40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文17-04:下町ロケット2 ガウディ計画

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※2017年1月28日のYahoo!ブログを再掲

 

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下町ロケット(感想文11-59)の続編。久しぶりに池井戸潤さんの小説を読んだ。

前作は原作を読み、ドラマを見た。中小企業である佃製作所で奮闘する経営者の姿と、小説では珍しい特許紛争が描かれていることが印象的な作品だった。本作もドラマ化されたが、原作を読んでなかったので、あえて見なかった。今は無性にドラマを見てみたいんだけれど…。

本書のガウディ計画とは、新しい人工弁の開発のことで、佃製作所が得意とするバルブシステムのノウハウが活かされる新規事業だ。

本書では、社会問題としてバイスラグを取り上げている。Weblio辞書によると『海外で開発された最先端の医療機器が、日本で承認されるまでに生じる、時間の遅れを意味する語』とある。

なぜその時間差が生じてしまうのか。本書では2つの原因を挙げている。一つが許認可側である行政の怠慢の問題。事なかれ主義の役人が安全性を過度に確認するため審査期間が長くなってしまうというもの。

もう一つが、メーカー側の意欲の問題。医療機器で問題が生じた場合に対処しきれないので開発に取り組まないというもの。

バイスラグは今もなお日本で大きな問題となっているかどうかについて、あいにく私は見識を持ち合わせていないが、適切な審査時間と安全性確認が両立できるところを目指すほかなく、そのための補助金や審査員の強化など、行政もメーカーも両者が行動を変えるインセンティブが必要だろう。

本書で印象的だったのは、経営者である佃航平の成長ぶりだ。修羅場を越えてきたためか、人として経営者として一回り大きく成長したように思える。こういう人の下で仕事ができるのは幸せなことだろう。

そして、医療機器が世にでるためにはたくさんの壁があるということも思い知らされた。産学連携、医工連携、規制と許認可、医師と患者、組織間の調整、研究開発能力、事業化、資金。一つでも歯車が狂うと、頓挫してしまう。非常にか細く険しい道を渡りきれるのは極めて幸運な事例であり、情熱とか思いがなければ進むことはできないが、情熱や思いだけで踏破できるほど甘くはない。

「仕事に夢がなくなってしまったら、ただの金儲けです。それじゃあつまらない。違いますか」

これは佃航平のセリフだ。仕事には夢が必要だ。

池井戸潤さんの小説らしく、心の奥に灯火を点けてくれた。小さな温もりかもしれないけれど、今年は佃航平のように前向きにひたむきに生きたい。

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(感想文の感想など)

PMDAの資料によるとデバイス・ラグにおける審査ラグは解消されているらしい。

また、医療機器業界の成長性、将来性、医療機器メーカーランキングによると、日本は米国に次ぐ2番目に大きな医療機器市場である一方で、シェアは低く、21位のオリンパス、22位テルモ、27位Hoya、29位ニプロとなっている。日本の医療機器分野は輸入超過であり、ビジネスの構造上、寿命が伸びても儲かるのは残念ながら外資というのが現実だ。

感想文21-06:「人新世」の資本論

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サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃(感想文20-46)に続く、人新世についての本。わりと話題の本らしく、興味深く読ませていただいた。あえて大事なポイントを最初に書いておこう。

本書の主張は「脱成長」である。

無限の経済成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが、「自由の国」を拡張し、脱成長コミュニズムという未来を作り出すのである。(p.276)

未来永劫、右肩上がりに経済成長するなんてありえない(と誰しもが知っているはずな)のに、経済成長を金科玉条とし、様々な政策が実行されてきた。日本では経済成長を否定する政治家や政党もなければ、そもそもの選択肢もない。ましてや経済が成長しているのかどうかすら怪しいばかりか、格差は広がり、気候変動は激しくなり、感染症でパニックになり、いよいよ21世紀序盤で世紀末感が漂い出している。

2020年12月策定の「2050年カーボンニュートラルに伴うグリーン成長戦略」では、

『温暖化への対応を、経済成長の制約やコストとする時代は終わり、国際的にも、成長の機会と捉える時代に突入したのである。』と書かれている。

温暖化対応は成長のチャンスだ!と、勇ましい掛け声の遠吠えは、経済産業省が策定者なので致し方ないのかもしれないが、どこか鼻白んでしまう。二酸化炭素を資源として活用する技術や、二酸化炭素を排出せずにエネルギーを生み出す技術の開発への投資が予見されるが、その研究開発と経済成長のリンクが本当に正しい道なのか、これまで議論されてきたとは言い難い。

