40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文22-08:ひなた弁当

東京駅で購入した小説。

超理不尽なリストラ 転落人生からの 大逆転 そのきっかけはどんぐり!?

という帯の宣伝文句に釣られて、読んでみた。

会社をリストラされて、野草や釣った魚で弁当屋を始めて、家族との関係も良くなり、万々歳的なストーリーで、気軽に読むには良いだろう。

でも、自らのセカンドライフの参考にはしにくいな。

主人公の娘のセリフを引用すると、

「大袈裟じゃないって。私、お父さんってサラリーマンの仕事しかできない人だと思ってたから。そんなお父さんでも、やる気になったら全然違うジャンルのことができるんだって判って、私もやっと、自分の人生のことを真剣に考えるようになったもん<以下略>」

ふむ。サラリーマンの仕事とは一体何だろう。とはいえ、特定の組織に最適化されてしまうと、その仕事しかできなくなるというのは、その通りだろう。

最適化したのに、その組織からお払い箱になってしまうと、別の仕事に適応しにくいので、仕事を見つけるのは難しくなる。とはいえ、やる気になったらなんとかなるというのは、私含めて中年男性の救いにはなるだろう。そのやる気をどうやって起こすかはまた別問題ではあるが。

本書で共感できたのは、どんぐりを食べた経験だ。私も小さい頃に椎の実(しいのみ)を食べたことがある。ずいぶん昔に亡くなってしまった祖父は、戦時中の食糧難の時期を乗り切るために、いろんなものを食べたらしい。結果、一緒に散歩すると、この野草は食べられるとか、自生しているむかごをいち早く発見するとか、そういう能力を見せつけられ、私も自然に身についたものだ。

ある日、祖父から食べられると教えられ、椎の実をそのまま食べた。えぐみもなく不味くはないが、栗ほど大きくもなく甘くもない。労力に見合わないと感じたものだ。今となってはどれが椎の実なのか判別する自信はない。懐かしい思い出だ。

本書では主人公が釣りもする。読んでると、無性に釣りがしたくなってきた。先日、次男と釣り堀に行ったが私は全く釣れなかった。次男は、針に練りエサをつけて、浮きも関係なく、糸を垂らし、目視で魚が食い付いたら糸を引き上げるという、動体視力と反射神経だけを頼りする独特の手法で挑んでいた。

釣り堀にいる昼間から酔っぱらっている感じの常連らしき高齢者男性に、「そんなんじゃ釣れないよ」と言われたのも束の間、独自の技法で釣り上げ「よっしゃー!」と歓喜する次男。自由で楽しそうだなと目を細める父である私。

また、奄美大島で釣りがしたい。カラフルな熱帯魚を調理して食べたい。

ん?カラフルな状態を維持して、ムニエル風に調理した熱帯魚を真空パックで冷凍しておく。これは「映える」理由で、もしや売れるんではないか。まあ、奄美からの輸送料金はバカにならないので、どこまで実現可能性があるかは眉唾だけれども。

感想文22-07:科学オタがマイナスイオンの部署に異動しました

海に降る(感想文15-55)と同じ朱野帰子さんの小説。ずいぶん前に買っていたのだけれど、途中まで読んで読了してなかったのを発掘した。

なぜ途中で読むのをやめたのかは判然としないが、本書はラノベっぽい冗長なタイトルに似合わず、内容はわりと硬派な小説だ。

科学を信じ、科学者に憧れながらも、科学者になる道を諦め、大手電器メーカーに勤める、主人公の賢児。

私も科学者に憧れた時代もあったが、結局、科学者になる道を諦めた。とはいえ、転職して、巡り巡って、今では科学に関係する仕事で糊口をしのいでいる。前の会社の同期はアカデミアの世界(科学者ではないけれど)で生き残っている人もいて、羨ましく思う反面、大変だなとも、正直なところ思う。

賢児に共感する点もあれば、やや行き過ぎた行動や、行動力の有り余る勢いに若干、引く。私ももうちょっと若い頃はそれに近いところもあったやもしれないのだが。

結婚し、子供が生まれ、大きな組織で揉まれ、立ち回り、それなりに出世し、部下の面倒を見て、上司から言われたことをできる範囲で具現化する。賢児の姿を見ていると、そんな日々を過ごしているうちに、私自身が何か大切なものを忘れしまっているようにも思えてくる。

