40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文17-41:定年後 - 50歳からの生き方、終わり方

f:id:sky-and-heart:20201105070242j:plain

※2017年8月27日のYahoo!ブログを再掲

 

↓↓↓

仕事が増え、部下が増え、管理することが増え、自分の時間が少なくなり、いよいよ40歳が近づいてきた。毎日、あっという間に時間が過ぎていく。今は夏だけれど、もう今年も終わるなという実感がある。

子どもの成長が早い。次男は来年、小学生になる。3年後には長男は中学生になる。本当に時間が経つのが早い。ぼやぼやしていると、どんどん老いていく。

本書を読んで、定年後についてきちんと考えないといけないと心の底から危機感を持った。今年度はギリギリ30代ではあるけれど、今から定年後について考えるのは、決して早すぎるというわけではない。

これまで全く定年後を意識したことがなかったけれど、こんなにも重要な問題についてあまりに無防備で無頓着だった。周りの人たちに「今、定年後について考えているんだ」と言うと「いくらなんでも早すぎない」と笑われるけれど、そんなことはない。
自分自身を俯瞰してみると、いかに自分が会社という組織に保護され、上司や同僚や部下と多くの時間を過ごし、仕事を通じて様々な人間とネットワークを築き、コミュニケーションが取れているかよく分かる。

人生が80年になり、多くの人が、いかに生きるか、いかに死ぬかについて考えざるを得なくなった。これは大変なことである反面、自分の進む道を自分で選択できるようになったと思えば、このチャンスを活かしたいものだ。(p.188-189)

定年後の自分の姿を思い描けていないと、人生の最後を気持ちよく終えることができない。いくら仕事でプロジェクトを成功させたり、組織のなかで出世したりしたとしても、人生の最終盤では関係ないのだ。

研修では50歳以降の仕事を見直すのに、小さい頃に好きだったことや、こだわっていたことを再び取り込むように勧めている。子どもの頃の自分と今の自分がつながると、それが一つの物語になるからだ。この物語を持っている人は新たな働き方を見出しやすい。(p.x)

突き詰めると考えるべき点はこれだ。何が好きで、何が得意で、何にこだわりがあるのか。自分で自分に問いかけると、あまり誇れるようなものが何もないことに気付く。

バスケが好き(得意ではない)だが、定年後まで続けられるかというと体力的に無理があるだろう。読書やゲームも好きだけれど、定年後とか関係なく、今でもそれなりにできているとも言える。旅行とかしたいけれど、若いうちにしたいことであって、定年後にはどうだろうか。いずれにせよ、仕事との関連を見出だせそうにない。

もっと、大きな括りで考えてみるか。何が好きで得意か。教えること、文章を作ること、統計分析。この3つだろうか。あまり稼ぎを気にしなければ、それなりに仕事に繋がるかもしれない。

緩やかに仕事の幅を広げていきたい。正確には幅というよりも、クライアントと収入の多様化ということだろうか。

他方で障壁はある。会社の兼業規程だ。定年後のことを考えると、少額でも良いから対価を得ておきたい。単なるボランティアではなく、小さくてもいいから仕事として、成立するようにしたい。

少しずつだが、社会は変わっていくと思う。働き方が多様になるだろう。小さな仕事で、小銭を稼ぐというのではなく、収入を多様化し、世の中の急激な変化に耐えられるようにしておくのだ。

個人も社会も延ばしてきた寿命の中身を充実させる段階に来たと言える。量から質への転換が求められているのだ。「定年後」の問題はその中核のように私は思える。(p.66-67)

量から質への転換。残りの人生はあと40年間ある。65歳定年だとすると、定年後は15年もある。ここをいかに楽しく、笑顔で人生を過ごせるか。苦役の対価としての給料ではなく、好きなこと、得意なことで、多様な仕事に携わる。

今の会社で組織の不条理さ不合理さを思い知らされている。会社を利用しつつ、自分の人生を自ら決め、幸せな定年後を送りたい。準備に早すぎるということはない。

↑↑↑

 

(感想文の感想など)

定年がまた一つ近づいている。順当だと四半世紀近く残っているのだけれど。

今の組織から面白い仕事がなくなりつつある。面白い仕事を創造していかないと、人生の早い段階でリビング・デッドになってしまいそうだ。

教えること、文章を作ること、統計分析というのが得意ということだけれど、この頃からプラスされたのが、ボードゲームを作ることができることも新たに判明した。リリースする前にコロナ禍があって、ちょっと足踏みしているが、新しい展開に繋がれば嬉しいところ。