「経済成長を諦める」をマジメに議論する論点として認識されていないし、経済成長しない≒人類滅亡的な考えに囚われている方も多いと思う。私自身も囚われているうちの一人だ。

地球環境の破壊を行っている犯人が、無限の経済成長を追い求める資本主義システムだからだ。そう、資本主義こそが、気候変動をはじめとする環境危機の原因にほかならない。(p.117)

この指摘はかなりラディカルではあるが、温暖化対応と経済成長は同時に達成できないとする主張はうすうす多くの方が直感的に知っていたのではないだろうか。

持続可能な経済成長を求める「エコ社会主義」の立場への移行は、もちろん重大な見解の変更である。だが、生産力至上主義からの決別は、より大きな世界観である「進歩史観」をも揺るがすことになる。(p.165)

本書でも登場するエマニュエル・ウォーラーステインさんによる著作、史的システムとしての資本主義(感想文09-56)にあるように、真理探究こそが進歩の基礎であり、普遍主義は信仰であり、科学は資本主義に組み込まれているのだ。

技術によって自然を服従させ、人間を自然的制約から解放するという生産力至上主義のプロジェクトが失敗していることを、「科学」は暴き出す。(p.188-189)

本書では、科学への期待が描かれているが、果たして科学は資本主義に打ち勝てるだろうか。そもそも闘争できるだろうか。脱成長は既存の科学の終焉、あるいは科学のパラダイムシフトを引き起こすのではないか。

晩年のマルクスが提唱していたのは、生産を「使用価値」重視のものに切り替え、無駄な「価値」の創出につながる生産を減らして、労働時間を短縮することであった。労働者の創造性を減らす分業も減らしていく。それと同時に進めるべきなのが、生産過程の民主化だ。労働者は、生産にまつわる意思決定を民主的に行う。意思決定に時間がかかってもかまわない。また、社会にとって有用で環境負荷の低いエッセンシャル・ワークの社会的評価を高めていくべきである。(p.319-320)

このように本書は、脱成長のコンセプトを晩年のマルクスの思想から再発見していく。40年以上も経済成長がすべてだと信じこまされてきた私は、その呪縛を認識できたが、その呪縛から解き放たれるほど世界の認識の在り方が変わったわけではない。

脱成長、つまりは経済成長の放棄は、私の子供たちを含む次世代への責任放棄ではないか、と考えてしまう。しかし、継続的な経済成長の希求により、地球環境が不可逆的に壊滅的な状態に陥り、人類の存続が危ぶまれるのであれば、そちらのほうがはるかに大問題だと言える。

悩ましいのは、今この時点で、少なくとも日本では、脱成長の選択肢が提示されていない。だったら、自ら作り上げれば良いじゃないかと言われそうなものだが、何を取っ掛かりにすれば良いのかすらよくわからない。私自身も呪縛されているし、多くのビジネスパーソンもそうだろう。

ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀(感想文20-30)とも通じる点がある。しかし、私有財産の放棄と、本書の〈コモン〉の復権は別物かもしれない。

脱成長は確かに新たな理念としてこれから賛同を集めるかもしれない一方で、既存の資本主義でもまだまだ工夫の余地はあるのではないか。そう考えてしまうのは、呪縛のせいかもしれないし、脱成長を信じきれてないからかもしれない。

経済成長が私たちの欲望と深く結びついている。地球環境のために私たちは自制できるのだろうか。痩せたいと願いながらも、節制できない人たちが私を含めてあまりにたくさんいるのが現実だ。自制ではなく、薬で食欲を抑えたり、外科的に胃縮小手術を選びたがる人もいるだろう。

自分に甘い人間の行動を変容させるには、どうすれば良いのだろうか。選択肢が提示されるだけでは、行動は変容しない。地球の危機を煽っても、変わらないだろう。それでもこうして新しい理念が生まれ、少しずつムーブメントになるのは時代の変化だと思うし、そういう変化に素直に賛同できないのは自らの老いの証左かもしれない。

感想文21-05:騎士団長殺し

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ずいぶん久しぶりに村上春樹さんの小説を読んだ。

第1部が512ページ、第2部が544ページと結構な分量で、面白いようなよくわからないような、文字だけの現代アート(こういうのを文学と言うのだろう)と向き合ってみた。
申し訳ないのだけれど、ちゃんとした感想文を書けそうにない。