賢児は怒りと同居している。

許さない。似非科学を。弱っている人間を食いものにする奴らを。(p.189)

病気となった父を救うために、賢児の母は似非(えせ)科学に大金を投入してしまう。賢児の姉も出産、育児で似非科学に惑わされる。

代替医療のトリック(感想文10-49)では、鍼、ホメオパシーカイロプラクティック、ハーブ療法を代替医療として批判しているし、現代でも、反ワクチン運動が平然と行われている。

10万個の子宮(感想文18-17)でも書いたように、病気になってから投薬する治療薬の副作用や難易度の高い手術の失敗を許容できても、ワクチンによる副作用を冷静に判断できないのだ。

でもそれがきっと科学なのだ。科学者たちは絶対に大丈夫だなどとは言わない。長い時をかけて出した答えを疑って、試して、また疑って。人に褒められたいという欲望も、うまくいきますようにという温かな祈りも、心からしめだして、冷徹につくられた科学のはしごだけが過酷な宇宙へ続いているのだろう。(p.266)

ワクチンは絶対安全だなんて科学者は言わない。私が嫌いな言葉ランキング上位に入ってくるのは、「可能性はゼロではない」だ。この言葉は何も意味していない。可能性がゼロと言い切れる事象は極めてレアだ。そんなのあるのか。ゼロではないわずかな可能性に、過大評価も過小評価もなく反応するのは難しい。過大評価の方が安全よりだが、法外なまでにコストをかけて対応するのは馬鹿げているし、ゼロではないわずかなリスクを過剰に喧伝するのも同じく馬鹿げている。

本書は国による科学への投資の減少もテーマになっている。

本物の科学で金を稼ぐ。できるだけ稼ぐ。その金を科学にまた注ぎこむ。それができるのは商人だけだ。(p.298)

もちろん科学はカネ儲けの道具ではないが、科学にはカネがかかる。サイエンス・イズ・マネー。科学に関係する仕事をしているので、大変よく分かる。科学者の行動原理の多くはカネで説明できるほど、研究費が非常に強いインセンティブになる。真理探究や好奇心は科学を推進する原動力としてとても大事だが、研究費がなければ何もできやしない。

資本主義と科学は極めて相性が良い。だが、私は科学に何かしら貢献したいが、資本主義に貢献したいとは思っていない。きれいごとだけれど。

ただ、本書の重要なメッセージ、「本物の科学で金を稼ぐ。」はずしりと私の胸に響いた。似非科学ではなく、本物の科学こそが市場を生み出し、破壊的イノベーションを起こし得るのだ。もちろん、イノベーションを起こすのは、本物の科学から生まれたテクノロジーを享受し、利用する消費者であり、科学者ではない。

似非科学に基づくテクノロジーは、たとえ一時的に市場を生み出したとしても、真に世の中を変えられない。むしろ退行させ、健康寿命や地球環境に害をもたらす。だが本物の科学にもネガティブな側面は付きまとう。

科学は万能ではない。しかも科学にはカネがかかる。科学は使い方によっては不幸も生み出す。しかし科学を捨て去って生きることはできない。

改めて科学に関係する仕事する一人の人間として、考えさせられる一冊だった。仕事が山積みだったので、ようやく本を読めるようになったんだよね。ちゃんと本を読んで、こうしてアウトプットしないとどんどん衰えていくのを実感した。

感想文15-55:海に降る

※2015年12月24日のYahoo!ブログを再掲

 

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WOWOWで連続ドラマ化したことで話題になった本書。海洋研究開発機構JAMSTEC)が舞台という、なかなかにマニアックな小説だ。

思い返せば、去年、追浜(※「おっぱま」と読む)にある現実のJAMSTECに行ったことがある。そこで有人潜水調査船「しんかい6500」を見せていただき、そのプラモデルを息子に買って帰った。思った以上にプラモデルの作成難易度が高く、非常に苦労したのを覚えている。

そういうちょっとした縁があり、本書を楽しく読むことができた。気になる箇所を挙げておこう。

潜水艦のパイロットっていうのは船を操縦できるだけじゃない。船を解体してもう一度組み立てるくらいの整備の腕がなければ駄目なんだ。

うーむ、そうなんだ。知らなかった。飛行機のパイロットやF1レーサーがそこまで整備の腕が必要だとは思わない。なんでそこまで整備の腕が必要なのだろうか。

パイロットが把握していないものはボルトひとつでもあってはならない。宇宙船と違って、海底で船体が故障しても耐圧殻の外に出ることはできない。

そう、命がかかっているのだ。海底で故障したら、中からどこが原因が突き止めないと地上に戻ることはできない。私は閉所恐怖症ではないが、あんな狭いところに閉じ込められて、海の底に行くということは、想像するだけで発狂しそうになる。