仕事を面白くするのは難しいけれど、面白い仕事を新たに生み出すのは存外、私の新たに発見された能力の一つかもしれない。そうだと良いな。

感想文20-41:ダイヤモンド 欲望の世界史

f:id:sky-and-heart:20201031071315j:plain

炭素物語(感想文20-39)に続く、炭素関連本。炭素の中でも特殊な位置づけであるダイヤモンドが本書の主役だ。

私はダイヤモンドを所有していないが、プレゼントしたことがある。そう、婚約指輪だ。20代なかばでたいして貯えがなかった状況でそこそこ高い金額を出したが、その後に購入した乾燥機付きドラム型洗濯機や電動自転車よりは安価だったことを覚えている。

それから、元素図鑑にある炭素のページで「ダイヤモンドは永遠の輝き」というのはデビアス社のキャッチ・コピーであって、事実ではないことを知って愕然とした。ダイヤモンドは燃えるのだ。

そんなダイヤモンドだけれど、今でも人気が高い。ダイヤモンドを買った時には、ゼクシィで基礎知識の4C、つまり、色(カラー color)、透明度(クラリティ clarity)、重さ(カラット carat)、研磨(カット cut)とかは学ぶがダイヤモンド産業の現状と歴史と将来動向は載っていない。そりゃそうだ。購買意欲を失わせるような情報は載せない。

宝飾品の歴史についての本といえば、真珠の世界史(感想文14-25)が大変良い本で、こちらも興味のある方はお読みするのをオススメしたい。養殖真珠が天然真珠の市場を奪うのだけれど、もちろん技術開発も重要だったが、ココ・シャネルの貢献も大きかったのが興味深い。

さて、本書の著者である玉木俊明さんのお名前を見たことあるなと思ったら、10年以上前に著作である近代ヨーロッパの誕生(感想文09-80)を読んでいた。経済史学者ということで幅広い見識をお持ちのようだが、書き方にクセがあるせいか、若干読みにくい(読み進めにくい)のが玉にキズ。ダイヤモンドにキズはつかないけれど。

ダイヤモンドの歴史とは、欲望の歴史である。この高価な商品は、人々の欲望を表しているからである。正確には、人々の欲望がいかにして強くなっていったのかがわかるのである。(p.12)

ダイヤモンドは欲望の結晶とも言える。それは消費者(需要)だけでなく、生産者(供給)の欲望もまた同時に映し出している。

私のアップデートされていない古い知識では、ダイヤモンドの生産地と言えば南アフリカだった。ところが、現在のダイヤモンド産出量1位はどこかご存知だろうか。本書に掲載された世界のダイヤモンド産出量 2018年のデータによると、1位がロシアで、以下、ボツワナ、カナダ、アンゴラ南アフリカとなっている。確かにアフリカは生産地として多いが、1位がロシアなのだ。そういえば、私のプレゼントしたダイヤモンドはどこで産出されたのだろうか。

また、先程も言及したデビアス社。ダイヤモンドと言えばデビアスというくらいの代名詞的存在だが、その会社が創業された背景は全く知らなかった。

南アフリカにおいては、この地を植民地とするイギリスのむき出しの帝国主義政策が、デビアスという会社を通じて、ダイヤモンドの産出と貿易、加工、さらには販売に至るまで貫徹されたのである。(p.146)

創業者はセシル・ローズ(1853-1902)。同い年生まれは、北里柴三郎ゴッホローレンツ、オストヴァルト、緒方正規という面々。科学者多し。北里柴三郎と緒方正規についてはスキャンダルの科学史(感想文08-11)が面白いが、全然別の話。

ダイヤモンドの歴史、特に近代では主役となるデビアス社は、イギリスの帝国主義の賜物だ。ビジネスモデルは極めてシンプルで、ダイヤモンド鉱山を独占し、価格管理をし、生産者余剰を最大化するということだ。技術革新は全く無く、ただ鉱山を買い占めていくのだ。製鉄業界の事例(インドの鉄人(感想文20-31)参照)のように。

ダイヤモンド産業には、景気が良い時と悪い時があった。それを避ける唯一の方法は、ダイヤモンドの産出と流通を支配することだと、ローズはきづいていた。(中略)世界にダイヤモンドを供給している鉱山のほとんどを入手したため、ローズは信じられないほどの金持ちになり、彼はその富を、イギリス帝国主義のために使った。この点で、ローズはかなりの愛国者であったのである。(p.112)

南アフリカから産出されるダイヤモンドを独占することで莫大な富を生み出し、それをイギリス帝国主義のために投入する。いつもイギリスはエグいことを平気でする。
もう1点、気になった箇所を挙げておこう。イスラエルとの関係だ。

イスラエルの)工業製品の輸出に占めるダイヤモンドの比率は約25%と、かなり高い。イスラエル経済にとって、ダイヤモンド輸出はきわめて重要である。それは、ユダヤ人が長期にわたりダイヤモンドの貿易に従事してきた遺産ともいえよう。(p.20)

