40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

出生前診断について

※2012年10月末(日付不明)のYahoo!ブログを再掲

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久しぶりに読書感想文以外のことについて書きます。

NHKスペシャルとして2012年9月16日に放映された出生前診断 そのとき夫婦はを見た人も結構いると思います。

出生前診断それ自体は決して新しい技術というわけでもないのですが、米Sequenom社が次世代シーケンサーを用いて、妊婦の血液に含まれる胎児の微量のDNAを解析し、99%の精度でダウン症を判定できる技術が開発されるなど、技術革新があり、正確性の高い技術として脚光を浴びつつあるという背景があります。

しかしながら、技術によって胎児に異常があるかどうかは判別してくれますが、最終的な判断、つまり、産むか堕ろすかの判断は夫婦に委ねられます。その時点でものすごく苦しむわけです。

これは重いなと、全く他人事でなくテレビを見てました。テレビでは産む方を選びましたが(そりゃ堕ろす方を選んだ方はテレビに出てくれるわけはない)、その選択が正しかったのかはずっと悩むことでしょう。

イギリスの事例も紹介されており、やや扇動的に出生前診断による中絶割合が92%である点を報道する記事(こうのとり追って:出生前診断・英国編 妊婦の選ぶ権利尊重, 毎日新聞, 2012年09月06日)もありましたが、実際にイギリスの報告書では統計をとった1989年からずーっと9割を維持しています。この事例はダウン症に関連する検査についてです。

興味深いのは出生したダウン症児が増加しているということです。理由は分かりませんが、日本と同様に出産年齢が高くなっているためかもしれません。決して産む選択をする親が増えているというわけではありません。

日本ではこういった統計がありません。きっとあるのかも知れませんが、ウェブ上に公表はされていません。統計がないのは、出生前診断について色々と考える素地がないことを意味していて、そのためにどうしても感情的な議論になってしまいがちなのではいでしょうか。

既に指摘されていることですが、出生前診断に対する非難は欧米と日本では異なります。欧米ではキリスト教を背景とした中絶それ自体を悪とする非難です。他方で日本ではそもそも中絶はほぼ合法状態なので、中絶は必要悪だけれど、胎児に異常があるという理由で中絶するのは間違っているという非難です。

要するに、欧米では中絶問題であり非難する主体はプロライフ団体で、日本では障害者問題であり非難する主体は障害者団体です。

ということで、夫婦がまさしく自分たちの問題として思い悩んでいる背景には、日本の障害者問題があるということになります。ところがここではたと困ってしまいます。ぼくは障害者問題について全く知らない、っていうかほとんど関心がなかったことに気づきました。

障害者問題が、ぼくたちが直面するかもしれない問題という認識がないばかりか、子どもを作る前からちゃんと把握しておかないといけないという当たり前といえば当たり前のことに気付かされたのです。

長くなりましたが、これは次に載せる障害者の経済学(感想文12-68)の前置きに相当します。障害者について考えることが非常に大事なのに、そのことにようやく気付かされたということを伝えておきます。

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(自分が過去に書いた文章への感想など)

私の中で障害者問題は、私が考えるべき重要課題の一つに位置づけられている。

先日、ダイアログ・イン・サイレンスというイベントに参加する機会があった。聴覚障害者と過ごす90分間は、自分がいかに聴覚に頼っているかを思い知らされるとともに、音を出せない状況下で、しかも顔の下半分がマスクで見えない状態だと、目や眉毛や眉間の動きがコミュニケーションの鍵になり、そしてそれを自在に動かすのがいかに難しいかを思い知らされた。

感想文10-42:日本の臓器移植

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※2010年6月12日のYahoo!ブログを再掲

 

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「どの臓器が好き?」と聞かれたら、ぼくは迷わず「腎臓」と答えるだろう。格差と腎臓でも腎臓移植についてちょっとまとめている。どうやらぼくは腎臓フェチらしい。

腎臓は精巧で、エレガントな作りをしていて、美的センスが凝集されている。そんな腎臓が病気などで壊れてしまったらどうしたらいいか。選択肢は2つ。「透析」か「移植」かのどちらかだ。