「科学っていうのはな、社会に役立つものばかりじゃない。やりたいからやっている。そういう研究の方がむしろ多いかもしれない。そういう意味では科学者はエゴの塊みたいなものだ。傲慢な言い方をすれば、俺の研究人生が遅れるってことは、人類の知が遅れるってことだ。」

これは科学者である目山先生のセリフだ。深海をフィールドとした研究は、その場に行って何かを発見してこないことには研究がなかなか進展しない。

本書では科学の素晴らしさだけでなく、その裏で必ず必要となる研究費のことについてもきちんと描いている。納税者である一般国民が科学に対して期待していることは何だろうか。イノベーションを起こし、新しい産業を生み出し、雇用を増やすことだろうか。それとも、誰も到達したことのない宇宙の果てや、見たこともない生物を発見するというロマンのようなものだろうか。

簡単にイノベーションとロマンのどちらかに分類できるということではないけれど、私は後者の気持ちに期待したい。科学に残されているフロンティアは少ないのかもしれない。あるいは人間ができることの限界が近づいているのかもしれない。それでもまだドキドキするようなロマンがあると信じたい。

深海に潜りたい。誰も知らない海の、地球の秘密を解き明かしたい。そんな研究者の執念を耐圧殻に宿らせて海の底へ連れていく。

狂気じみた執念が新しい発見につながる。狂気に飲み込まれてしまうケースもあるのだけれど。誰も行ったことのないところに行くというのは、それだけで人を魅了してしまうのだろう。

夢を継ぐ人からかなえる人へ。そして託す人へと移る日もそう遠くない。

夢。そう、夢。はて、私の夢は何だったろうか。特に夢は託されていない…はず、たぶん。息子に何か託してみようか。うーむ。

こういう本が出ると、JAMSTECのファンが増えることだろう。どこの研究機関も国からのお金を減らされていて苦労しているはず。クラウドファンディングみたいにファンからお金を集める仕組みが有効かもしれないけれど、そんな何億とかは集まらないだろうなぁ。

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(感想文の感想など)

私は泳げないが、深海も深海生物も好きだ。深い海の底に住まう、異形な生き物たち。想像するだけで楽しくなってくる。

深海の魅力は生物だけではない。資源の宝庫、かもしれない。

 NHKイカル「ゴールドラッシュおきるか 深海に眠る金鉱脈」(2022.05.27)でよくまとめられている。

www3.nhk.or.jp

日本の領海にある熱水噴出孔に高濃度の金(といっても平均で1トンあたり17グラム)があることを発見。そして、金の回収にシアノバクテリアという光合成細菌を活用するって話。

ロマンがあるし、しかもカネ、もっと直截的に、ゴールドをゲットできるかもなので、今後の展開に期待したいね。

感想文22-06:少年と犬

 

会社の部下からお借りした小説。著者は馳星周さん。2020年に本作で直木賞を受賞とのこと。馳星周さんと言えば、新宿を舞台に描かれたバイオレンスミステリーの傑作でありデビュー作の「不夜城」のイメージだったので、驚いた。不夜城を読んだときはまだ関西にいて、新宿には近づくまいと心に誓ったものだ。

さて、わが社では今年度から今はやりの1on1ミーティングが本格始動し、10名いる部下を毎月1回30分、1on1で面談しないといけない。

テーマは部下が決めて、上司である私の役割はあくまで傾聴である。上から目線で教え諭すのではなく、仕事へのモチベーションを維持し、そして上げていくためのコーチングが求められている。コーチング研修を受けたが、その実践は難しい。声のかけ方ひとつで相手の気持ちも変わってしまう。そういう心の機微なところにはとんと疎いのだが、テクニックとして理解しようとするとできなくもない。これが正しいのかはわからないが、手探りで進めていくしかないな。

そんな1on1ミーティングだが、本の貸主である部下のテーマは「犬」だった。コロナ禍で生まれて初めて犬を飼い始め、部下自身も家族も変わっていったという興味深い話だった。