あいにくいつも、村上春樹さんの小説の主人公には、これっぽっちも感情移入できない。主人公が36歳男性の肖像画家で、私の人生に全く無縁の人種だし、才能があって、男女からモテて、よくわからない奇妙な出来事に巻き込まれる人を、私の能力では共感や同一視できそうにない。

例外的に、本書で登場する独身のお金持ちの免色渉(めんしき わたる)さんがなんとも面白いキャラクターだ。奇妙な出来事に巻き込まれそうで、巻き込まれず、変人のようでいて、意外と常識人。なんというか、村上ワールド全開な展開の中で唯一、人間味があるとさえ思えてくる。

しばらく小説は読まないだろう。まだこの余韻が続きそうだ。しかし、この余韻を言語化する能力が私にはない。

とはいえ、何か書き残しておいたほうが良いだろう。ふむ。年齢的に私は、主人公と免色さんの間にいる。主人公にはパートナーがいたし、免色さんには人生をともにできたであろう人がいた。そして二人に共通するのは揺らぐ「子」の存在だ。私には子が二人いて、生物学的関係性は揺らいではいない。たぶん。

主人公の奇妙な経験は、射出された配偶子が受精しそして生を受けるに至る経緯を追体験するかのようだ。

歴史的な虐殺の物語と震災による多くの犠牲。そして近親者の不慮の死と誕生と成長。あるいは愛。渾然一体となって、読者の私に浴びせてくる。何かを。それは何だ。

人間の根源的な始原的な感情と生命体としての機能と構造。邪悪さも無邪気さも愛も性も誕生も死もひっくるめた、当たり前だけれど、直視しようとしない実存

人生のアラートとしての村上作品。10年後に読み返すとまた違った印象を持つだろう。長いから読み返さないと思うんだけれど。

感想文21-04:清く貧しく美しく

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石田衣良さんの小説。小説の感想文を書くのは久しぶりかもしれない。小説もちょくちょく読む(2020年は1冊しか読んでなかった)のだけれど、多くは出張のお供ということがほとんどで、コロナ禍で出張がなくなり小説を読む機会を喪失していた。

今回ももちろん出張があったわけではないけれど、年が開けて図書館に行って、なんとなく借りてみたのが本書だ。たまに読みたくなる作家、それが私にとって石田衣良さんだ。

タイトルは小林一三(感想文20-43)の遺訓でもあり宝塚音楽学校の校訓でもある「清く 正しく 美しく」の「正しく」を「貧しく」に変えたものだ。現代社会に生きる男女二人の物語。今、「正しさ」は「貧しさ」とリンクしている、ということだろうか。

池井戸潤さんの七つの会議(感想文14-02)にあった『虚飾の繁栄か、真実の清貧か』を思い出す。清貧という言葉が指し示すように、貧しさは清らかさとセットになりがち(されがち)であるが、正しさとの関係はどうだろうか。

非正規のアルバイトで糊口をしのぐアラサーの堅志と日菜子。それぞれに大きな変化とチャンスが訪れるが、そこでどのような決断を下すのか、が本書の見どころと言える。結末は、各自がお読みになれば良いのだけれど、自分自身と重なる部分があって、懐かしさと同時に身につまされることもあった。

私も大学院を修了後(正確にはM2だから終了前)、研究にも就職活動にもフィットしない自分自身について悩み、結局、京都を飛び出し、関東に身一つで引っ越し、小さな会社に就職した。就職したと言っても、非正規雇用で給与は少なく、その会社自体が成長する可能性もあったかもしれないが、結果的には5年後に潰れた。

そこだけを切り取ると、大変苦労したかのように思われるが、そうではなく、給与は少なかったけれど、本を好きに会社の経費で買ってくれたし、わりと自由に勉強することができたし、多くのことを学ぶことができた。給与額以上の面で私個人に投資いただいたように解釈できる一方で、会社が何か価値を生み出すことに大きく貢献できなかったことは歯がゆくは思っている(が、そこまで求められていたわけでもないだろうというのも正直なところ)。

その後、大きな組織に転職し、幸運にもその会社で非正規雇用から正規雇用に転換することができ、安定したポジションに就き、そりゃあ仕事で苦労や不平不満はあるけれど、少なくとも「貧しく」はなくなった。