周りで透析をしている人がいなかったので、透析の辛さは本書を読むまで知らなかった。非常に長い時間を当接のために費やし、行動が制限される。そりゃそうだ。あんなに美しい臓器を機械で代替できるわけがないんだ。

では、移植はどうか。移植だと、普通の生活に戻れる。免疫抑制薬を服用することになるので、そのために副作用があるとはいえ、はるかに透析よりもメリットが多い。

でも移植には難しい問題が横たわっている。

移植は、ざっくりと分けて2通りある。生体移植か、死体移植か。生体移植とは、要するに生きている人からの移植。親子間とかきょうだい間とか夫婦間とか、親族からドナーを探し出してくる方法だ。当然、生体移植は、肝臓とか腎臓といった、複数個あったり、一部だけを切り取って移植することのできる臓器に限定される。

生体移植の問題点は、公平性といえる。要するに親族が多い人の方が、移植を受けやすいということだ。ドナーになってくれる親族がいない場合には、移植を受けられなくなる。

じゃあ、死体移植というと、心臓死者か脳死者のどちらかがドナーになる。つまり、誰かの死によって、初めて提供が可能になるという、難しい問題がある。

本書は移植医としての率直な意見が示されていて、好感が持てる。移植を推進する立場からここまではっきりとした主張が述べられているのを初めて読んだ気がする。

日本では、1968年の和田心臓移植事件によって、脳死提供が完全にストップしてしまった。この事件が発生していなかったら、日本の移植医療はまた違ったものになっていたかもしれない。日本で未だに移植医療が根付かないのは、この事件が適切に精算されていなかったことが大きいように思う。

さて、本書から印象深かった箇所を引用してみよう。

外科医は病気の患者さんを治すために身体にメスを入れるのであって、健康な人に傷を負わせるのは外科医の魂(スピリット)に反することなのです。(中略)生体腎移植によってこのような幸せを多くの人が感じられるなら、私は外科医としてのスピリットを捨ててもかまわないと思っています。

さっき生体移植の問題点として公平性を挙げたけれど、もうちょっと根本的な問題がここに凝集している。そう、生体移植は、健康な人の体を傷つけることになってしまうのだ。そのために、ドナーに副作用が起きてしまう場合もある。

がん患者をドナーとする臓器移植は生体腎でも献腎でも、現段階では実験的な医療だということです。がん細胞をそのままレシピエントへ移入する可能性が高く、免疫抑制薬を服用している移植患者は、がんを発症するリスクが高くなるからです。

病気腎移植がちょっと前に話題になった。レシピエントにとっては、透析とがんのどちらを選ぶのか、究極の選択だ。一方でドナーにとっては、治療のための摘出と、提供のための摘出では、血管の処理方法が異なる。治療のためと提供のためを必ずしも両立できない。

とはいえ、それだけの理由でこの方法を禁止することもまた適切ではないのだろう。現在も臨床研究として実施されている。

06年には法輪功という気功集団が中国政府から弾圧され、逮捕された会員が移植用に臓器を摘出されているという衝撃的なニュースもありました。

中国では、死刑囚からの臓器移植を実施しているという話は有名。そもそも世界中の死刑執行数の7割が中国だという報告(アムネスティ)もある。死刑囚からの臓器移植自体は決して間違っているとは思わない。問題は、執行された人間が果たして死刑に価するような罪を犯したのかどうか、不明瞭な部分が多すぎるということだ。

さて、本書では臓器移植法の改正を望むとしていた。

そして、実際に昨年、法律が改正された。脳死は一律、人の死となり、15歳未満からの提供も認められるようになった。本人の生前同意がなくとも、遺族が了承すれば提供できるようになった。他方で、親族への優先提供という生体移植で示した公平性が問題となる仕組みも加えられた。

脳死者からの提供は確かに難しい問題がある。それでも、「脳死は人の死」と法的に決められたことは、移植医療を推進する側にとっては、一定の進展となっただろう。

法改正によって移植医療がどう変わっていくのか。個人的には脳死移植が好ましいとは思ってはいないが、脳死移植を推進する方向へ舵をきった以上、脳死移植のポジティブさをうまく制度に落としこんでいって欲しい。

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(感想文の感想など)