他にもコロナがきっかけで犬を飼い始めた人が周りにいる。コロナにより、ペット市場はちょっとした特需になっていたのかもしれない。

私は犬を飼ったことがない。動物が嫌いではないが、犬と生活を共にしたことはない。今、住んでいるマンションはペット禁止だ。犬との生活は上手くイメージできない。毎日散歩し、エサを与え、病気になれば動物病院へ連れていく。

部下の犬をテーマにした話で印象的だったのは、犬によって価値観が変わり、救われ、そしていくつになっても新たな出会いが訪れることに気づかされたという話だった。

本作でも、男、泥棒、夫婦、娼婦、老人、そして少年が犬と出会い、時に救われ、気づき、そして、失う。

どうして犬と暮らす喜びを忘れていたのだろう。犬が与えてくれる愛や喜びを、どうして思い出さなかったのだろう。(p.123)

犬が与えてくれる愛や喜び。ふむ、私も感じてみたいものだ。

本作は失望からの再起といった単純な話ではない。ままならない人生を犬とともに歩み、そして、登場人物の多くは救われない。

それでも、犬と過ごした時間の尊さや幸せを感じている。制御不能な自然災害があり、逃れようもない人間関係もある。愛情と憎悪、希望と絶望、過去と未来、そして生と死。

多くの小説家が幾度となく取り扱ってきた普遍的なテーマを一頭の犬である「多聞(たもん)」の旅を通じて描いている。物語には余白が多く、その先にある多聞と出会った人たちの交流を思い描かずにはいられない。

息子たちが旅立ち、私が老衰したら犬を飼ってみようか。妻は賛同してくれるかな。

感想文22-05:9割の社会問題はビジネスで解決できる

 

世の中にあるたくさんの社会問題に心を痛めている。そんなにナイーブな性格ではないのだが、自分の無力さを痛感している。今の仕事が世のため、人のために役立つよう、苦心しているが、硬直的な制度と大きな組織に挟まれ、クリティカルに世の中にインパクトを残すような成果に至った経験はない。

社会問題にビジネスで挑戦した事例として思い浮かべるのは、グラミンフォン(感想文09-50)蚊帳のオリセットネット(感想文17-50)だろうか。どちらも国際的に大きくかつ困難な社会問題である、途上国の貧困、感染症の解決に向けた取り組みであり、しかもビジネスだった。

えてして、金儲けとして悪のように捉えられている節すらあるビジネス。しかし、ビジネスは極めて強力で、そして自由度が高い。ビジネスによって社会問題が解決し、誰かを笑顔にできるのであれば、そんな素晴らしいことはない。

本書の主張ははっきりしている。ほとんどの社会問題はビジネスで解決できると言うのだ。

borderlessグループは、ビジネスによって様々な社会問題を解決することに挑戦しています。2007年に創業し2020年度の年商は55億円、世界15か国で約1500人が働いています(2021年4月現在)。(p.12)

ソーシャルビジネスについて以前から関心があったにも関わらず、恥ずかしながら、borderlessグループの存在を本書で初めて知った。1500人で年商55億円。単純計算すると一人当たり約367万円。確かにビジネスの規模は大きくはない。それでもビジネスとして成立している。

ソーシャルビジネスが取り扱うのは、「儲からない」とマーケットから放置されている社会問題です。(p.34)

大企業はもちろん、多くのビジネスパーソンが挑戦しない領域を開拓していく。そして逆説的ではあるけれど、ビジネスの力で開拓していく。つまり、ビジネスの拡張とも言える。

起業家たちは、「自立したい」と思っていても、「孤立したい」とは思っていません。経営上の問題が起きた時に、いつでも相談できる仲間がいる、そして自分ごととして真剣に考えてくれ、時には叱ってもくれる、切磋琢磨し合える仲間がいることの心理的セーフティネットはとても大きいのです。(p.66)

誰も挑戦していない小さなマーケットを開拓していくのは、とても大変で、似たような状況にある経営者たちが悩みを共有し、刺激し合い、切磋琢磨する。

MM会議と呼ばれる、社長4人一組でチームを組み、経営戦略や社長独自の課題など共有し、解決し合いながらソーシャルインパクトの拡大のために月1回集う会議がある。

これは良い仕組みだなと感心し、私も昨年から管理職になったのを機に、人事担当者に提案し、新任管理職が悩みを共有する場を公式に設置することに成功した。オンラインではあるが、月に1度集まり、ブレイクアウトルームで少人数グループをいくつかつくり、悩みを共有する。ややもすると孤立しがちな管理職、しかも新任だと悩みも多く深く重く、こういう場があるとありがたいと言われた。

borderlessグループの仕組みも興味深く、

特にユニークだと言われるのが、

・出資額を超える株主配当は一切しない

・経営者の報酬は一番給与の低い社員の7倍以内

の2つです。(p.72)