とはいえ、貧しいとまでは言わないまでも、決して裕福な生活ではなかった。家賃5.5万円のアパートで2年ほど暮らし、更新費用を節約するため、4ヶ月くらいは彼女の会社の借上げマンション(女性のみ入居可)にこっそり同棲し、結婚してから家賃8万円のアパートに引っ越した。妻が正社員採用だったので、妻が世帯主状態の時代だった。

将来に不安がなかったといえば嘘になる。でも若かったのだ。体力があり、そして何より、未来があった(あると信じられた)。20代後半に差し掛かろうとしていた当時の私は、非正規雇用で、実質的に妻に養ってもらっている状態であっても、知的に刺激的な毎日を過ごせることが本当に幸せだった。

しかし、そんな幸せな時代は長く続かなかった。妻がうつ病になったのだ。現代病とも言えるが、過労とストレスで稼ぎ頭の妻の精神状態が限界を超えてしまったのだ。と同時に私の会社がいよいよ潰れそうだなという雰囲気になり、さらに私の母親が癌を再発した。不幸が襲いかかってくる人生最大のピンチを迎えた。

クライアントが私のような人材を求めているということで、転職に成功し、給与が増えた。家賃12万円の家に引っ越し、住環境を変えた。そしてずっと前から望んでいた妊娠に至り、妻は身体の変化が精神の変化をもたらすのか、うつ病を克服した。そして私の母は孫を見たい一心で元気を取り戻した。一気に逆転した気分だったが、本当に幸運だったと今でも思う。

完全に小説の話から脱線して自分語りをしているが、まあ許して欲しい。

私には不安定だった時代がある。就職活動を早々にリタイアし、新卒のゴールデンチケットを手放した。そういう選択をしたのかもしれないが、本書の堅志のように「逃げた」だけかもしれない。両親は何も言わなかった。そのことには感謝している。当時付き合っていた彼女(=今の妻)は、私を追いかけ関東まで来てくれた。彼女と出会えたのも、付き合いが続いたのも、結婚できたのも幸運だった。

多くの幸運に助けられたが、あの時代があったことが、私の強さになっている。

付き合っている時間を含めると20年以上経つが、妻とは今でも仲が良い。本書を読んだ後、何だかいつも以上に妻に優しく接するようになった。

感想文14-02:七つの会議

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※2014年1月17日のYahoo!ブログを再掲

 

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架空通貨以来の池井戸潤さんの小説。作品を読むと仕事について考えさせられる。

本書では、様々な立場の人間が交錯し、そして組織が隠してきた真実が徐々に明らかになっていく。本当の真相は、さいごのさいごまで見えてこない。このワクワク感がたまらない。

登場人物の家庭環境や生い立ちについて丁寧に描かれている。完璧な人間はどこにもいない。

登場人物はたくさん出てくるが、万年係長の八角が主人公的な位置付けだろう。セリフがカッコイイ。

「出世しようと思ったり、会社や上司にいいとこ見せようなんて思うから苦しいんだよ。サラリーマンの生き方はひとつじゃない。いろんな生き方があっていい。オレは万年係長で、うだつのあがらないサラリーマンだ。だけど、オレは自由にやってきた。出世というインセンティブにそっぽを向けば、こんなに気楽な商売はないさ」

『サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ』という植木等の歌にあるように、会社を背負っている経営者とは異なり、サラリーマンは確かに気楽。しかし、そういう境地に達するためには、色々なものを諦め、捨てなければならない。そして、多くのサラリーマンは諦めることはできない。苛烈な出世競争があり、勝ち負けが決まる。

「追い詰められたとき、ひとが変わる。自分を守るために嘘も吐く。あんただって、プレッシャーに負けて不正を許容した。同じことなんじゃないのかよ。」

虚飾の繁栄か、真実の清貧か

人間は誰しもが弱い。上司の命令に従い、まさに虚飾の繁栄を追い求めてしまう。

面白かったのは浜本優衣の話。社内に無人販売でドーナツを売るというプロジェクトを通じて、ビジネスの面白さを知り、そして人間的にも成長していく。社内に無人販売というのを何かの本で読んだんだけどなぁ。全然思い出せない…。

陰鬱としたテーマを扱っているが、こういった明るい話をうまく取り入れるあたりが、著者の巧さを感じさせる。

久しぶりの小説だったので楽しくあっという間に読みました。

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(感想文の感想など)