中国での移植医療については今でもさっぱり実態が不明だ。恐ろし過ぎて調べようとも思わない。

これは中国に限らず、どの国での当てはまると思うけれど、臓器の闇取引と貧富の格差はリンクしているだろう。残念ながら実証できそうにない。

感想文08-61:容疑者Xの献身

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※2008年11月11日のYahoo!ブログを再掲

 

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珍しく妻が読むのを薦めた本。

妻は滅多に本を読まないし、ぼくが面白いと思って貸した本は、趣味に合わないとか、犯人が気になったとか言って最後から読むとか、まあ、何て言うか、本に限らず趣味が合わないので仕方ないし、だからこそ夫婦生活がそれなりにうまくいってるとも言えるし…。

ええと、何の話だっけ。

そうそう、本書は妻が本当に本当に珍しく薦めた本。

最近、映画化もされ、話題になっている。話題になっている本はあんまり読もうとしないあまのじゃくな性格ではあるけれど、妻との共通の話題にもなるし、ということで読んでみた。

今年は、鳥人計画(感想文08-13)に次ぐ、2冊目の東野圭吾さんの小説。いわゆる理系ミステリーと言われ、所々に散りばめられた理系的観点、論理構成の緻密さ・精密さが読む人の心を捉える。

本書の中身についてあんまりとやかく言っても仕方ない。大変面白かったという妻の意見にぼくは同意する。ありがとう。確かに面白かったです。

ざっくりとあらすじを説明しておこう。

数学と一人の女性に人生を捧げた天才数学者の話。ひょんなことで、女性は前夫を絞殺してしまう。その女性を助けるために数学者は天才的頭脳を活用し、警察の捜査が彼女に及ばないようにする。

ところが、旧友である天才物理学者ガリレオが、この殺人事件に数学者が関与しているという仮説を立て、真実を暴いていく…。

愛する女性のためにまさに「身を献げる」数学者。警察の盲点を突き、退路を断ち、人生を投げ捨て、愛を貫く。

オールオワナッシング、ゼロサム。そんな生き方しかできない、不器用な数学者の想いには、心の底から尊敬するしかない。

数学者の想いは、さいごには女性に届く。そして、それゆえに彼の計画は破綻してしまう。

せつない。

映画も見てみたい。配役もなかなか良い。とはいえ、子どもがいるので、テレビ放映されるのを待つしかないかな。

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(感想文の感想など)

結局、映画見てない。あれ?見たような気もする。あんまり記憶に残ってない。

感想文08-13:鳥人計画

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※2008年3月27日のYahoo!ブログを再掲

 

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たまに小説を読みたくなる。しかもミステリー。

東野圭吾ファンには申し訳ないけれど、初めて彼の本を読みました。理系ミステリーって感じ。素直に面白い。

舞台となるのはスキーのジャンプ競技鳥人とはジャンパーのことなのだ。

近代スポーツには最先端科学が取り入れられつつある。その過渡期、つまりあまりに不完全なまま科学を取り入れた結果、殺人事件が生じるっていうストーリーなんだ。

時代設定は昭和の終わり。確かにこの頃はまだ科学トレーニングなどがそれほど取り入れられていなかっただろう。

個人競技は限界のギリギリで常に戦っていて、記録を1センチでも1秒でも(競技によっては単位が変わるけれど)伸ばしたり縮めたりするために訓練している。適切に筋力をアップしたり、怪我を治したり、集中力を高めるために科学が応用されている。スポーツ科学に関心が向けられ、大学で講座が設けられ始めたのはここ10年くらいだろう。新しい方法が開発され、検証され、改善される。この繰り返しによってスポーツ科学は発展していっている(たぶん)。

人間の限界に挑むのが個人スポーツだ。世界記録は更新される。破られない記録はない。これは人間の可能性が無限に広がっていくことを示している。

ほんの小さな工夫で記録を伸ばすことができるケースがある。むしろそれはその競技におけるパラダイムシフトだろう。背面跳びであったり、バサロ泳法であったり、V字飛行であったりする。

人間は柔軟な生物であり、機械でない。だからこそ最適のモデルというのがないが、環境の変化に対応できる。他方、記録は常に一定ではないし、揺らぎがある。競技においては常に最高の結果を出すことが理想だ。つまり、人間の生物性を維持しつつ、機械的に訓練すると、最高の結果を得ることができるといえる。