イスラエル渡航し、イスラエル本もイスラエルを知るための60章(感想文17-14)イスラエル(感想文17-15)などで読んだけれど、ダイヤモンドに関する記述の記憶はない。

外務省のイスラエル国基礎データによると、確かに主要産業の鉱工業でダイヤモンド研磨加工がまっさきに出てくる。

ユダヤ人とインド人のジャイナ教徒は、マイノリティーの宗教をベースとする家族制度を利用し、発展を遂げた。近代的なダイヤモンドビジネスは、依然として、伝統的な家族企業の形態をとって発展しているのだ。(p.208)

イスラエルユダヤ人とインドのジャイナ教徒が、ダイヤモンド加工の大きな担い手であり、宗教と華族制度が基盤となっている。ダイヤモンドはただ採掘すれば良いのではなく、削って磨いて美しく仕上げなければならない。その手作業のところはイスラエルとインドが分業している状況だ。

さて、最後に考えたいのが、今後のダイヤモンドビジネスだ。

合成ダイヤモンドは天然ダイヤモンドよりも安く(しかも、ますます低下している)、しかも環境を破壊しない。したがって将来的には、いや、かなり未来には、合成ダイヤモンドが天然ダイヤモンドに取って代わる可能性もある。ただし現在のところ、宝飾用ダイヤモンド市場における合成ダイヤモンドの占める割合は非常に小さい。(p.213)

最大のライバルは、ちょっとかっこよくラボ成長ダイヤモンド(Lab-growth diamond)と呼ぶらしいが、合成ダイヤモンドだ。天然の優位性はどこにあるのか。実のところ、ほとんどない。見分けもつかない。紛争を意図的に生み出し、採掘に環境破壊が伴うことを考慮すれば、人工的に生産されたダイヤモンドに高い価値が見い出されるようになってもおかしくはない。

現時点で人工的にダイヤモンドをつくるためには、多くの時間とエネルギーコストがかかる。だからこそ、そこまで安くはなっていない。しかし、より簡便にダイヤモンドをつくる技術が開発されるのはおそらく時間の問題であろう。そうなるとダイヤモンドの市場は大きく変貌するだろう。端的に言えば、価格は下がり、取引量は増える。

真珠のように養殖真珠が主流となり、もっとたくさん日常的に使える宝飾品になるかもしれないし、ケミカルに新たな色や輝きのあるダイヤモンドが生まれるかもしれない。

希少性は失われるかもしれないが、すでに市場に出回っている大きな天然ダイヤモンドはその地位を揺るがすことはないだろう。私が婚約指輪用に購入した小粒のダイヤモンドは、その価値が鉛筆の芯とさほど変わらない扱いにされてしまうかもしれないが、そのときは、一緒に火葬していただき、地球規模の炭素循環に貢献すれば良いのではないだろうか。

結局、ダイヤモンドは炭素なんだ。そんなに希少な元素でないのに、独占によって価格をコントロールされ、希少だと宣伝で刷り込まれた、歴史的に最も過大評価された鉱物なのだという厳然たる事実に、ようやく皆が気付かされだしたということに過ぎないのだ。たぶん、もう天然ダイヤは買わない。

感想文16-40:白い航跡

f:id:sky-and-heart:20201031070808j:plain

※2016年12月28日のYahoo!ブログを再掲

 

↓↓↓

吉村昭さんの作品が最近、お気に入りだ。

ニコライ遭難(感想文12-08)戦艦武蔵(感想文12-13)羆嵐(感想文12-35)大黒屋光太夫(感想文15-17)といずれもハズレなく面白く、さほど歴史を知らない私にとっては新鮮であり、また淡々とした描写が読んでいて小気味良い。

調べてみると作品数が多く、その中から興味深そうなものをピックアップしてぼちぼちと読み進めることにした。その第1弾が本書だ。

主人公は高木兼寛(1849-1920)。ウィキペディアによると『日本の海軍軍人、最終階級は海軍軍医総監(少将相当)。医学博士。男爵。東京慈恵会医科大学の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。当時日本の食文化では馴染みの薄かったカレーを脚気の予防として海軍の食事に取り入れた(海軍カレー)。』とある。

同じ1849年生まれは、イワン・パブロフ、ジョン・フレミング西園寺公望乃木希典。兼寛は江戸後期から明治時代、大正時代の一部を生きた。

高木兼寛のことは本書を読む前から存じ上げている。随分昔に読んだスキャンダルの科学史(感想文08-11) にある脚気菌事件は有名だし、そもそもイギリスを発祥とする疫学を学んだことがあるので、その中で高木兼寛森鴎外との対決はよく知っている。