弊社の職場にはオフィスグリコがある。コロナで出勤率が下がり(下げられ)、さっぱり売れていない。

しかし、改めて考えてみると置いておくビジネスは面白い。富山の置き薬がアイデアの源流だろうか。

個人的にはキャッシュレスに対応して欲しい。いちいち100円を出すのが面倒なんだよね。そうなると100円均一商品でなくても良いだろうし、例えば賞味期限が近くなると値下げするということもできるかもしれない。

あるいは新商品はアンケートに答えると次回購入の際に割引きされるとかもできるだろう。きっとそういったアイデアはすでに検討されているんだろうけどね。

感想文21-03:未熟児を陳列した男 新生児医療の奇妙なはじまり

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本書の主人公は、マーティン・アーサー・クーニー(1870-1950)。同じ年生まれは、本多光太郎、ジョーゼフ・ピューリツァー西田幾多郎など。クーニーは第一次世界大戦世界恐慌第二次世界大戦の時代を生きた。

本書の副題にあるとおり、新生児医療のはじまりは現代の感覚からすると「奇妙」であった。未熟児を救うための保育器を開発し、実用化したのだが、クーニーは医師であるという確たる証拠はなく、その保育器に未熟児を入れて展示して収入を得ていたため、興行師の側面っていうか、興行師そのものの人物だ。

うちの長男は生まれた時点で2500グラムに達しておらず、低体重児だった。体重が増えるまでのしばらくの間、保育器で過ごした。本書を読むまで、そんなお世話になった保育器が、一体どうやって実用化されたのか考えることなど全くなかった。

第一次世界大戦頃の)出産に対する取り組みは、全面的な変革期にあった。産科学という分野が専門性を高めるにつれ、中産階級アメリカ人女性は自宅ではなく病院で出産するようになっていた。だが、産科医には虚弱な未熟児にかかずらう暇も意欲もなく、はじまったばかりの小児科学のほうは、未熟児を扱うところまで至っていなかったのだ。未熟児は両分野のはざまに落ち、そこで息絶えた。(p.189)

本書で興味深かったのは、子どもを無事に産むための産科学と、子どもを健康的に育てるための小児科学が存在していたものの、その両分野の間にある未熟児のケアはないがしろにされていたという事実だ。「自称」医師である興行師クーニーの保育器が唯一と言える救いであり、それにすがる親は決して少なくなかった。

マーティン・クーニーの患者たちは重い障害があったわけではなく、たんに早産で発育不全だっただけだ。だが、この時代の潮流には明確な思想がひそんでいた。欠陥のある子、成長時に障害を抱えるおそれがある子は、救う価値がないと思われていたのである。(p.195)

もう一つ忘れてはいけない。当時の思想に、「優生学」がある。

不妊手術の強制という恐るべき方策は、最終的に27カ国の6万人を襲うことになり、アフリカ系アメリカ人ネイティブ・アメリカン、メキシコ人、軽犯罪者、障害や精神疾患のある個人などが犠牲になった。(p.192)

アメリカでは不死細胞ヒーラ(感想文11-29)に載っていたミシシッピ虫垂切除術、日本では田中一村(感想文20-35)にあったハンセン病強制隔離が有名な事例だろうか。

未熟児医療が優生思想と同時期に生まれたのも大変興味深い。

マーティン・A・クーニー医師は1950年3月1日に死亡し、妻のメイが眠るブルックリンのサイプレス・ヒルズ墓地に葬られた。彼がつけていた記録簿は見つかっていないが、命を救った子の数は6500人から7000人と推定される。墓には彼の業績がうかがわれるどんな文言も刻まれていない。(p.271)

7000人近くの命を救ってきたクーニーであるが、その生涯はよくわかっていなかった。本書の原文はどうなのかわからないが、訳がなかなかわかりにくい。クーニーの混沌とした生涯のようである。

当時、人の命は現代に比して相対的に軽かったのだろう。未熟児は捨て置かれ、優生思想のもとで摘まれた命も数多くあった。そんな時代に(おそらく)医師ですらないヨーロッパからやってきたクーニーは、多くの命を救った。保育器とそこで育つ未熟児を展示し、観客の支払う入場料で、設備やスタッフの給与を支払い、そして赤ちゃんの親にはお金を請求しなかった。

親からすると無償で人の命を救う聖人のごとく思えるかもしれないし、実際に生き延びることのできた子どもはクーニーに恩を感じるかもしれない。一方で、そのビジネスモデルに異議を唱える医師がいたのも事実だ。