となっていて、一般的なスタートアップとは通底する思想が全く異なっている。リスクをしょったのだから、それだけ大儲けするみたいな発想ではない。

本書では実際に具体的かつ実践的なソーシャルビジネス立ち上げのノウハウやソーシャルビジネスを進めていく上での金科玉条が載っている。本書を読んで、刺激を受け、一気に行動を起こす若く意欲のある方もいらっしゃるだろう。

僕は2~3人程度の少人数で運営するマイクロ起業はすごく面白いし、可能性を秘めているのではないかと思っています。(p.342)

本書の存在にたどり着けたことが私にとっては大きい。今すぐに起業するのは難しいけれど、これからの人生でマイクロ起業という選択肢を念頭に置いておこう。

人生は一度しかない。自己資本を増やすためではなく、ソーシャルビジネスを通じて、世のため、人のために人生を費やしたい。

感想文22-04:チョコレートはなぜ美味しいのか

 

今のところ生涯を振り返って、ほとんど良い思い出のないヴァレンタイン・デー。その頃に図書館に行ったら陳列されていて気になって読んでみたのが本書だ。

今年のヴァレンタインで、当時中2である長男が手作りクッキーをクラスの子からもらったと、LINE通話で妻から聞いた。私は神戸の単身赴任の殺風景な部屋に一人きりだった。

長男の甘酸っぱい思い出であり、忘れられない人生の大切なイベントへの私の感想となる第一声は、「共学なんかに行かせるんじゃなかった」だった。私が学生時代にチョコもらえなかった要因を男子校と見なしている故の発言になるが、自分も中学は公立の共学校だった歴然たる事実への論理的破綻を見事に引き起こしている。認知的不協和。

他者に自身の鋭利さと怜悧さを感じさせるべく言動を意識してきたのに、己の学生時代の甘酸っぱい思い出の欠如が、未だに私を苛めるばかりか、思考力をも貶めてしまうのかと愕然としつつ、なぜあの長男がモテるのだろうかと悶々としながら床についたが、長い眠れない時間を過ごした。結婚し、子供もいる、40歳を過ぎたおっさんが、だ。

余計な話ばかりしている。だが、もうしばらく指の動くまま書き留めておきたい。

年を明けてからずーっと忙しく、会議のための会議や、会議の後の会議があり、とにかく会議会議で時間を奪われ、空いている時間は会議の準備に明け暮れた。昼飯も食えやしない。

本書は本当に久しぶりに読んだ本だった。そしてチョコレートなどの食べ物の物性物理学の世界を初めて知った。いくつになっても自分の知らない世界に触れるのは楽しいものだ。気になる箇所を挙げておこう。

チョコレートのあの食感をもたらすのは、原料であるカカオ脂(ココアバター)の性質にほかなりません。バターや植物油といったほかの油脂とは違うココアバター独特の性質や結晶構造に、チョコレートの美味しさの秘密があるのです。(p.22)

化学の本であるので、まずは用語を整理しておきたい。結晶(crystal)とは、原子、分子、またはイオンが、規則正しく配列している固体である。結晶の対義語はアモルファス(非晶質)である。

ココアバターとはカカオ豆の脂肪分であり、砂糖などと混ぜればチョコレートになる。しかし、そう簡単な話ではない。くちどけの良い美味しいチョコレートを「科学的に」作るには、ココアバターの結晶構造まで理解しなくてはならない。

もちろん科学的に理解しなくても美味しいチョコレートを作れる。しかし、より再現性が高く、簡便に、高効率に作ろうとすると、科学は極めて強い武器となる。

この歳になって、学問の広さと深さには脱帽するばかりだが、チョコレートの触感が結晶構造に依存するとは終ぞや考えもしなかった。結晶と言えば、寺田寅彦の雪の結晶の研究があり、ちょっと前ではタンパク質の結晶構造解析があり、最近ではペロブスカイト結晶を用いた太陽電池の研究開発が思い出される。