ところが、高木兼寛その人自身の人生のことをよく知らない。ということで、ちょうど本書に行き当たり読んでみることにした。いつものように気になる箇所を挙げておこう。

日本の医学校と陸軍の医務機関はドイツ医学を全面的に採りいれ、イギリス医学を導入しているのは海軍のみと言ってよい状態だった。

江戸が終わり、明治になり、日本は進んでいる海外の国々の制度や学問を貪欲に取り入れた。医学には二つの選択肢があり、ドイツとイギリスだった。

ドイツはコッホのような細菌学のメッカであり、基礎医学の中心地だった。一方でイギリスは、ジョン・スノーによるコレラに対する疫学調査のような臨床医学を得意としていた。兼寛はイギリスに5年間留学し、イギリス式の医学を学んだ。

明治11年には海軍の総兵員数は4,528名であったが、脚気患者は1,485名にものぼり、それは総人員の32.79%にあたっている。死亡者数は32名。(中略)4年間の死亡者数は146名に達していた。

海軍兵員の約3分の1が脚気にかかっていた。原因不明の病気によって、戦力が大きく減少してしまうことは大問題になっていた。

兼寛が食物の栄養バランスに病因があると考えて、米・麦等分の主食を海軍の兵食とさだめたのは、まさにイギリス医学の臨床重視の姿勢そのものであった。つまり、かれは、実証主義に徹して海軍創設以来大問題であった脚気患者の死者をゼロにすることに成功したのである。

脚気感染症であると考えられていた時代に、食物を変えることで病気の発生を抑えるという手法に対して、ドイツ医学派から苛烈な抵抗があった。しかし、本質的な原因が分からなくとも病気を抑え、予防することができる疫学的手法は極めて実践的であり、スピーディに、時には低コストで対応できる。

日本陸軍の朝鮮派兵から台湾平定までの戦死、戦病者の数について奇妙な現象がみられた。戦死者は977名、戦傷死者293名であったが、これに対して病気にかかって死亡した者は実に、20,159名にも達し、圧倒的に多かったのである。(中略)脚気患者で死亡したのは3,944という戦慄すべき数字で、戦死及び戦傷死者の合計の3倍以上にものぼっていたのである。

他方で、ドイツ医学派で固められていた陸軍では、麦飯が取り入られることはなかった。結果、多くの死者を生み出し、戦争ではなく栄養バランスの崩壊によって尊い人命が多数失われたのだった。

数多くの欧米の医学者たちは、栄養バランスのくずれた食物の摂取が脚気の原因として主張した兼寛の説が、ビタミンB欠乏を原因とする学説に発展したものとして、兼寛を脚気研究開発の第一人者としている。日本では、その後、オリザニンを発見した鈴木梅太郎によって脚気が消滅したとされたが、欧米では兼寛を世界にさきがけてそれを根絶した医学者として最大の敬意を寄せていたのである。

日本ではあまり名前の知られていない高木兼寛だが、このように世界的には著名で、大きな貢献を果たした人物として尊敬されている。ただ、脚気という病気そのものは白米にこだわった日本で顕著な病気であったので、グローバルな病気の克服とは考えられていない点は付記しておく。

高木兼寛は、英国留学を果たし、35歳で『海軍全体の医務関係を総轄する最高責任者』となり、脚気を克服し、医学における『第一回の博士の学位の授与者』の一人となった。私が知っているのは、あるいは私が知りたかったのはここまでだったのかもしれない。

残酷なのはこれほど有能で偉大な人間が、老害化していくという事実だ。栄養の重要さにこだわるのは良いが、そこにエビデンスのない持論が混じり、独自の健康法の開発へとつながっていく。学校で講演するなど、その活動は精力的に続いた。

若くして成功した兼寛だが、その晩年は相対的に残念な人物へと変質していく。これもまた人間の姿なのだ。本書を通じて兼寛の生涯は必ずしも良い時期がいつまでも続いたというわけではないということを知った。

高木兼寛は偉大であることに変わりはないし、森林太郎(鴎外)は医師としては非難されて妥当であろうと思う。しかし、森林太郎には鴎外という文学者としての側面があり、兼寛には晩年の独自の健康法開発という残念な一面もある。

大きな仕事をなし、偉大な業績を挙げた人間であっても、触れてほしくない一面もあることだろう。

そういったところまで余すところなく描ききる吉村昭さんの作品を今後も少しずつだが読んでいきたい。

↑↑↑

 

(感想文の感想など)

読み直すと、高木兼寛は慈恵医大を創設してたんだね。吉村昭さんの本は、その後もちょくちょく読んだので、その感想文はまた何かの機会に再掲します。

感想文15-17:大黒屋光太夫

f:id:sky-and-heart:20201031070420j:plain

※2015年4月21日のYahoo!ブログを再掲

 