また、優生思想も超未熟児への医療の是非も現代まで議論は続いている。前者は選べなかった命(感想文18-45)にある新型出生前診断による命の選別、そして後者はどこまで未熟な赤ちゃんを救えるのか(救うのか)ということになる。

複雑なのは、命を奪う行為も救う行為もともに医療が行い、しかも奪われる命と救える命の分岐点である「妊娠22週」が技術の進展によって、周産期が22週によりも早い超早産児でも赤ちゃんの命を救えるかもしれない。生殖医療の衝撃(感想文16-32)の感想文の感想で書いたように、人工子宮システムが開発されつつあるからだ。

捨て置かれていた未熟児を救った保育器の歴史と、それに情熱を注いだクーニーという人物とその関係者たちについて書かれた本書は非常に貴重な資料といえる。そして、この問題は現代でも地続きであり、今でも生を受けることのできない命とギリギリのところで救われる命があるという現実を思い知らされた。

感想文21-02:データ分析の力 因果関係に迫る思考法

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メインの仕事ではやってないけれど、サブの仕事ではちょいちょいデータ分析もどきをしている。メディアに登場する自称評論家が発する、データ分析に基づかない言説を私はほとんど信用していないばかりか、害悪ですらあると考えている。

私を含めて、多くの人は数字に騙されやすいし、相関関係と因果関係を取り違える。信じたいものしか信じないし、信じたくないものは例えそれを見ても認識しない。

情報通信革命がもたらす一つの大きな変化は、データ分析の力が特定の専門職に就いている方だけではなく、これまで以上に多岐にわたる職種において要求されるようになってきていることです。(p.3)

そのとおりである一方で、データ分析する能力だけでなく、そのデータ分析の方法や結果の解釈まで、きちんと理解し、実務で役立てようとすると、それなりのトレーニングが必要となる。

本書では(中略)因果関係の解明に焦点を当てたデータ分析入門を展開していきます。なぜ因果関係に焦点を当てるかというと、因果関係を見極めることは、ビジネスや政策における様々な現場で実務家にとって非常に重要となるためです。(p.9)

真に因果関係を調べようとするのは非常に難しい。時間もお金も手間もかかることが多い。特に自然科学とは異なり、実験できない場合は、限定された条件でデータ分析するので、そこから導き出される答えは相対的に弱くなってしまう。とはいえ、そこが計量経済学の分野で面白いポイントであり、知恵の出しどころであり、魅力でもある。

オバマ前大統領や評議委員は「単に数字やデータを示すこと=エビデンス」ではないという考え方を非常に大切にしています。その理由は、Xという政策がYという結果にどう影響したかという因果関係を科学的に示すデータ分析こそが、政策形成に必要であるためです。(p.207)

EBPMが日本でも行われるようになってきたが、どこまでまともに実証研究がなされ、その対象となったデータが公開されるのかについて、現段階ではかなり訝しんでいる。都合の悪いデータも研究結果も公開されないのではないか、とこれまでの「お上」の行動原理からそう考えてしまう。

本書は非常にわかりやすく読みやすいが初学者向けである。入り口には丁度いいが、ある程度知識のある方はもうちょっと難易度の高い本をお読みになるのが良いし、そのリストが本書では紹介されている。

RCTなどの科学的な方法で因果関係を示すことの実務的な利点は、イデオロギー論争などを超えた、データ分析の結果に基づく政策議論ができることだと考えられます。(p.234)

相関関係と因果関係を取り違えて官僚を圧迫し、論文著者に諭されたとされる某議員は、これを気にきちんと勉強されてはどうかと思うところだ。

未だに日本ではデータ分析の結果に基づく政策議論がなされているとは言い難い状況だ。私の知りうる限り、データ分析のトレーニングを受けた公務員も政治家も極めて少ない。そしてまた、批判すべきメディア側にも同様にデータ分析の意味を理解している人材は乏しく、感情を揺さぶり、煽り焚きつける情報発信が是とされている。

しかしながら、これは「好機」でもある。データ分析の力は強力であり、今の社会に違和感を覚える人は、是非、トレーニングを受け、自らを鍛え、それぞれの業界や分野で実務能力を発揮いただくのが近道であろう。たぶん、すぐには評価されないけれど、長期的にはその分野で重要なポジションを確立できると信じている。