いや、この考えは正しくないのかもしれない。

揺らぐのは個体の身体性だけでない。金、名誉、期待、将来なども大きな影響となる。個人は複数の組織(チームであれ、企業であれ、国であれ)に属し、そこから逃れることはできない。メンタルという一言では片付けられない。

ルールがシンプルであり、勝敗が明瞭であることは、すなわちその背景もシンプルで明瞭であるということにならない。人間だからこそ、苦しみ、悩み、そして新たな記録を生み出す。記録されるは個人名だが、記録を作り出すのは個人ではない。

考えていくと、そもそもスポーツとは何か、という問いに辿り着く。記録とも勝利や栄光とも関係がない。「自分を超えること」ではないか。過去の自分を越え、新しい自分を生み出す。その行為の集積がスポーツであり、様々な形態、表現があるのだろう。

トップアスリートのパフォーマンスを見ると、人間の広い可能性を知り、感動する。そして、自身が新しい自身を発見したときには、また違う感動がある。自分を越えること、それ自体が尊いのであり、そして難しいことなのだ。

本書では、スポーツに純粋が故に殺し、純粋が故に殺される。そしてそれを招いたのは、近代スポーツとはもはや切り離せない様々な不純物だった。悲しくも面白い一級のミステリー小説だ。

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(感想文の感想など)

東野圭吾さんの小説を長らく読んでない気がする。脳内で伊坂幸太郎さんと重なるんだよな。ぜんぜん違う作家なんだけれど。

感想文18-17:10万個の子宮

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※2018年6月4日のYahoo!ブログを再掲

 

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強烈なタイトルだ。これまでの人生で、子宮に思いを馳せたことはないし、子宮を「個」とカウントすることにもピンとこないし、さらには10万という圧倒的に大きな数の子宮をイメージすることもできない。

日本では国家賠償請求訴訟が終わるまでに10年を要すると言われる。(中略)日本政府の言う「一時」差し控えがもし10年であるならば、日本の産婦人科医たちは、あと10年、あと10万個の子宮を掘り続けることになる。(p.5)

子宮頸がんワクチンが10年間差し控えられれば、子宮頸がんが発生し、結果的に10万個もの子宮が外科的に摘出されることになる。科学的根拠に基づかない、ワクチン接種の差し控えの行政判断が、結果的に多くの女性(男性も他人事ではない)を苦しめることになる。

貧困と闘う知(感想文17-36)で示されていたように、予防ケアに対しては、需要が弱く価格感受性が強いために、予防医学のメリットが過小評価されてしまう。これはミクロ経済学的な視点だ。

また、かくて行動経済学は生まれり(感想文18-09)にあるように『人は効用を最大にするのではなく、後悔を最小にしようとする』ために、ほんの僅かな(無視できるほどの)確率で起きる副作用事例について、過度に反応してしまう。なぜなら、ワクチンは健康な人に接種するからだ。病気になってから投薬する治療薬の副作用や難易度の高い手術の失敗を許容できても、ワクチンによる副作用を冷静に判断できないのだ。これが行動経済学的な視点だ。

人間は自ら思っているほど合理的ではなく、また思っているほど利口でもない。他方で、そういったヒトが(おそらく)器質的に有している欠陥の存在を発見し、認識し、研究対象にすることも可能だ。

しかしながら、客観的に判断することは極めて難しく、フェイクニュースや感情を過剰に刺激する動画、SNSによるエセ専門家や専門家然とした人や自称関係者からの「情報」提供に加え、バッドニュースと過激な映像を求めるオールド・メディアが加担することで、さらに混沌としてくる。

だが、本書がテーマとしているのは、医療であり科学だ。ヒトパピローマウイルスの存在と感染経路、子宮頸がん発生のメカニズム、ワクチンの作用機序などの研究が行われ開発された子宮頸がんワクチンは、最先端の科学が導入された人類の叡智の結晶そのものなのだ。

確かに最先端の科学が導入されているからと言って、安心できるわけではない。しかし、因果関係どころか相関関係すらはっきりしない副作用リスクを過剰に取り上げ、行政がワクチン接種を差し控えるという判断を行い、さらには集団訴訟によってワクチン再開を遅らせることは、一体誰のために行っているのだろうか。