↓↓↓

羆嵐(感想文12-35)以来の吉村さんの小説。

タイトルの通り、主人公は大黒屋光太夫(1751-1828)。名画で読み解く ロマノフ家 12の物語(感想文15-05)で光太夫が紹介されていて、こんな日本人がいたんだと驚き、本書に辿り着いた。その頃の誕生と出来事は、ラプラス(1749)、ジェンナー(1749)、ゲーテ(1749)、大英博物館創立(1753)、ルイ16世(1754)って感じ。

太夫は船乗りで、三重から江戸に向かう途中に嵐に会い、漂流し、ロシアに漂着する。そこからロシアを横断し、最後には日本に戻ることができる。

その移動距離が凄まじい。白子→アムチトカ島→カムチャッカ→チギリ→オホーツク→ヤクーツク→ブキン→イルクーツク→トボリスカ→エカテサンボルグ→カザン→ニジノゴロド→モスクワ→ツワルスコエセロ→ペテルブルグ→そして来た道をほぼ戻る。

18世紀にロシアの東の端にある小さな島から首都のペテルブルグまで行き、当時の女帝エカテリナに拝謁する。数奇な人生を送ることになった光太夫の過酷な旅路の物語だ。

気になる箇所を挙げておこう。

日本のような小さな島国などその存在すら知らないだろうと思っていたが、意外にもほとんどの者がある程度の知識は持っていた。日本をヤッポンスカヤと言い、温暖で豊かな国と理解していて、その国名を口にする時、かれらの眼には憧れの光がうかぶのが常であった。

イルクーツクでのことだ。当時、日本は鎖国で、オランダとしか交易をしていない。そのため、海外の事情は、オランダを通じてしか分からないし、海外にとっても日本のことはオランダを通してしか分からない。それでも隣国である大国ロシアは日本のことを知っていた。

ロシア政府は、オランダ等からの情報で日本がきびしいキリシタン禁制を国是としていることを知っている。海難事故で他国に漂着した者がキリスト教系の宗教に帰依すれば、その者の帰国の道は完全に断たれる。そのことを知った政府は、教会で漂流民に洗礼を受けさせて故国へ帰る望みを放棄させ、日本語教師としてとどまらせるという方法をとっている。

日本の特殊事情をロシア政府は正確に把握しており、それを利用していた。日本と交易はないが、偶然に漂着する日本人はたまにいる。彼らをうまく取り込み、言語、文化、最新情報を入手する。帰国の望みを断つことが、ロシアにとって有利となる。本作でもあったが、美しいロシアの女性と関係を持ち、離れがたくするという手法もある。これは極めて有効な手段かもしれない。

太夫の胸の底には(中略)人の情けにすがらなければ生きてゆけない悲しみがある。

漂着した光太夫たちには何もない。あるのは日本人という希少性だ。ロシアの言葉を覚え、これまでの漂着して、旅をしてきた話をして、ロシア人に同情してもらう。日本に帰りたいという思いと、それに同情するロシア人と、それを政治利用したいと考えるロシア政府。それぞれの思惑が交じり合う。

女帝エカテリナに拝謁することができて帰国の許可が下され、餞別として多くの貴重な品々と金銭が下賜された。

女帝エカテリナ(エカチェリーナ2世)は、光太夫に会った時に、何を思ったのだろうか。ロシアを横断し苦労して帝都に辿り着いた異国民と、ドイツ出身でありながら長年我慢に我慢を重ねてツァーリになった自分の姿と重なる部分があったのかもしれない。
こうして、無事に帰国が許され、しかも最大限のVIP待遇で、帰ることとなり、光太夫たちの人生は、再び大きく変わることになる。

太夫と磯吉に対し将軍家斉が引見することが伝えられ、二人は驚き恐懼した。

ロシア語を話せ、ロシアの事情がわかり、ロシアのトップと会ったこともあるという光太夫は、故国である日本においても貴重な存在となる。将軍と会うという、単なる船乗り人生では、ありえない自体にまで行き着く。

こうして感想文としてまとめていると、光太夫の人生は苦労はしたが、順風満帆に見えるかもしれない。しかし、現実は極めて過酷だった。当初、船には17人が乗船していたが、うち12人は死亡し、2人はロシア正教の洗礼を受けたためロシアに残り(日本に戻ることができず)、3人が日本に戻るが、1人は北海道で死亡する。

とにかくロシアは寒い。三重で育った船乗りたちは、寒さに対応できず次々と死んでいく。日本に戻れず、家族にも会えず、寒い土地で死ぬ。

日本に戻れないことを分かっていながら、洗礼したのには理由がある。洗礼されないと埋葬されないのだ。そのため、死んだら野ざらしになり、野犬に喰われてしまう。死んで犬に喰われることと日本に戻れないことを天秤にかけ、洗礼を選ぶ。そういう心境になるのも仕方ない。