雪、タンパク質、鉱物、チョコレートに共通するキーワードは何か?と問われて、即座に結晶と答えられる方は極めて少ないだろう。なるほど。改めて考えると、身の回りは結晶に溢れているのだが、結晶として認識していないのだ。

油脂の構造や性質などに関する研究は、タンパク質の研究とくらべると、まだあまり進んでいません。逆にいうと、この分野にはまだまだ大きなフロンティアがあるということです。(p.23)

結晶の研究は、岩石や金属などの「ハードマター」を中心にして進展しました。固い物質ほど結晶構造がシンプルなので、それも当然でしょう。高分子やコロイド、生体膜や生体分子といった「ソフトマター」は物質の構成単位が複雑なので、研究が難しい面があります。(p.63)

柔らかい物質である油脂や高分子の構造や性質を調べるのは難しい。だからこそ、未開拓な研究領域がたくさん残っている。生体膜は最近注目されている分野でもある。

チョコレートの話の戻そう。

結晶はⅠ型からⅥ型に向かって変化するので、Ⅲ型がⅡ型になったり、Ⅵ型がⅤ型になったりすることはありません。だから、Ⅰ型からⅣ型までは不安定で、Ⅵ型がもっとも安定した状態になるわけです。(p.65)

チョコレートの結晶には6つのタイプがあって、6が安定している。ところが、人間の体温で溶ける、つまりはあの素敵なくちどけを達成するためには、タイプ5が良く、安定しているタイプ6では商品にならない。準安定な状態に留めておくのがチョコレートの商品としての価値を生み出す。でも物理的には安定していない。

どの分野であれ、何らかの「謎」があれば、それを解き明かす努力をするのが科学者の役目でしょう。それに、マヨネーズの油水分離は、マヨネーズだけの問題ではないはずです。その根底にあるサイエンスがわかれば、その知見はより広い範囲に応用され、さまざまな問題を解決に向かわせるでしょう。(p.137)

身近にある現象の物理的な原理原則に立ち返れば謎が生まれる。水と油が混在する状態をエマルションと呼び、マヨネーズはエマルションの食品である。水と油は混ざりにくい。でもそれがちゃんと均一に混ざった状態にすると食品になる。しかし、エマルションの状態は安定していない。時間が経ってもエマルションを維持させるにはどうすれば良いのか。

私たちはなんとなくわかった気になっている。日常的に口にしている食品にも謎はたくさん詰まっている。その謎に、物理現象の本質に、目を向けなくても生きてはいける。しかし、身近な物にも謎がたくさんあるのを意識するだけで、急に人生がときめいてくるのではないだろうか。

未だに知らないことばかりだ。そして分かったつもりになって生きている。無知の知。40代半ばを迎えつつあるが、自分の愚かしさを意識し、好奇心を維持したままで生きていきたい。

感想文22-03:電脳進化論―ギガ・テラ・ペタ

 

本書が1993年に刊行されており、約30年前の本になる。目まぐるしい勢いで発展するコンピュータサイエンスについて、30年前の時点での最前線を描いている。

著者は立花隆(1940-2021)さん、昨年お亡くなりになったが、幅広い分野に知的好奇心があり、知の巨人と呼ばれていた。ちなみに同じ1940年5月生まれの有名人は、円谷幸吉王貞治荒木経惟筒美京平大鵬

30年前の本ではあるが、色あせていない。そしてちょくちょく知っている名前が出てきて興味深い。引用しつつ、整理してみよう。

これまでの投資額はかれこれ100億円近いという。スーパーコンピュータは電力消費が激しいので、ランニングコストもかかる。電気代だけで月に1000万円を超えるという。(p.23)

物理学者である桑原邦郎(1942-2008)のことで、計算流体力学研究所を創業し、自身の父親の遺産でスーパーコンピュータを購入した。そんな方がいたのを初めて知った。バブリーな豊かな時代の日本を象徴するような出来事と言って良いだろう。親の遺産でスパコンを買って好きに研究する。科学者にとってのロマンだ。

スーパーコンピュータは、それ自体が先端技術の粋を集めた戦略商品であるとともに、日本の未来を支えるあらゆる最先端技術開発に必要なツールでもある。(p.51)

30年前に立花さんはスーパーコンピュータを戦略商品と看破している。「スパコン富岳」後の日本(感想文21-26)では、スパコンは産業の基盤としている。現在では、自前でスパコンを開発できるのはアメリカ、中国、日本だけだ。