子宮頸がんワクチン問題は医療問題ではない。子宮頸がんワクチン問題は日本社会の縮図だ。この問題を語る語彙は、思春期、性、母子関係、自己実現、妊娠出産、痛み、死といった女性のライフサイクル全般に関わるのはもとより、市民権と社会運動、権力と名誉と金、メディア・政治・アカデミアの機能不全、代替医療と宗教、科学と法廷といった社会全般を語る言葉であり、真実を幻へといざなう負の引力を帯びている。(p.265)

1点だけ著者の村中さんと意見を異にするのは、子宮頸がんワクチン問題が日本社会特有だと私は考えていないことだ。自らが損するかもしれないリスクについて、冷静に客観的に判断できないのはヒトの本質であり、他国でも同様のことは起きうると思う。

子宮頸がんワクチンを作り上げるのも人間であるなら、そのワクチンを過度に恐れ使わないという判断をするのもまた人間である。

とまあ、こんなことを書いておきながら、著者の村中さんの取組みには感服するほかない。正義を振りかざす人たちに、それは間違っていると指摘するのは、途方もなく大変だし、自らの身を危険に晒すし、そういった活動が称賛されることはほとんどないからだ。この度、ジョン・マドックス賞を受賞し、本書の出版に至ったのは、素晴らしいことだと思う。もっと注目されても良いはずだ。

子宮頸がんワクチンは、現在、世界約130カ国で承認され、71カ国で女子に定期接種、11カ国で男子も定期接種となっている。男子にも接種するのは、子宮頸がんワクチンは、肛門がんや咽頭がん、陰茎がんなど男性に多いがんも予防し、女性の多くが男性パートナーから感染するからである。(p.191)

私には娘はいないが、息子にも子宮頸がんワクチンを接種してもらおうかな。私自身も接種してからだろうけれど。妻にも接種を勧めたい。でも調べてみると結構高いな…。3回も接種しないといけないし。悩ましいところ。注射嫌いなんだよな。

東京医大の論文が撤回されるなど、反・反ワクチン側に流れが来ている。次はワクチン再開の行政判断だ。人間は自らの器質的欠陥を乗り越え、正しく判断に至るようになることを信じているし、信じたい。

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(感想文の感想など)

2020年7月に 9価ワクチン(9種類のウイルス感染を防ぐ)シルガード9の製造販売が日本で承認された。

そして10月になって、厚生労働省が子宮頸がんワクチンの新リーフレットで有効性などを紹介するようになり、1%と言われる接種率を少しでも上げようとしている。集団訴訟を受けている中での、ギリギリの対応というところなんだろうか。

少しずつでも良いので、いい方向へ向かって欲しい。

感想文18-14:アメリカ 暴力の世紀

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※2018年5月11日のYahoo!ブログを再掲

 

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これまでに何冊もアメリカ関連の本を読んできた。新しい順番で、ドナルド・トランプ 劇画化するアメリカと世界の悪夢(感想文17-03)反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体(感想文15-27)政府は必ず嘘をつく アメリカの「失われた10年」が私たちに警告すること(感想文12-34)新聞消滅大国アメリカ(感想文10-57)といったところ。

私にとってアメリカという国は、熱量がハンパなくあり、何をするにも極端に映る。そして、これまで読んだ本には表立って出てこなかったが、付け加えるなら暴力的にも映る。

今でも頻繁に銃の乱射事件が起こり、トランプ大統領が「じゃあ、教師が武装すれば良いじゃね」とか言い出す始末。暴力による問題は、より強大な暴力で解決すべし、という論理的思考になるのかもしれないが、延々と終わることのない暴力のスパイラルを国際規模で起こしまくっているのがアメリカという国なのだから、国内問題についても同様の手法を用いようと思い至るのは、確かに論理的な帰結なのかもしれない。

さて、本書だが、センセーショナルなタイトルだ。ところが原題は、「THE VIOLENT AMERICAN CENTURY」であり、直訳すると「暴力的なアメリカの世紀」であり、邦訳よりも辛辣度が強い。