ロシアに漂着した者は皆、日本に帰ることについて希望を抱き、そして絶望する。その心境の揺れ、苦しさ、悲しさ、寒さ、辛さが、吉村さんらしく淡々と描写される。

太夫たちにとって幸運だったのが、博物学者であるキリロ(キリル・ラクスマン)との出会いだった。女帝とのパイプのあるキリロの全面協力がなければ、帰国することも、こうして小説になることもなかっただろう。

ちょうどこの小説は、常夏のシンガポールからの帰国便の中で読んでいた。わずか5日ばかりの海外出張だったが、本書を読んで帰国できることに有り難みをしみじみと感じた。

↑↑↑

 

(感想文の感想など)

三重県鈴鹿市大黒屋光太夫記念館があるらしい。漂流するスタート地点となった白子港からほど近いところに立地している。機会があれば行ってみてたい。

感想文12-35:羆嵐

f:id:sky-and-heart:20201031070018j:plain

※2012年6月8日のYahoo!ブログを再掲

 

↓↓↓

戦艦武蔵(感想文12-13)以来の吉村さんの小説。ウィキペディアで有名な三毛別羆事件で一度、読んでみたいと思っていた。吉村さんの本は、淡々としていて、それがかえって読者の想像力を刺激し、真に迫ってくる。

舞台は、北海道の三毛別(さんけべつ)六線沢。もともとは東北に住んでいた人が、そこに移り住んできたのだ。

六線沢は未開の山林中に位置し、そこに村落が形成されたのは、自然の秩序の中に人間が強引に闖入してきたことを意味する。

ということで、むしろ人間が後から入ってきた。しかも、もともと北海道住民でなかったので、羆(ヒグマ)がどういう動物なのか知らない。

内地の熊が最大のものでも30貫(110キロ)程度であるのに、羆は百貫を超えるものすらある。また内地の熊が木の実などの植物を常食としているのとは異なって、羆は肉食獣である。(中略)人間も、羆にとっては格好の餌にすぎないという。

そう、クマとヒグマは違う。ぜんぜん違う。ニホンザルチンパンジーくらい違う。ってこの表現も分かってもらえないだろう。ヒグマはでかい、しかも肉を食う。森の中でクマに出会うのはまだいいけれど、ヒグマに出会ったら死を覚悟した方が良い。

本の内容に深入りしないけれど、ヒグマが人を襲い、そして食べた。

女の肉体の味を知った羆は、家々を襲って女体を求めて歩きまわっていることはあきらかだった。

印象的だったのが、女が愛用していた湯たんぽ代わりの石にヒグマが異常な執着を示していたシーンだ。欲望に一直線なヒグマを象徴している。

とはいえ、ヒグマは無敵ではない。銀牙-流れ星 銀-の赤カブトもやられるように、見事に仕留められる。

クマ嵐だ。クマをしとめた後には強い風が吹き荒れるという

これが本書のタイトルの由来。

頭の頂きから足先まで九尺(2.7メートル)、前肢蹠幅6寸6分(20センチ)、後肢蹠長1尺(30センチ)で、体重は102貫(383キロ)であった。

でかい。シャキール・オニールよりもボブ・サップよりもでかい。

区長は、羆の肉を食おうと思った。銀四郎は仕来りだといったが、それに従うことが、村落の者にとって土により深く根をおろすための必要条件なのだと思った。

村民を食ったヒグマを食べる。一種のカニバリズムみたいだけれど、村民は決断する。ヒグマが住む地域へのニューカマーの通過儀礼として、ヒグマを食べた。食うか食われるかなのだ。

銀四郎が羆に対して非力な存在であることを自覚しながら、銃一挺を頼りに羆を斃して生きてきたことに気づき、銀四郎は物悲しさも感じた。

ヒグマを倒したのは、ヒグマ退治の名人である銀四郎だ。酒を飲むと人格が豹変し、荒れる。ヒグマを倒すことにのみ存在意義があるような男だ。しかし、その酒癖の悪さは、悲哀と隣り合わせだ。ヒグマに対してあまりに非力な銀四郎。そんな銀四郎の心理とそれを慮る村長。二人の微妙な気持ちが、丁寧に描かれていて面白い。

今年の4月にも秋田八幡平クマ牧場で、ヒグマが6頭脱走し、2人が殺される事件があった。ついつい人間は過信してしまう。ヒグマはクマではない。戦ったら食われる。クマ牧場に行くときは、それがクマなのか、ヒグマなのか、ちゃんと把握しておくことをオススメする。

