。企業に軸足をおいたイノベーション関連本が多い中、本書はアメリカの大学の視点から丁寧に産学連携について書かれているという点で、ユニークといえる。

アメリカの大学における科学研究の歴史を立体的に把握することができ、多様なインセンティブによって複雑になっている産学連携の現実を知ることができる。

3冊目の産学連携と科学の堕落(感想文10-44)にある、「行きすぎた産学連携は、大学が公共の利益のために科学を行う機会を喪失する」というややドライな結論に、一定の反論を示している。両者は、利害相反といった産学連携の負の部分を取り上げているが、本書ではアメリカの歴史を深く分析し、産学連携への悲観的な考えを否定している。例えば、

80年代に急速に発展した科学研究の市場化や大学の商業化への批判的な論者の多くが描く知識生産のモデルは、結局は伝統的な科学の共同体の議論へと戻っていくようである。

とあるように、悲観論者の主張は、ヴァネヴァー・ブッシュ(18901974)が築き上げた神話の時代への回帰に思える。その神話とは、

科学は純粋な基礎的研究であり直接的に社会に役に立つものではなくとも、やがては応用的技術へと波及し、企業にとっても一般大衆にとっても、おおいなる利益を生みだす

というものである。戦時中に作られたこの神話は、今の日本でも十分に威力がある、というよりも完全に信じこまれている。この間行われた科学への事業仕分けに対する批判のほとんどは、この神話(プロパガンダ)に基づいている。

さて、本書というか、アメリカの大学のキーワードは、パトロネッジ(patronage)に集約される。早い話が、研究費をどこから調達してきたかという苦闘が、アメリカの大学の歴史を形作っている。

どの時代においてもアメリカの科学者は、理想としての科学研究を遂行するために、常にどこにパトロネッジがあるのかを念頭におき、パトロンとの緊張関係のなかで政治的駆け引きのゲームを繰り広げてきた。

ヨーロッパの大学とは異なる、反知性主義(知識を一部の特権階級が独占することへの批判)、反エリート主義、科学と技術は分かちがたいという思想、実利性、実践性、マーケット志向は、アメリカの大学の根底を成している。このことを無視して、現在のアメリカの大学を語ることはできないと、著者は主張する。

なかなか整理が難しい。ちょっと自分の言葉で、アメリカの大学の変遷を描いてみよう。

19世紀末:アメリカの科学の黎明期。ヨーロッパのような学問のための学問じゃなく、産業につながるものにしよう。州立大学、私立大学が多数誕生。

戦中・戦後:基礎研究の神話ができる。国からの莫大な研究費が投入される。有能な人材がこぞってアメリカに来る。知識は公共財とみなされ、その考え方を経済学者は支援。基礎研究の天国だけど、ヨーロッパへの肥大した憧憬ともいえる。科学の帝国時代。軍事研究も盛ん。

70年代:基礎と応用の二元論に批判。基礎から応用そして産業というリニアモデルが成り立たないことが明らかに。このことは科学者への人類学的アプローチによる。公的資金は急減。大学は別のパトロネッジを探すことに。

80年代:バイ・ドール法が成立するなど、プロパテント政策へシフト。大学は産学連携を強め、資金を確保する。60年代に国が投資したバイオ研究が花開き、パテント収入が潤い出す。

現代:生命科学と特許戦略とうまく噛み合うが、同時に、アンチコモンズの悲劇を引き起こす。つまりは、知識(さらには遺伝情報までも)の私有化が進み、それに反発して国家(主として途上国)が介入するようになる。

まあ、こんな感じかな。とはいえ、正直なところ、特許と所有の関係については、あんまり理解できていない。遺伝情報での特許の問題にあるように、ここはまだ議論が尽くされていないのだろう。人体の所有権も同じような関係にあるのかもしれない。突き詰めれば、特許も所有もどちらについても、どこまで国家が介入するかということになる。すなわち、政治哲学的課題になってしまう。

そのほかに、産学連携についても国家との関係は切り離せない。

これから弱い大学は潰れていくのは目に見えているが、生き残る術として必ずしも産学連携が選択されていくようには思えない。なぜなら、財産を有した年配の富裕層をターゲットにしたカルチャースクール化の方が現実的だからだ。結果、知識を生産するという大学の基本的な機能を失ってしまうかもしれないけれど。

大学は、知識を生み出す、このことについて改めて問い直す時が来ている。そして、公共財としてだけでなく、様々な形態の知識が、多様なインセンティブと組み合わさって、また新しい知識を生み出していく。

一方向でなく、双方向で、循環する知識生産モデルが求められているが、知識を生産する機能それ自体が低下している日本の大学の現状において、アメリカの特異的な事例を表面的になぞっても、参考にならない。

大学で生まれる知識に、もはや基礎研究と応用研究の垣根などない。古典的なアカデミアの知と、実践的な知を区別する根拠もますます希薄になっている。

そういう状況において、基礎研究へ投下される公的資金の減少をなげくのではなく、科学技術の間に・(ポツ)を入れることに躍起になるのではなく、新しいパトロネッジの探索を模索した方が意義があるだろう。

とはいえ、日本の悲哀は、官から逃れられないことにあるように思う。行政改革ができない限り、大学の状況は変えにくく、日の丸親方的発想の産学連携が進むだけで、知識は生産されないのではないだろうか。

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(感想文の感想など)

日本の科学は、公的資金、民間企業資金以外のパトロネッジを見つけることが急務だ。

クラウドファンディングSDGs投資くらいしか思い浮かばないのだけれど。

「知」あるいは「知を生み出す可能性」に市場は形成されるのだろうか。