内容はタイトルに負けず辛辣で、アメリカという国、国民、そして国民が選んだ大統領の暴力性と無自覚ぶりを繰り返し徹底的に批判している。

トランプの極端な言語表現と行動を好む性癖は、もともとアメリカの気質なのである。彼は、アメリカの国家と社会には力があり、その力が第二次世界大戦依頼、繰り返し自国の高貴な理想を唱導し、推進してきたと考えている。しかし同時に、実はそれが、アメリカの軍事化と世界的規模での非寛容性と暴力行使に積極的に加担してきたのである。この後者のアメリカは、常に、偏狭な行為、人種偏見、被害妄想とヒステリーを生み出してきた。ドナルド・トランプのような扇動政治家で残酷な軍事力を重要視する人物は、こうした状況でこそ活躍するのである。(p.ix) 

私たち日本も例外ではない。アメリカの軍事行動、直截的には暴力行為を面と向かって諌めるようなことをしてこなかったし、むしろ支持してきた。日本国民の多くはアメリカの暴力を支持する政治家を支持してきた。そういう意味で、同じ穴の貉とも言える。

21世紀の10年代には、アメリカはほぼ70カ国で800以上の基地を持ち、15万人の兵員を配備している。アメリカの年間の軍事関連予算は、世界のその他のほとんどの国々の軍事関連予算を合計したものよりも大きい。想像可能な最も精密な破壊手段の維持とその絶え間ない最新化、そして、それに追随しようとする同盟国や仮想敵国に対する威嚇という点では、アメリカに匹敵する国は全くない。(p.xix)

しかし、圧倒的な軍事大国であるアメリカに誰が物申せるのだろうか。日本は確かに北朝鮮からのミサイルで日常の平和が侵されるかもしれないが、それ以上に、アメリカが本気で日本を標的にすれば徹底的に壊滅させることは可能だ。

経済の低迷、多くの餓死者、情報統制、親族や側近の処刑・暗殺など、北朝鮮の国家マネジメントがうまくいっているとは到底考えられない。率直に言って、北朝鮮は失敗国家と烙印を押されても致し方ない。そんな迷惑な隣国ではあるが、日本の行動変容(政策)に影響を与えている国家は、北朝鮮ではない。暴力にはより強大な暴力で対応したがるアメリカだ。

諌めることは難しいし、かといってアメリカが暴力で解決しようものなら、日本にも飛び火するかもしれない。北朝鮮の味方をするのは論外だから、経済制裁アメリカの脅しでとにかく北朝鮮の軍事行動を諦めさせるしかないな、となる。たぶん。現実はもっと複雑だろうけれど。

北朝鮮は悪くない、話し合えば時間がかかっても解決するというのは、無理筋だ。北朝鮮が聞く、聞かないではなく、アメリカが聞く耳を持たない。北朝鮮問題は、失敗国家たる北朝鮮が起因する問題ではあるが、本質として捉えなければいけないのはアメリカの圧倒的な軍事力と暴力性だ。

本書の解説にこうある。

ここで描かれているのは、戦後にこれまでの70年以上にわたる「パックス・アメリカーナ」の追求が、実は、「平和の破壊」をもたらす連続であったということである。すなわち、「暴力的支配」が産み出す「平和の破壊」を、「支配による平和」に変えようとさらなる「暴力」で対処することによって、皮肉にも、「暴力の強化」と拡大を「戦争文化国家」であるアメリカが、世界中で、繰り返し、悪循環的に産み続けてきたという事実である。(p.185)

パックス・アメリカーナ(Pax Americana)とは、ウィキペディアによると『「アメリカの平和」という意味であり、超大国アメリカ合衆国の覇権が形成する「平和」である。ローマ帝国の全盛期を指すパクス・ロマーナ(ローマの平和)に由来する。』とある。

アメリカが平和をもたらしたというのは、事実と全く異なる。平和を破壊し、暴力的支配を生み出してきたのだ。

第二次大戦以降の長い戦後の時期を比較的平和な時期であると称することは、不誠実なことである。なぜなら、それは、実際に起きた、そして今も起きている大量の死と苦悩から目を逸らせると同時に、1945年以降の軍事化と破壊行為を低下させるのではなく、逆に促進させたことに対するアメリカ合衆国の責任の重さを不鮮明にしてしまうからである。(p.003)