↑↑↑

 

(感想文の感想など)

今でもヒグマが町で出没したり、飼い犬が襲われるというニュースを見受ける。

ちょうど真っ最中なのでどういう結論になるかわからないが、注目している行政訴訟がある。北海道の猟友会所属のハンターが北海道公安委員会を相手取って起こした。

ざっくりとした経緯は以下のとおり。

2018/8/21:ヒグマを銃撃し、駆除

2018/10初旬:警察が、鳥獣保護法違反、銃刀法違反、及び火薬取締法違反とし、銃と所持許可証を押収

2019/2:書類送検後、不起訴処分を決定

2019/4:公安委が住所時許可の取り消し処分を決定→行政不服審査請求

2020/4:行政不服審査を棄却

2020/5:ハンターが公安委を提訴(行政訴訟

2020:銃がないので駆除できず、ヒグマの出没相次ぐ←今ココ

誰にも得にならないことを行政が行っているようにしか見えない。とはいえ、事件の全貌はまだ見えないので、裁判でこれから明らかになっていくことだろう。

感想文09-80:近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ

f:id:sky-and-heart:20201031065340j:plain

※2009年12月19日のYahoo!ブログを再掲

 

↓↓↓

今年、感化されたウォーラーステイン近代世界システム論(感想文09-56)が出発点になっているという理由だけで、本書を手に取った。

率直な感想としては、経済史に通暁していないと難しい、ということだ。ちょっとしたウォーラーステインかぶれでは、手に負えない。もっと楽しい話が書いてあるかと思ったら、専門的で固い。土地勘のない人間には厳しい(と思う)。

さて、今、世界の覇権(ヘゲモニー)を握っている国は?と聞かれたらアメリカ?と答える人は多いだろう。一時ほどの勢いが無くなっているので、今のアメリカがヘゲモニー国家かというと意見は色々あるだろう。

歴史を紐解いてみると、その昔、オランダがヘゲモニー国家であり、その後、イギリスへと推移していった、と言われている(ウォーラーステインによると)。なぜオランダがヘゲモニー国家となり、どうしてそれがイギリスへと移行したのか、それについて本書では丁寧に説明している。

分かっていないなりにもぼくなりに整理してみたい。

16世紀になり、ヨーロッパでは人口が増加した。食糧が不足し、そして木材が不足した。当時、石炭も石油も使われてなかったので、実質的に木材が主要なエネルギー源だった。そして、海運業が基幹事業であったが、そのための造船用の木材も不足した。

ヨーロッパの中心地だったイタリアから、次第に北へと移り変わっていき、そしてオランダがその中心地になっていった。17世紀の半ばに最盛期=黄金時代を迎える。

ちなみに日本が出島でオランダと貿易していた時期(1641~1659年)と重なる。オランダがヘゲモニー国家だったからこそ、日本は貿易相手としてオランダを選んだのだろう。

当時のオランダは、中継貿易が巨万の富を得た。海運業で完全にヨーロッパを支配し、輸送料でがっぽり儲けた。初期的な金融業が発達し、近代の幕開けとなっていく。

ふむ。レーフェンフックとフェルメールは、黄金時代の人たちだったんだね(西洋博物学者列伝(感想文09-29)参照)。

その後、18世紀に産業革命が起こり、フランス革命が起こり、オランダ以降のヘゲモニー争いが、英仏間で起きる。フランスがしくじり、大英帝国が築かれていく。そして、イギリスはロシアと貿易をして、世界システムのプレイヤーが変わっていく。

まあ、こんな感じ。

本当は様々な角度から詳細に書かれていて、バルト海を中心とした近代の整理は面白かった。あまりにも知らないことだらけなので、うまくまとめられないけれど、ダイナミックな世界史は何となくざっくりと把握できたように思う。

↑↑↑

 

(感想文の感想など)

現在、アメリカと中国で覇権(ヘゲモニー)争いが行われている。アメリカはインドとオーストラリアを巻き込んでの中国包囲網で対抗し、ファーウェイへの半導体禁輸やTikTokの事業停止などビジネス面での制裁を行っている。

しかし、中国の台頭は、アメリカの落日とパラレルに起きている現象に思える。昨今の大統領選を見ても分かるように国家の分断はより深まっている。老人同士のうんざりするような醜い罵り合いは、アメリカの国家運営あるいは国家の仕組みそのものの老朽化を映し出している。

アメリカだけの話では当然なくて、国家そのものが陳腐化している。世界の覇権を握るのは、国家ではない時代が到来する、いやすでに到来しているかもしれない。GAFAといった超巨大企業が実態的にビジネスを掌握し、国家は独占禁止法くらいでしか対応できない。