コンピュータ開発そのものが、原子爆弾の落とし子ともいえるのだという。原爆の開発には膨大な実験が必要だった。<中略>こういう問題は実験で求めるわけにはいかず、すべて計算で求めざるを得なかった。(p.134)

(おそらく)人類歴代天才ランキングで上位に食い込む、天才中の天才ノイマン感想文21-14:フォン・ノイマンの哲学参照)がプログラム内蔵方式のノイマンアーキテクチャーを生み出し、現代のコンピュータに繋がっている。しかし、コンピュータが生まれたきっかけは、戦争であり、原子爆弾の開発だった。この点は書き残しておこう。

近似解とはいえ、コンピュータ・シミュレーションによる非線形現象を追っていくことができるようになったということは、やはり画期的なことである。これが、エンジニアリングの世界において高く評価された。技術コンシャスな企業が、いま競ってスーパーコンピュータを導入しているのも、この技術的有用性によるのである。(p.340)

現在、ものづくりにコンピュータ・シミュレーションは欠かせない。30年前のスーパーコンピュータの性能は、いま私たちが仕事で使っているコンピュータよりも性能が低い、たぶん。しかし、新たな製品を生み出すためには、例えば自動車を作ろうとすると、試作品をいくつも作り、実際に走らせたり、ぶつけたりするような開発を行っているわけではない。開発コスト(時間もお金も)かかり過ぎる。

コンピュータ上で車をバーチャルに作り出し、それをシミュレーションしている。その精度、つまりは現実とのズレを小さくするためにスーパーコンピュータが必要なのであり、だからこそスパコンは戦略商品であり基盤技術たるのだ。

未来コンピュータの方向性は、超並列コンピュータ、ニューロコンピュータ、ファジーコンピュータ、モンテカルロ法専用マシン、光コンピュータ、量子コンピュータ、バイオコンピュータなど、じつに多岐にわたっている。そして、その性能も、ギガフロップスをこえて、テラフロップスはすでに指呼のうちに入り、将来的にはペタフロップスをのぞむところまできている。(p.342)

四半世紀以上が経過し、超並列コンピュータはスーパーコンピュータの主流となっている。2020年にスーパーコンピュータ「富岳」は415.53ペタFLOPS(0.4エクサFLOPS)を記録した。ペタフロップスは立花さんの予見通り達成しているし、海外ではエクサスケールも分散システムですでに実現している。

生物進化は、人間という知能生物を生むために、35億年の時間をかけたが、コンピュータは、百年にも満たない時間で、その知能を凌駕しようとしているのである。<中略>この進化は、人間によってドライブされた進化である。<中略>コンピュータ進化を通じて、いま人類の知的進化が加速度的に速まりつつあるのだといってもよいかもしれない。(p.348)

立花さんの予見通りにはいかなかったのは、「コンピュータ進化を通じて、いま人類の知的進化が加速度的に速まりつつある」という点だろう。確かに、皆がスマホを携帯し、膨大な計算を高速で行えるコンピュータが開発され、世界はインターネットでつながり、精度の高いAIも開発され、様々な情報に自由にアクセスできる。しかし、人類の知性は進化しているのだろうか。

戦争が無数の命を奪い、地球環境を破壊し、貧富の格差は拡大し、感染症が蔓延し、フェイクニュースに踊らされる。いま私たちはどういう状況にあり、何が本当で何が嘘で、何を信じ何を疑い、誰を支持し誰を拒絶し、そしてどこへ向かっているのか。混沌としている。

技術の進展ほどには知性は進化していない。技術の進展スピードと比較すると、むしろ退行しているようにすら思える。

トランスヒューマニズム(感想文20-08)によって、人間は拡張していくのだろうか。技術的特異点(シンギュラリティ)は2045年に本当にやってくるのだろうか。

そんな社会情勢にあって、立花さんのような知の巨人と呼ばれる人物は今後、登場しにくいかもしれない。人間の知性では対応できないほど、社会は混沌としている。極めて複雑な問題に対してクリアカットな言説を生み出すのは知性ではない。むしろ欺瞞の部類だ。

本書のタイトルにある電脳という言葉はノスタルジックだ。技術の進展と人間の知性への淡い期待がないまぜになっている。コンピュータはこれからも発展していくだろう。と同時に、同じ速度で発展することのない知性との乖離はますます顕著になっていくだろう。