日本では終戦記念日頃に戦争映画が放映され、その時に、もうこんなことは繰り返してはいけないと反省する。この平和な時代をずっと維持し続けるのだと、思いを新たにする。

しかしだ。現実世界では、今でも多くの人が暴力によって命を奪われている。圧倒的な軍事力を持ち、傲慢で、無遠慮なアメリカが暴力的支配を生産している。

本書の論旨を整理しつつ、自分の意見を入れたいが、どうしたものかと途方に暮れている。どうすれば暴力の強化の連鎖を止めることができるのだろうか。たまたま結果的にアメリカが圧倒的な軍事力を保有した国になったが、アメリカでなくても他の国が同様の立場になるのかもしれない。

人類はどこに向かうのだろうか。若い読者のための第三のチンパンジー(感想文16-18)にあるように、人間の2つの性質がジェノサイドと環境破壊だとしたら、どうすれば良いのだろうか。

国家という仕組みが限界に来ているのか。あるいは資本主義社会という制度がまずいのか。はたまたヒトという生物が本質的に有する欠陥なのか。それらの組み合わせによるのか。

全く異なる社会制度の構築、AIによる合理的な統制、ゲノム編集によるヒトへの介入…。SF的な解決策を夢想するが、同時に失望してしまう。なぜ世の中は上手くいかないのだろうか。

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(感想文の感想など)

盛り上がるアメリカの大統領選挙を見ていると憂鬱になってくる今日この頃。もともとネガティブ・キャンペーンはよくあったけれど、印象操作やフェイク・ニュースやSNSでの誹謗中傷にも慣れつつある。

選挙カーが候補者の名前を連呼して走り回る姿は日本の選挙の風物詩だけれど、こんなことでは日本は政治的に後進国のままだなと思っていたら、多くの先進国と呼ばれる国が分断と暴力でアウト・オブ・コントロールになっているのを見ると、(自分も含めた)人間の愚かさに目眩がしてくる。

どうすりゃいいんだろうね、ホント。

感想文18-28:安楽死を遂げるまで

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※2018年7月30日のYahoo!ブログを再掲

 

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定年後 - 50歳からの生き方、終わり方(感想文17-41)を読み、定年後の生き方について考えることがあった。40歳を目前にし、定年、老後、そしていつか迎える死について、気が早いと言われるかもしれないけれど、考えてみる機会を持ちたいと思い至った。

本書を読み終えるまで、私は安楽死には賛成の立場だった。死のタイミングを自ら選べるのは良いことだし、そういう権利が認められても良いと考えていた。だが、今は違う。強く否定はしないまでも、かといって日本で安楽死を合法化してくれと要求することにためらいが生じた。

今よりもずっと若い頃は、ドライで、怜悧で、合理的に生きたいと望んできたが、どうにも世界はそんなに単純に作られているわけではないということを思い知るようになった。世事に疎く、社会性に欠いた生活をいつまでも続けることはできないし、そういった姿勢が自己保身でしかないと身に染みて分かってきた。

かつて脳死者からの臓器移植についても、助かる見込みがなく、本人が生前同意していればそれで良いと考えてきたが、その認識も変わった。生きること、死ぬこと、それらを本人だけが判断し、選び、決定することは、正しいのだろうか。誰にとって正しいのだろうか。正しさって何?という感じで、割り切って考えることができなくなってしまった。

人間が一人で生きているわけではなく、誰かに助けられ、誰かを助け、影響を受け、与え合っている。子どもが生まれ、親になり、子どもらの成長を見ていくと、私自身の考えが変わっていってしまった。

本書で紹介していく安楽死や自殺幇助とは、自然な死を迎える前に、医師の手を借りて死期を早める行為である。スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクアメリカの一部の州と、ここ最近ではカナダでも患者は自らの意思で死を決定することができる。それは「自然な死」ではない。(p.7)

そもそも本書を読もうと思ったきっかけは、「104歳豪科学者、スイスの専用診療所で安楽死」というニュースを見たからだ。

国内では禁止されている、あるいは規制が厳しい医療行為を受けるために、合法化している、あるいは規制がゆるい国に渡航し受けるケースがある。代理懐胎や小児の臓器移植などが代表例だ。(医療行為とするかどうかはさておき)安楽死もツーリズム化している現実を知り、驚き、困惑した。