いや、こういう状況になってくると、ヘゲモニーというコンセプトがそもそも成り立たなくなっているのかもしれない。ヘゲモニー国家主義がなければ存在し得ないからだ。

とまあ、適当に思うところを書いてみたけれど、GAFAも盤石ではない。新たに登場した技術やビジネスが塗り替えていくかもしれないし、そうなっていくのが健全だろう。

感想文08-11:スキャンダルの科学史

f:id:sky-and-heart:20201031064129j:plain

※2008年3月21日のYahoo!ブログを再掲

 

↓↓↓

図書館で借りたこの本。結構面白かった。

色々と書きたいことはあるけれど、今回取り上げたいのは、「医学博士号売買事件‐勝矢信司」。理由は、ウェブ上では情報がさっぱり載っていないこと。その他の事件はわりと有名になっているかもしれないけれど、これはかなりマニアックらしく、あまり誰も取り上げそうになかった。そして、最近、横浜市大で同じような事件が発覚したこともある。

さて、勝矢教授の事件は1933年(昭和8年)の12月に新聞沙汰になった。舞台は長崎大学。背景には同大学の東大派と京大派の対立があり、博士号の審査が両陣営の代理戦争と化していたことが、賄賂の温床となった。要するに東大側の学生が博士号を取ろうとしたら、京大派の教授に賄賂が必要ということになり、ごたごたして裁判になり、学位売買が明らかになった。

事件が明るみになった時に、助手ら100人が集会を開き、「関係教授の即時自決と学長の退任」の決議をしたとある。「即時自決」とは非常に強烈苛烈。

結果的に勝矢教授は「公務員の贈収賄」で起訴され、教授職を退くことになった。この長崎大にとっての黒い歴史は、その後もあまり取り上げられることなく、70年以上も経過した。

そして、今も似たような事件が起きている。横浜市大しかり、ディプロマミルしかり。かの寺田寅彦昭和9年に、勝矢事件に関連して、テクスト「学位について」を書いている。

こういうのが簡単に読めるようになったのは本当にスゴイといつも感心する。その中から一部紹介。

学位などは惜しまず授与すればそれだけでもいくらかは学術奨励のたしになるであろう。学位のねうちは下がるほど国家の慶事である。紙屑のような論文でも沢山に出るうちには偶(たま)にはいいものも出るであろうと思われる。

なるほどね。博士号授与をもったいぶっているから、こういう事件が起きる、と。博士号が今も昔も研究者の通行手形としての価値があるので、こういう事件が後を絶たない。博士号なんてたいしたことない、という風になれば、それが商売にはならない。

うんうん。当時これだけ思い切ったことを言ってたんだね。多くの大学がカルチャーセンター化している。子供の数が減ったから、それだけ生徒数も見込めない。社会人入学者の数を増やして、授業料を補おうとする。古色蒼然とした講義よりも、新鮮で注目を浴びるようなお話をして、修士号なんかを授与する。

これは一つのビジネスモデルだろうし、今も「学」に価値があると考えられているからだ。

ぼくは学問の荒廃を危惧しているのではない。中身よりも器を欲しがっているだけなのかもしれないけれど、何かを学びたがっているというのはそれだけ社会が裕福な証拠だと思う。学問への参入者が増えれば、それこそたまには大当たりが出るかもしれない。

学位の売買事件は、ごく限られた学位神話が通じるところでしか起きないのだろう。カルチャーセンター化した大学はむしろ寺田寅彦が望む時代になってきているとも言えるだろう。

その他、大変興味深かったお話は文末の通り。脚気菌、伝研、森鴎外は三点セットで読むと大変楽しいお話であると思います。千里眼、血液型、男女産み分けは現代にも通じるエセ科学の話がずいぶん古くから続いているんだなとしみじみ感じます。心臓移植は今でもその苦い経験が残っている事件で、これが書かれた当時から根本的な医療専門家集団が抱える問題は全く解消されていないのがよく分かる。最後の文部大臣自決事件は、こんな骨のある人が当時は大臣をしていたんだなぁと感慨深く読みました。

↑↑↑

 

(感想文の感想など)

改めて寺田寅彦「学位について」を読み返してみた。

現代風に言えば、博士号安売りのディプロマミルや博士号を人質にしたアカハラのようなマイナス面より、学問に興味を持って博士号を取ろうとする人のマスが増えることのプラス面が大きいんじゃないかという感じだろうか。

昨今の日本学術会議への一般国民の冷たい視線は、権威への反発もあるだろうけれど、大学で受けたハラスメントへの意趣返しという面もあるんじゃなかろうか。結構、大学でアカハラパワハラモラハラアルハラ受けたって話はよく聞くんだよね。そういう言葉がなかった時代も含めてね。