死ぬために、わざわざ遠い海外へ渡る。そうまでして死にたい人がいる。経済学的には死にたいという需要があると言える。しかし、おいそれと死や死に方を供給できるものではない。法的に認められている国であっても、お金さえ払ってくれれば、あなたの望む死を供給しますよという制度では決してない。

本書は、骨太の取材記録である。ヨーロッパ、アメリカ、そして日本。著者は実際に臨終の場に同席し、安楽死を受ける人、残されたパートナー、家族、施術した医師、周りの人たちなどから多くの生の声を聞きまとめている。

それらを腑分けし、調理し、提示したものではなく、むしろ素材そのままを読者に与え、考える余地を幅広く残している。多くの安楽死の事例が載っているが、いずれも重く、読み進めるのに辛さが伴う。読者でさえそうなのだから、直接的に多くの死に触れた著者は、書き上げることに相当のエネルギーを費やしただろう。

この取材を通し、早い段階で実感したことは、世界の医療関係者も安楽死について、意外と知識を持ち合わせていないという事実だった。生きるための医療を進歩させてきた人類史上、死ぬための医療が認められてから、数十年に満たない。(p.343)

衛生・栄養状態が改善され、医療技術が発展するに伴い、人間は長生きできるようになった。かつて不治の病とされてきた感染症生活習慣病を治せるようになり、今ではいよいよがんを克服できるようになるかもしれない。

そして私たちは「選べる社会」に適応し、馴致し、先鋭化し、正しいことであるとすら思うようになってしまった。毎日の食事や余暇の過ごし方だけでなく、職業、人生のパートナー、子どもをもうけるかどうか、様々なライフイベントも選べるようになった。もちろん、選べない人も、選ばれない人もいるのは事実であり、それは別の問題かもしれないけれど、選べる社会であるという前提だからこそ、悩みがより深まったと言える。

「条件付き」ではあるが、生と死についても一部、選べるようになってきている。人工妊娠中絶、男女産み分け、脳死者からの臓器提供、延命治療の拒否(消極的安楽死)など。いずれも議論の尽きないテーマではあるが、自己決定権が所与のものとされる社会において、自分で選択することが良しとされつつある。

(日本では)「迷惑の文化」が根ざしているように私は思った。何らかの理由で病を患った人間が自らの看病や介護を周囲の人間にさせたくない、人の手助けを借りなければ生活できない自らを恥だと思う心理である。終末期の生き方を個人の人権として考える欧米とは違って、日本には最期まで集団意識がつきまとう。(p.339)

迷惑をかけたくない、恥を晒したくない、晩節を汚したくない。こういった心理、つまり自己決定であるかのようでいて、他者からの視線を慮った結果の判断ということに根付いた安楽死は、本当に「正しい」のだろうか。

終末期の患者も国民の一構成員だ。働けない、動けない、何も生み出さない、医療費がかかる、という観点だけで、不要という烙印を押され、圧力をかけられ、死を選ぶ。これとどこがどう違うのか。

一方で、耐え難い延命の苦痛から開放され、家族に囲まれながら穏やかに死を迎えたいという甘美な妄想も私を縛る。同調圧力は関係なく、自らの手で自らの人生に幕を下ろすことの何が悪いと強弁されると、返す言葉もない。

それでもだ。私は「生きる」というより「生かされる」という考えにシンパシーがある。死に方やタイミングは選べない。いつか死を迎えるまではただ「生かされている」のだ。

もちろんこの考えを他者に強要するつもりは毛頭ない。安楽死の合法化を求める人に賛同もしないが、否定もしない。ただし、私の家族に対しては、私自身の考えを伝えることになる。そのうえで、改めて家族で結論を出せればいいし、場合によっては決裂してしまうこともあるだろう。

いつかかならず来る死の前に、意識したくはない死について、あるいは生きること、生かされることについて、こうして整理できないままであっても、「今の」考えを残しておきたい。

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(感想文の感想など)

2年ちょっと前の自分の意見に圧倒される。よく考えられているなと。

結婚式よりもお葬式の機会が増え、死が迫ってきていることを実感する。

死を選べてしまうことへの誘惑と抵抗。年に1度くらいは死について考えてみるのも悪くないかな。死について考えられるくらい、齢を重ねたのかもしれない。